第2話 『天井花イナリという悪魔』




 拝啓、お父様。本日より勤務開始となった私の職場、姉夫婦の経営する和菓子屋こと《和菓子屋たぬきつね》は、《悪魔》を毎日、朝から晩まで無賃労働させるという、現代のブラック企業打倒運動を微塵も恐れない、それこそ悪魔の様なブラック職場でした。


 人間の心を持たない姉から《彼女達》を救い、この店を真っ当な労働環境に変えるため、私は頑張ります。母さんがいつも国外に居ながら、せめてここまで立派に育ててくれたあなたの娘の一人として。


 ……私の学校の成績に響かない程度に。








 勤務初日。その日、《和菓子屋たぬきつね》は店の備品の位置、接客の仕方、レジスターの使い方、掃除の時間、などなどの説明をひづりが受けるための必要時間として、午前中は休業となっていた。


 説明をしてくれたのは天井花てんじょうかイナリであった。最初の召喚者である母・官舎万里子が名づけたというこの苗字をひづりはこの日、初めて知った。狐に関連する花、彼岸花の別名になぞらえた物だとかで、とても綺麗な名前だとひづりは思った。


 九時より始まり、じきに十二時半が過ぎようとしていた労働内容に関するひづりへの説明に於いて、天井花イナリの説明はとても丁寧で分かりやすく、また優しく、常に尊大な王様のような態度で行われていた。それゆえ、ひづりはその午前中だけで彼女の事をとても尊敬するようになっていた。世の中には物を教えるのが下手な人間が非常に多い事を、これまでの人生でひづりは何度も見て知って来たから、余計にそうなったのであった。


 強力な《悪魔》であったという天井花イナリは、その名前になった事で《悪魔》ではなくなったにせよ、彼女自身が持っていたその大らかで厳粛で真っ当な物言いというのは変わっていなかった、ということなのだろう。あるいは神様の使いになったことで、逆にそうなったのか。《悪魔》だった頃の彼女を知らないひづりにそれは永久に分からない事ではあったが、どちらにせよ、ひどい反面教師を以って育ったひづりにとって、天井花イナリという女性はとても格好良く映った。


「説明終わったー? まだちょっと早いけど営業開始するー?」


 反面教師が雑誌を片手に休憩室から顔を覗かせた。


「もう少し待て。ひづりもまだ実感としては身についてはおらぬじゃろうからの。予定通り昼休憩を挟み、午後の営業時間まで待って今日は営業開始とした方が潤滑に動け、時間の損も減る事じゃろう」


 これだ。教えている対象の理解度を見抜き、その上でより効率的な未来の像を言葉に出来る。一生ついて行きます、と思わせるほどにしっかりとした、仕事の出来る女の雰囲気。羨望に満ちたひづりのまなざしが隣の小さい大先輩に向けられる。


「とは言っても昼休憩まで一時間ある。じゃからひづり、総まとめとして、分からぬ点をあげてゆけ」


「ありがとうございます。じゃあ、もう一度レジスターの使い方と、注文の取り方、教えてもらっても良いですか?」


「よかろう」


 よいよい、許す、といった顔で彼女はひらりと踵を返す。その仕草がまた綺麗で、なびいて揺れた白髪がやや赤みを持つ店内の提灯照明に撫でられ、それはもう艶やかに光るのだ。


 しかしその姿を、どうやら自分達以外の人間には正しく見えていないのだ、という事を、ひづりは今日ちよこから最初に説明されていた。


「母さんに教えて貰った事の一つでね、特別な《魔術》が二人には掛けてあるの」


 ちよこいわく、それは《認識阻害魔術》と言うらしかった。契約者と次期契約者である吉備ちよこと官舎ひづりには影響を及ぼさないが、それ以外の人間、つまりご近所さんやお客さんにそれは強力に効果を発揮しているのだという。


 まず彼らの眼には、天井花イナリという店員は至って普通の欧州人少女に見えており、髪や眉毛は金髪に、瞳は青色に見えていて、そして何より狐の耳も、頬に走る長い角もまるで見えてはいないのだという。


 同時に、本人いわく千いくつ歳だそうだが、外見が少女そのものである彼女を労働に従事させた場合犯罪となるのが現代日本の法律であっても、それに関しても、ご近所さんやお客さんの認識はぼんやりと誤魔化され、可愛らしい娘さんが接客してくれているなぁ、程度に思ってしまうのだそうだ。更に彼女の古風な喋り方も誤認識され、拙い子供の敬語、くらいに聞こえているのだという。


 もちろんそれは、主に厨房などで裏方に徹している和鼓わつづみたぬこも対象になっている。彼女の耳と角と尻尾は見えなくなっており、普通の、ちょっと背が高く、控えめな雰囲気の、しかしやたらとスタイルの良い娘、という風にしか見えないのだという。


 このように、ひづりは姉は《魔術》など一切使えないものと思っていたが、実は三ヶ月前に天井花イナリ達を預かってからというもの、初歩的な《魔術》についてはほとんど頭に入っているそうなのだった。


 彼女は勉強というものが苦手で、また上手でもなかったが、それを自ら学ぼうとした、学んだ、ということは、それほどにこの《悪魔》二人に利用価値があると判断している、という事であり、ひづりとしては複雑であった。


 ひづりは彼女達の労働環境をどうにかしてあげるためにここでの勤務を決意した。定休日以外は毎日朝から晩までほとんど二人だけで働き詰め。しかも給料というものはなく、《悪魔》が栄養とする人間の魂、の現在彼女たちにとってその代替品である稲荷寿司とお酒、ただそれだけを報酬に彼女達はちよことの《契約》に縛られて働かされている。


 その改善第一歩として、自分がフロアの仕事、つまり天井花イナリの仕事を半分だけでも肩代わりしてあげられるようになることをひづりは目標としたのだった。


「しかしひづりよ。お主、その歳にしてはやけにしっかりしておるな」


 教えるのも思いのほか疲れるものよの、と、レジスターを打つ際に専用のお立ち台として使われている木箱に腰掛けて天井花イナリは言った。


 彼女に褒められると嬉しく、また気恥ずかしくなってしまう自分をひづりは隠せなかった。


「ありがとうございます。天井花さんにそう言って貰えるの、とても嬉しいです。……ただまぁ、幼い頃から良い反面教師が居たのと、父が、とてもしっかりしていたので」


「確かに、そこは合点が行く」


 お互い、休憩室の方へ視線を投げた。先ほどちよこが手にしていたのは温泉旅行の特集雑誌だった。


「ふふ、しかしそれだけではなかろう」


 天井花イナリは続けてそう言い放った。レジに触れていた手を止め、ひづりは彼女を振り返った。こちらへ向けられた宝石のように真っ赤な瞳が、頭上のひときわ明るい蛍光灯を浴びてきらきらと輝きを零していた。


「何です?」


 本当に何のことか分からず、ひづりは首を傾げた。するとイナリはほんのりと瞼を薄くしてから視線を正面へと下ろし、おもむろに腕を組んで詫びた。


「自覚が無いか。であれば、それはそれでよいのじゃろう。許し、忘れよ」


「はぁ……」


 満足げでありながら、どこか少しだけ物足りなさそうな、そんな彼女の横顔をひづりは少しのあいだ見惚れるように眺めてしまった。


 じきに昼休憩の時間であった。




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