『楓屋家』




「あたし、最近アヒージョ作れるようになりました!」


 楓屋夫妻が荷物を全て下ろし終え、仏壇にも手を合わせた後、やがてリビングでくつろいでいた五人の話題が『夕飯は何にしようか?』となったところで、にわかに紅葉が立ち上がり手を上げてそのように主張した。三人が呆気に取られていると、「なかなか美味しいんですよ」と夫の佳代秋が苦笑気味に補足した。


 両親が死んでから一人暮らし用の少々小さなものに買い換えられた官舎本家の冷蔵庫はこの度ひづりたちが宿泊するとあって一応それなりの食材が家主の甘夏によって買い込まれ詰め込まれてこそいたが、しかし残念ながらいくつかその調理に必要な材料が足りておらず、そのため家に着いたばかりだったが楓屋夫妻はひづりと幸辰を乗せた四人で再び車を出す流れとなった。また官舎本家では二つほど持ち寄った花火セットを開け、それを毎年送り火の代わりに庭で行っていたのだが、今年甘夏はうっかり買い忘れてしまったとのことで、それもスーパーマーケットで買って来るよう頼まれた。


「……ヤニ切れた。コンビニ寄って良い……? 近い所、どこ在ったっけ……」


 佳代秋も運転が出来ない訳ではないらしいが、妻の紅葉いわく「下手くそ」だという。なので買い出しでの運転も紅葉が受け持っていた。


 最初は幸辰が「俺が車を出すよ」と言ったのだが、夕飯の献立も含め、かっこいいところを兄と姪に見せたいようで、紅葉は「自分が運転する」と言って聞かなかった。


 しかし、紅葉にはその時点で既にそれなりの心労が溜まっている事をひづりはその眼で見て取っていた。山梨からの運転もそうだろうが、しかしこれはまた別の話であった。


 ずいぶん前に聞いたものではあるが、父の幸辰いわく、紅葉は学生の頃、それはもう見事な不良だったという。それでも当時から既にブラザーコンプレックス気味だった彼女は幸辰の言う事だけはそれなりに聞いていたらしいが、しかし長女の甘夏はそんな紅葉にずいぶんと厳しかったという。


 甘夏と紅葉は姉妹でも十歳の差がある上、長女の甘夏は当時から既にしっかり者で頭も良く舌が回り、そして何より暴力の面でも圧倒的に優れていた。そのため紅葉がどれだけヤンキーぶって強がってもあらゆる面で勝ち目がなく、今でこそ嫁に行ってちゃんとした仕事に就くほど落ち着きはしたが、未だに紅葉は当時の姉妹間の感情が拭いきれていないらしいのだ。


 だから、買い出しでちょっと姉から逃れたいという気持ちと、そして「自分も美味しい料理が作れるんだぞ」というところを姉に見せ付けるため、彼女は家に着くなりこのような行動に出たらしい、という事を、ひづりは車に乗り込んだあたりで気づいたのだった。


