第5話 『火車の正体』



 5話 『火車の正体』








 《妖怪》の専門家、という、聞けばちょっとわくわくしてしまう様な肩書きの職業があることは、ひづりも以前テレビ番組で観て知っていた。


 正しくは民俗学者と言って、国や土地の様々な社会構造や歴史などを調べ、学び、伝える学問を専攻する中で、特に信仰の分野に力を入れているのがその《妖怪》の専門家なのだという。ぬらりひょんだとか一反木綿だとか、そういった有名どころの《妖怪》だけでなく、世界各地に伝わるマイナーな《妖怪》などについても彼らは熱心に調査し続けており、ごく稀に社などで《妖怪》について描かれた古い文献が見つかるとそれはもう大騒ぎになるのだとか。


 ひづりもそこそこ捻くれた年齢になるとそうした職業について「何をやっているんだろう」と多少思ったりもしていたが、しかし《悪魔》を専門に扱う《召喚魔術師》の卵として歩き始めた今、自分と全く立場の違う人間とはもう思えず、またそれが実際に《妖怪》を視認出来る凍原坂春路の古い知己であると紹介されれば、その第一印象がずいぶん軽い雰囲気のものであったとしても、決して只者ではないのだろうと受け取る他なかった。


「……夜不寝リコです。その、お話の通り、西檀越雪乃の妹です」


 様々考えをめぐらせていると、夜不寝リコが先に自己紹介をした。どうにもまだぎこちない感じではあったが、彼女は普段の愛想の良さを少しずつ取り戻しつつあるようだった。


「よろしくね、リコちゃん。うん、やっぱり面立ちに昔の雪乃ちゃんを思い出すなぁ」


 渡瀬はにこにこと笑いながら、夜不寝リコがおずおず差し出した右手を握った。


 二人の握手が終わったところで、ひづりも一つぺこりと渡瀬にお辞儀をした。


「官舎ひづりです。夜不寝さんの同級生で……。…………?」


 夜不寝リコと同じように差し出したひづりの右手を渡瀬は握り返そうとして、しかし不意に一瞬その動きが止まった。


 どうしたのだろう、とひづりが顔を上げると、止まっていた渡瀬の手は急にまた動き出して、ぎゅっと握手の形をとった。


「やあそうか。リコちゃんの同級生のひづりちゃん、ね。よろしくよろしく」


 にっかりと笑みを浮かべて渡瀬はひづりの右手を上下に揺らした。


 今の不自然な間は何だったのか分からなかったが、けれど取り立てて問う事でもなさそうだったので、ひづりは指摘しないでおくことにした。


「……ひづりさん、お越し下さってありがとうございます。ひとまず、部屋に入ってください」


 凍原坂は先ほど自身らが飛び出して来たばかりの部屋の扉を開けてひづり達をそちらへ促した。


「ああ、やっと落ち着いて話が出来る訳だな。しかし凍原坂、お前女子高生に敬語なんて使っているのか。ははっ、面白いな。…………あれ?」


 ひづりと夜不寝リコ、そして《フラウ》を背負ったままの《火庫》と凍原坂が部屋へ入ったところで、凍原坂は俄に扉をばたんと閉めてそのまま鍵を掛けた。


「おい、凍原坂? 俺、まだ部屋に入ってないんだが? おい?」


 廊下に一人取り残された渡瀬が扉越しにまた騒ぎ始めた。


「すまん渡瀬。ちょっとだけ、一分で良い、そこで待っててくれ」


 凍原坂が声を張って扉の向こうに言う。渡瀬は引き続き抗議の声を上げていたが、凍原坂は構わずひづり達に向き直って声を潜めた。


「すみませんひづりさん。あいつ、本当に面倒くさい奴で、このままではたぶん帰ってくれないと思うんです。ですがどうにか言いくるめて帰らせますので。本当にすみません」


 内緒の話だろうか、と思ってひづりも同じように声を潜めた。


「は、はぁ。でも、帰ってもらって大丈夫なんですか? お二人でお話があったんじゃないんですか? その、《妖怪》のこととかで……」


 面倒くさい奴、というのは出会ってまだ二分も経っていないながらなんとなく察せたが、けれど、帰らせてしまうのか? ともひづりは思った。少なくとも《火庫》は数年ぶりの再会だと言うし、そんな凍原坂の旧友である人を自分との約束を理由で追い返してしまうのもなんだか気が引けた。


