『お前はバカか』




「お前はバカか!!」


 映し出されていた百合川臨の《過去》の上映が手短に終わり、やがて視界が正常に山中広場を捉え始めたところで、ひづりはキレた。


 よもや親類の繊細な《過去》を映し出していたその《グラシャ・ラボラス》による《過去視》の上映の締めくくりに、こんな馬鹿な男子高校生の《過去》を見せつけられるとは思ってもみなかった。


 呆れと怒りが綯い交ぜになった感情のまま、立て続けにひづりは怒鳴りつけた。


「《百合》って、お前……そんなもんのために、お前……!!」


 この際、勝手に《百合ハーレム》だの《究極の百合》だの言われていた事は良しとする。こいつが突拍子も無い阿呆な事を言い出すのはいつもの事だから良い。


 それよりもだ。今、最も腹に据えかねるのは、この馬鹿が、そんな馬鹿げたことのために命を捨てようとしていた事だった。


「……おいラウラ、話が違うんじゃないか。官舎、めちゃくちゃ怒ってるじゃないか。殺されそうだぞ、俺」


 腹の底からの怒号を叩き付けられた百合川は盛大に仰け反ったあと体を縮こまらせてまるで小動物の様にラウラの陰に隠れた。


「嘘なんて吐いてませんよ? ひづりは百合川の趣味を知っても、きっと百合川のこと嫌いになったりはしないと思いますよ、って私は言いました。百合川が殺されるほど怒られるかどうかについては一言も触れてません」


 斜め上に視線を伸ばしてラウラは「自分は悪くない」という態度を示した。


「いいや、ラウラにも怒ってるんだよ私は。なんで最初に説明してくれなかったのさ」


 ひづりがじろりと睨みつけるとラウラは丸くした眼で一つ瞬きをしてから背後の百合川を捕まえて差し出して来た。


「どうしてくれますか百合川。百合川のせいで私もひづりに怒られてますよ。一発、ガツンと殴られて来た方が良いんじゃないですか」


「え、いやいやいやいや嫌だよ絶対! 知らないだろラウラ! 官舎、柔道めっちゃ強いんだぜ! 伯母さんに小学生の頃教えてもらってたとかでさぁ! 見ろよ、あれ絶対手加減してくれる顔じゃないぜ!?」


「死ななきゃ《治癒魔術》くらいかけてあげますよ」


 二人はひづりと天井花イナリの前で果てしなく見苦しい言い争いを始めた。


「……よく、分からんかったのじゃが……。つまりは、その、そこの百合川……あやつは、ひづりがアサカや千登勢と乳繰り合うておるのを眺めるのが楽しいと……。それで今回の《契約》を、《グラシャ・ラボラス》と結んだ……と……?」


 これほどまでに歯切れの悪い物言いをする天井花イナリをひづりは初めて見た。そして、彼女が何かに対してドン引きしている表情というものも、今日初めて見た。


「ええ、その通りです。私と百合川の《願望》は利害が一致していました。私は万里子が果たせなかった過去の清算を。そして百合川はひづりの中に見ていた《百合ハーレムの才能》が完全に発揮されることを。この二つを達成するために、私は今日という日を最後の一日に定めたのです」


 ラウラは拒む百合川の背中を押し、ずりずりとこちらに突き出しながら言った。自分が怒られるのは御免、とばかりに。


 つまり、信じたくなかったが、本当にそういうことらしかった。


 官舎ひづりと官舎万里子、この母娘に深い関わりを持つ親類たちの間で長らく燻り続けてきた後悔やわだかまり……それらをラウラは、《グラシャ・ラボラス》はその《能力》で以って今日、解決に踏み切った。


 そしてそれは同時に、官舎ひづりを取り巻く……曰く、《百合》――。官舎万里子と花札千登勢、官舎ひづりと花札千登勢、官舎ひづりと官舎甘夏、官舎万里子と楓屋紅葉、官舎ひづりと楓屋紅葉、といった、《二人の女性の間に生まれる感情の有り様を眺めたい》と願った百合川臨の《願望》も並行して達成するという目的があった、という。