 しかし紅葉はもうその段階で既に充分に限界を迎えていたらしく、車を出すなりすぐに背中を丸めて喫煙の許可を申し出た。


「良いけど、四キロくらい先だな。スーパーの割とすぐ手前だぞ」


「ぇぃー……」


 返って来た兄の言葉に、紅葉はみょうちくりんな奇声を小さく漏らした。


 ただ、『ヤニ』と聞いて、ひづりは少しばかり居心地の悪さを感じるに至り、またそれが楓屋紅葉の口から出た事で弥が上にも落ち着かなくなってしまった。


 実はひづりはこの楓屋家との間で、煙草について《とあるやり取り》がかつて二つほどあったのだ。


 するとそんなひづりの様子を察したらしい……いや気づかないほうがおかしいといえばそうなのだが……助手席の佳代秋がにわかに振り返って言った。


「へへ、ひづりちゃん、憶えてる? 聞いての通りみーちゃん、未だにひづりちゃんとの約束ずーっと守ってるんだぜ?」


 そうして佳代秋はその丸顔に意地悪そうな笑みを浮かべて見せた。


「あーうるせー! 佳代くんは黙ってろし!!」


 紅葉はハンドルから片手を離し、佳代秋の頭を軽くひっぱたいた。


 ひづりとの約束。そう、それがまずその《とあるやり取り》の一つ目だった。ひづりはなんとも言えない表情を浮かべたまま肩を竦めて窓の外に視線を放った。


 七年ほど前の事だ。ひづりが十歳、紅葉が三十一の頃。時季は年末年始、当時は甘夏たちの両親も健在だったため官舎の本家は親戚一同が集まって賑わっていた。


 それはそんな折での事だった。今日のようにちょっとした買い出しにと三人で出かけた際、紅葉が目的地への道中でにわかに煙草に火を点けたのだ。するとすかさずひづりが彼女を叱った。


 少々面白い光景であった。十歳の子供が、その『歩き煙草の危険性』について、三十一歳の叔母に、街中でハキハキと説教を述べ始めたのだから。


 その頃からすでに紅葉はその性格が兄の幸辰に似てきていたひづりの事を可愛がりに可愛がっていたが、煙草の事まで口出しされるのを面倒に思ったようで、最初は不愉快そうな顔をした。姉に叱られ続けた過去を思い出したからだろう。


 しかしひづりが真剣に真っ直ぐこちらの眼を見つめつつ、また同行していた父の幸辰に対しても『お父さんも、妹が悪いことしてたら、止めなきゃ駄目だよ!』と言うものだから、紅葉はついに折れたのだった。


『分かった。二度と歩き煙草はしない。みーちゃんお姉さん、ひづりちゃんと約束する』


 そう言って彼女はひづりと指きりの約束をしたのだった。


 そしてそれからというもの、彼女は本当に人前や外出時などでは必ず喫煙可の場所でしか煙草を吸わなくなったと言う。つまりもう七年間、その幼かったひづりとの約束を彼女は律儀に守り続けているというのだ。


「……紅葉さん、ありがとうございます」


 今言えることはそれくらいしかなくて、ひづりは後部座席から彼女にぽつりとそう伝えた。


 ……彼女は知っているのだろうか。ひづりが二年ほど前に、その煙草に関する事でどうしようもない感情に突き動かされ、酷く暴走してしまっていた事を。いや、きっと知っているだろう。父の幸辰と仲良しなのだ。ひづりのそんな話、紅葉に回っていないはずはないだろう。


 バックミラー越しにちらりと眼が合うと、彼女はまた正面に視線を戻して快活な笑い声を上げた。


「うへへへ! 褒められちった! ひづりちゃん好き~大好き~。あとで叔母さんに『いいこいいこ』してくれる?」


「冗談キツイです」


「冗談じゃないよ本気だよ~!? なぁ兄貴! それくらい、ご褒美貰っても良いっしょ~!?」


 紅葉は視線を正面に向けたまま後部座席の兄に懇願した。


「……紅葉。言っておくが、ひづりの『いいこいいこ』は最高級の嗜好品だぞ。煙草を吸う前に、まず心と体を清めてから挑め」


「ちょっと。何勝手に許可出してんのさ」


 ひづりの父への抗議に、しかし紅葉はもう決定した事として受け取った様子で歓声を上げた。


「やったぁー!! ひづりちゃんに『いいこいいこ』してもらえるー!! 約束守った甲斐あったぁー!!」


 ……何なんだろうか、うちの血縁の女は。……いや、まぁ、別にやぶさかではないのだけれども。


「そう言やぁ、煙草と言えば千秋のやつ。今回もまぁたどっか出て行きやがって、着いて来たがらなかったな。……ひひひ。あいつ、ひづりちゃんが怖くてかなわないんだぜ。情けねぇよなぁ」