 《グラシャ・ラボラス》という《悪魔の王》は、《未来と過去を知る力》の他にまだ二つ、特別な《能力》を持っている。ひづりは事前に《ゴエティア》を読み、加えてその知己である天井花イナリからも詳しく教えてもらっていたためそれを知っていた。


 その内の一つ、《人の不可視化》は、文字通り《人を透明にする魔術》だという。効果としては《認識阻害魔術》に近いが、《知覚した対象の認識を歪める》それと異なり、《人の不可視化》は場所も距離も相手も問わずあらゆる眼という眼からその存在を隠匿出来るらしい。


 先ほど百合川が姿を現した際、その周囲に展開するなりすぐ消えた《魔方陣》の模様は《認識阻害魔術》とも《転移魔術》とも異なっていた。つまりあれがその《人の不可視化》の《魔方陣》だったのだろう。そうして思えば、最初にラウラが《結界》を張った際に浮かび上がった《魔方陣》ともその模様が類似していた気がする。




『わしであってもあの《能力》を見破るは叶わぬ。とはいえ、今日を重要な一日と《グラシャ・ラボラス》が定めるのであれば、やはり《契約者》である百合川は傍に置いておる可能性が高い。そして実際……《グラシャ・ラボラス》は今日の行楽を二人きりと言うたようじゃが、今朝方あやつはすでに百合川の体に《不可視化の魔術》を掛けておった。まず間違いなく今日、百合川はお主らの傍に隠れ潜んでおるであろう』




 今朝、出掛ける前に天井花イナリがしてくれた忠告。それは《グラシャ・ラボラス》が自身に優位な森の中の動物園を選んだ事に加え、天井花イナリですら知覚出来ない隠密状態の百合川が同行しているかもしれない、という、どこまでもひづりにとって危険な状況だった。


 それでもひづりはラウラ・グラーシャを信じる判断を覆さなかった。というより、本当に危険で、まるで手の打ち様が無いなら天井花さんは止めるだろう、と思っていた。だから今日のラウラとの外出中止を強く勧めてこないのなら、それは何かあっても彼女には即座に対抗出来る手段がちゃんとある、という事だと捉え、信頼していた。


 不確定要素ばかりを敷き詰めた今日という日を無事生きて渡りきるために、ひづりも天井花イナリも互いに覚悟を決めていた。《ベリアル》の時、死者が一人も出なかったのは本当にただただ運が良かっただけなのだ。故に、あの様な状況を二度も招くわけにはいかない。


 ……だというのに。


 百合川が《グラシャ・ラボラス》に《不可視化》を掛けてもらっていたのは、なんと信じられないことに、ひづりが揺らぐ感情の中で親類の女性たちと言葉を交わすその様を近くで眺めていたかったから……などという、そんな、あまりにも馬鹿げた理由からだったのだ。


 ひづりも女性同士の恋愛を描く《百合》という創作ジャンルがある事自体は知っていた。以前アサカの部屋の掃除を手伝った際、クローゼットの奥からまさにその《百合》を扱う漫画雑誌が出て来て、ちょっとだけ読んだのだ。ただぱらぱらとページをめくっていたひづりを見たアサカの取り乱し様は凄まじく、以来部屋の掃除をさせてくれなくなってしまったが……。いや、それは今はいい。今はこの百合川バカの事だ。








「――あやつがお主を憎んでおる、という可能性は無いのか」


 昨日の正午、《和菓子屋たぬきつね》の和室で天井花イナリはひづりにそう訊ねた。


 《グラシャ・ラボラス》との《契約》に際し、いわく百合川臨が官舎ひづりに対して抱いているという何らかの感情。それについてひづりはまるで心当たりが無く、悩み続けていた。


「分かりません……。この一年半、同じ図書委員として上手くやってきたつもりでしたが……。でもあいつが《悪魔》と《契約》するほど、私が関わることで何か思いつめていた、と言われたら、何も……」


 ひづりは肩を竦め、声もつい小さくなってしまった。


 そう、上手くやってきたつもりだった。百合川とはひどい喧嘩をした事もなかったし、それどころか彼の友人グループに誘われてアサカやハナと共に遊園地だとか川へ釣りだとか、度々出かける事さえあったほどだった。


 だから百合川臨に対しひづりは、少なくとも学校という生活空間の中では最も親しい男子である、と捉えていた。また彼にとっても、共に過ごしていてそれなりに不愉快でない人間として自分は受け入れられてもらえているのだろう、と、そうも思っていた。


 だがそれもやはりただのひづりの主観、願望であって、彼の口からはっきりとそう言ってもらえた訳ではない。


「……では、やはり恋愛がらみの事ではないのか?」


 続けて「それが一番濃い線ではないか?」という真っ直ぐな声音で天井花イナリは問うて来た。


 ひづりは顔を上げてつい首を傾げた。


「それは、私が百合川の恋愛事情の邪魔になっている、ってことですか?」


「なぁにを言うておるのか。百合川がお主の事を好きなのではないか、という話じゃ」


 呆れ気味に言葉を転がした彼女に、思わずひづりは思案に落ち込んだ。


 ……百合川が、私を? 考えたことも無かった。しかしそれも当然だった。百合川の異性の好みについて、ひづりはこれまでの付き合いで漠然とだが知っていたのだ。


 平均より少し高めの身長に、引き締まったスレンダーな体型。それから長いストレートの髪。特に黒髪が良いという。顔立ちも、ちよこやアサカのようなおっとりした感じが非常に好みらしい。


 ひづりは健康診断の際、大抵標準値を記載されていた。太腿は母方の遺伝かちょっとだけ太く、また背はどちらかというと低い部類だった。加えて髪はショートで、父や伯母に似たハネッ毛。顔立ちは……言うまでも無く、見れば鏡が割れそうな目つきをしてる。だからどう考えても官舎ひづりは百合川の好みから大脱線しているはずなのだ。


 それに百合川から二人きりで出掛ける提案を受けたことも、今にして思い返せば一度も無かった。最も少人数だった時でもアサカを交えた三人だった。


 まるで異性扱いされない、という訳でもなかったが、彼が自分に色目を使ってきた事などそれこそ記憶に無い。


「ふむ…………。しかし訊いておいてなんじゃが、お主の証言だけでは正直当てにならんな。お主は他人の事には変に鋭いくせに、自分の周りの色恋に関してだけは信じられぬ程に疎いからのぅ」


 一切の遠慮も無く言い放った彼女のその言葉に、ぐさり、とひづりは胸に太い杭が刺さったのを感じた。耳が痛いとはまさにこういう時に使うのだろう。


 事実だった。幼稚園、小学校、中学校、そして現在、高校。今まで一度もひづりはクラスの男子生徒に恋愛感情らしきものを抱いた事がなく、またそれがかなりの少数派であるという現実を、さすがにそろそろ気にしていたのだ。


 何となく自分はヘテロセクシュアルだと思いつつ、そのうちに誰か男の子を好きになるだろう、なんて思って気づけば十七歳で、未だに異性との恋愛経験はゼロだった。




『――でも、恋愛事に疎くても、それで不思議と誰も不幸になってないんだし、別に良いんじゃない? 無理するもんでもないと思うし……それにひづりんは妙な色気出さない方があたしは好みだぜ』




 去年の冬休み前、クラスの誰々に彼氏が出来た彼女が出来たといった話題がちらほら出ていた際、そんな事をハナが言ってくれたのを思い出した。当時はその言葉に励まされたものだが、今では疑念ばかりが浮かんでくる。