 すると続けて佳代秋がひづりもよく知っている少年の名前を出した。一旦落ち着きを取り戻し掛けたひづりだったが彼の名前を聞くとすぐにまた、ぐっ、と居心地の悪さが胸に湧き上がって来て再び視線が我知らず泳いだ。……これがそのもう一つであった。


 こちらは二年前。……ひづりが荒んでいた頃の事だ。


 その日はひづりの祖父母の葬式で、親類一同が官舎本家に集まっていた。少々頑固な性格だったがそれでもひづりは祖父の事が結構好きだったし、甘夏似の祖母のことも好きだった。だから葬儀のあと皆が食事を始めるとひづりは席を抜け出して家の裏で一人泣いた。


 その時、楓屋夫妻の一人息子である千秋が隠れてこっそりと煙草を吸っていたのをひづりは偶然目撃した。……あとは察しの通りである。


 『おじいちゃんたちの葬式の日に、一体何をしているのか』と説教したところ、千秋はひづりの母を侮辱する発言をした。『顔が似ている』から始まり『どうせ海外で男でも作って遊んでいるんだろう』などなど、好き放題言った千秋のその顔面が最終的に迎えたのはひづりの腰が入った鋭い右ストレートだった。


「あー、それも懐かしいね。騒ぎになって見に行った時にはもうひづりちゃん千秋のことボコボコに殴ってたよね。ふふふ、憶えてる? ひづりちゃんがあの時、千秋に言ってやったことさぁ?」


 実の息子がナイアガラの滝ように鼻血を垂れ流した話であろうに、紅葉はハンドルを握ったままやけに楽しげに訊ねて来た。


「…………いやぁ、憶えてないっすね……」


 ひづりはまたそっと視線を背けて肩を竦めた。嘘である。本当は憶えていた。


「『これでテメェのツラも親父そっくりになったぞ! どうだ! 何ならもっと男前にしてやろうかクソガキ!!』って、あは、あはははは!! へへへ、へへあはははは!!」


 そう言って紅葉は一人、思い出し笑いに盛大な花を咲かせた。そのせいで車が若干ぐわんぐわんと左右に揺れた。……畜生、なんで一字一句憶えてるんだ、この叔母は……。


「ぁああ……もう、その件に関しては謝ったじゃないですか……」


 ひづりが縮こまったまま気まずく訴えると、一段落笑い終えた紅葉が「あぁ、いやいや」と手を振って返して来た。


「違うの違うの。あれはほんと最高だったからさ。いいのいいの、だーれも怒ったりしてないからさ。……あーあぁ、ほんと、あたしもひづりちゃんみたいなしっかりしてて優しくて可愛い娘が欲しかったなぁ~ん……」


「お? どうする? 今夜にでも仕込むか?」


 紅葉が駄々をこねていると、にわかに助手席の佳代秋がそんな事を言い出した。一瞬車内の空気が凍ったようだった。


「バッカ!! ひづりちゃんの前で何言ってんだ! ……ごめんね~ひづりちゃん、うちの旦那下品でさ~。ほんとしょうがないの」


 旦那の肩を思いっきりひっぱたいた後、紅葉は後部座席の兄と姪に謝った。しかしひづりと幸辰はちょっと固まっていた。それはそうである。幸辰にとって紅葉は妹で、またひづりはその手の話が少々苦手な上、しかもそれが身内のこととなれば、生々しくてとても聞いていられやしない。


 しかし楓屋佳代秋とはこういう人なのだ。考えや行動がどうにも古臭くて粗暴。ひづりは彼のこういった部分が本当に苦手だった。加えて正直に言えば、ひづりはどうして紅葉がこのような男と結婚したのか、そこからもう理解出来ないほどだった。