 誰も傷ついていない……果たして本当にそうだったのだろうか? 自分の鈍さによる不注意が、今回百合川を追い詰めるに至った原因なのかもしれないのだから。


 それからひづりは、会った事も無い故に分かるはずもないと承知で、千登勢や《ヒガンバナ》にも相談してみたのだが、やはり答えなど出てくるはずもなかった。


 この手の話に堪能なハナやちよこに相談出来れば良かったのだが、しかしそれは諸々の理由から憚られた。


 まずハナは、彼女は確かに人間関係の些細な変化というものに非常に聡くはあるのだが、それが逆に不安だった。あまり嘘が上手でないひづりの隠し事などすぐ見破ってしまう彼女では、感づかれてはいけない部分……百合川が《悪魔》と関わっているというところまで、ひょっとしたら知られてしまいかねない。ひづりは、出来ればハナやアサカにはこの危険な《悪魔》の話に関わらせたくなかった。


 次に姉のちよこだが……彼女はひづりよりも先に《悪魔》について知識を得ていたし、母から《悪魔》を受け継いだという意味では今回も渦中の人物と言って差し支えはないのだが、何分今は手術後の経過観察中なのだ。無理をさせる訳にはいかない。


 それに、どちらかというとこちらが一番の理由なのだが、ひづりとしてはやはりあの邪悪な姉を頼って、百合川がその毒牙に掛かるような結果を招きたくなかった。


 クラスでは軽薄なお調子者として振る舞っている百合川だが、その責任感がとても強い事はひづりもこれまでの付き合いで分かっていた。この《グラシャ・ラボラス》と百合川臨の問題が無事解決したとしても、きっと百合川は何かしらの後ろめたさを抱くことになるだろう。もしそこへあの悪党を解決の一手として関わらせでもしたら――。彼の将来がどうなるかなど、想像するまでもない。あの女は妹の同級生だろうと平気で食い物にする、そういう生き物なのだ。


 故に、ひづりはこうして何の当てもつけられないまま百合川と向き合うしかなかった。


 ……しかし、それがこの答えなのだ。


 百合川が《悪魔》と《契約》するほど一体何に悩んでいるのか、彼が自分に対してどんな言えない気持ちを抱えてこれまで過ごして来たのか、そしてそんな百合川の気持ちに対して自分はどう向かい合うべきなのか。天井花イナリや花札千登勢とも相談し、この二日悩み続けた事の答えが、これなのだ。


 怒らいでか、これを。


 全て自分達の杞憂、一人相撲だった。


 怒りやら羞恥心やら安心感やら、処理しきれない感情が延々頭の中で渦巻き、ひづりはついによろよろとしゃがみこんでしまった。


「馬鹿なのは分かってたんだぁ……。そうだよなぁ、お前、こういう馬鹿なんだよなぁ……」


 ひづりは自分が嫌になってしまいそうだった。


 ラウラ・グラーシャという転校生の姿は仮初の物。その正体は、母を殺したという《悪魔》、《グラシャ・ラボラス》だった。そして信じられない事に一年生の一学期から同じ図書委員をしていた百合川臨は彼女と《契約》をしており、それを秘密にしたまま自分たちの傍で今まで通り学生をしていた――。


 突きつけられた事実の衝撃があまりに大き過ぎたのだ。そのせいでひづりは分かりきっていた事をまた忘れてしまっていた。


 こういうバカなのだ、百合川こいつは……。


「……百合川。舌を歯の奥にしまって、口を閉じろ」


 ラウラに羽交い絞めにされた格好のままひづりの前に突き出された百合川はやや青ざめた顔でごくりと喉を鳴らした。


 幸い、今回も周囲で誰かが命を落とす様な結果にはならなかった。まぁ、このアホな《契約者》が願った事がそもそもこんなどうしようもない内容だったのだから、当然と言えば当然なのだが。


 しかしけじめはつけてもらう。天井花さんや父さんに心労を掛けさせた事への償いはしてもらう。


 ……それと、もう一つもだ。








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