「……いえ、まぁ、これくらいなら、多少は」


 しかしこれ以上車内の空気を暗くしたままにするのも紅葉に悪いと思い、ひづりは視線をまた窓の外に向けつつ、無言の父の代わりに返事をした。


「……っていうか、そもそも無理だし」


 すると不意にシラフに戻った声音で紅葉が言った。顔を上げたひづりがバックミラー越しに見たそれは、やはり冗談を挟まない時の楓屋紅葉の眼差しだった。


「だって官舎も楓屋も、平凡な血だもん。普通に優しかったり、普通に臆病だったり、普通にバカだったり。ほんとに普通の血。けど、……万里子さんの血は違う」


 ……今、彼女が扇家の名前を出しそうになって、しかしそれをすぐ別の言葉に置き換えたのがひづりにも分かった。普段の振る舞いから紅葉は周囲に少々がさつな印象を抱かせがちだが、実際はこういった配慮の出来る人だった。


「ちよこちゃんも、ひづりちゃんも、官舎家とは絶対的に違う血の性格が出てるの、見てて分かるもん。ひづりちゃんは兄貴に似て、優しくて可愛くてとっても可愛いけどね~? ……けどやっぱり、万里子さんの方の《特別な血》が、ちゃんとそこに出てる。普通の人の線から、一歩どころか十歩くらい飛び出してる。そんでそういう人の周りには、人生のうち、本当に良い人ばっかりが集まってくるもんなんだよ」


 その口唇から普段あまり聞かない重みのある声音で彼女はその経験則から来るものなのであろう持論を締めくくった。


 母方の血に特別な何かがあるなどと思ったことは一度も無いが、しかしそう言われてみれば、自分の人生に於いて今の話の後半部分はあながち間違ってないのだろうな、とひづりは思った。


 アサカやハナ。そして七月に出会った大切な人たち。自分は本当に交友関係には恵まれている。それに関してだけはひづりは一切のおごり無く真摯に受け止めているつもりだった。


「……母方の血がどうとかは分かりませんが……たしかに私には、良い友達と、良い知り合いがたくさん居ますよ」


「でっしょ~?」


 あたしってば人を見る眼はあるんだから~、と紅葉が言うと、そこへひづりはすかさず付け足した。


「紅葉さんのことも、私はそのうちの一人だと思っていますよ」


 バックミラーの中で再びひづりと紅葉の視線が交わった。


「……兄貴、ひづりちゃん、うちに養子に貰って良い?」


「その話はついこのあいだ花札さんのところでやった。ダメ」


「くそがっ!!」


 ひとまずの目的地であったコンビニに着くと紅葉はスムーズに素早く駐車するなりバタン、と運転席を真っ先に出て回り込み、ひづりの座席の扉を開いてその手を引きつつ片方の膝をついて見せた。


 見上げたその眼をやたらにキラキラと輝かせながら。


 …………あー、はいはい……。


「いいこいいこ。いいこですね、紅葉さんは。ちゃんと約束を守れて、偉いですね」


 なでりなでり。金髪に染められつつも若干根元がプリンになっている父方の叔母の頭を、ひづりは公衆の面前で撫で回した。


「へへ、えへへ、へへへ。ふへへ……」


 最初は平常心で撫でていたのだが、紅葉が普段のその男勝りな雰囲気を出し抜けに全て消滅させ、さながら幼い子供の如き笑みを浮かべながら抱きついて来ると、ひづりもひづりで急に照れくさくなり、にわかに顔が熱くなってしまった。


「よし、そこまでだ紅葉。さっさとヤニ吸って来い。ひづりもコンビニで買い物するんだから」


「うえええ! もうちょっとぉぉ! もうちょっとだけぇぇええ」


 紅葉は兄の腕力によって姪から引き剥がされその重心を持ち上げられると、そのまま喫煙所の方へと連行されていった。


「やはは。妻がすまんね」


「いえ、最近、割と慣れっこなので」


 佳代秋と短く会話したのち、紅葉を喫煙所に放置してきた幸辰と共にひづりは店内へと入った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る