 すると凍原坂は困った様に視線を泳がせて、それから改めてひづりと夜不寝リコの顔を見ると、一段と声を小さくして言った。


「……あいつには、私が《妖怪》が見えていること、教えていないんです……」


「えっ」


 ひづりは思わず声を漏らした。てっきり、《妖怪》が見える凍原坂は、《妖怪》の専門家だというあの渡瀬に、昔から《妖怪》に関する事で相談をしていたのだろうな、と、そんな風に受け止めていたからだ。夜不寝リコも同じらしく、驚いた顔をしていた。


「高校からの知り合いで、あいつはその頃から《妖怪》が大好きで、進路も民俗学者一択だ、って言っていて……。でも、あいつには《妖怪》が見えないんです。……《妖怪》って、自分の事が見えている人間にばかり集まってくるものなんです。話が出来るから、お願いが出来るから、力試しが出来るから、怖がってくれるから……。大体そんな理由ですが、時にはものすごく危険な《妖怪》も居ます。でも、こちらが見えていないふりさえしていれば、大抵危険はないんです。たとえ《妖怪》に詳しい民俗学者であっても、自分を見てくれないなら、話が出来ないなら、《妖怪》は近寄ってこないんです」


「……ああ、なるほど。春兄さんは、あの渡瀬って人を、《妖怪》の面倒事に巻き込みたくないんだ?」


 凍原坂の名を叫ぶ中年男性の声と一緒に殴るようなノック音が響き続けている入り口扉の方を振り返って、夜不寝リコはぼんやりそんな風に言った。


 凍原坂は溜め息を吐いた。


「確かにあいつからは《妖怪》の話とか聞いたりするんだけど……それを抜きにしても、あいつは僕の友達なんだ。変な奴だけど、悪い奴じゃあないんだよ」


 そこでひづりはハッとなった。今の己の境遇と凍原坂の話を重ね合わせた途端、彼の気持ちが分かったようだったからだ。


 確かに、いくら《妖怪》が好きだと言っても、「自分は妖怪が見える」と打ち明けて、それを受け入れてくれるとは限らない。気味悪がられて、そのまま距離が出来て、交友が途絶えてしまう可能性は十分にある。


 《悪魔》や《魔術》の話を、アサカなら何一つ疑わず聞いてくれるかもしれない。彼女がひづりの話を疑った事は今まで一度も無かった。けれど、ハナや、他の友人たちはきっと違う。ひづりの頭がおかしくなったと思って、離れて行ってしまうかもしれない。


 ひづりはごく最近そうなったから薄ぼんやりとした実感しかなかったが、しかし普通の人には見えていないものが見える境遇で生きていれば、誰しもがそういった恐れを抱いて当然なのだろう。夜不寝リコも、凍原坂さんも。


「……分かりました。凍原坂さんや夜不寝さんが《妖怪》が見えていること、渡瀬さんには言いません」


 ひづりはまたこっそり小さな声でそう伝えた。


 凍原坂はありがとうございますとひづりに頭を下げた。


「では、すみませんが、そのようにお願いします」


 そう言ってから凍原坂は鍵を外し、ゆっくりと扉を開けた。


「お前は冷たい奴だよ凍原坂。名前に凍原って入っているからかな。人生で一番長い二分三十六秒だったよ。永遠に俺はこの扉の前でお前を待ち続けるんじゃないかと、いよいよ腹をくくる覚悟をしかけたぜ」


 ほんの数分ぶりに会った渡瀬は、それはもう暗い顔をして凍原坂を睨んで恨み言を早口に並べた。


「悪かったよ……。ほら、もう入っていいから」


「ああもちろん入るとも。お邪魔します」


 凍原坂やひづりの脇を抜けると、渡瀬は一人だけ真っ先に部屋の奥へずんずん進んで行って、ソファにどすんと腰を落とし、それから右手に提げていた細長い紙袋から一本のワインを取り出してそのラッピングをバリバリと剥がし始めた。もう何があっても追い出されないぞ、という強い意思が感じられた。


 おそらく先ほど室内で二人が揉み合った際に倒れたり傾いたらしい傘や額縁などの家具を凍原坂と夜不寝リコが直し始めたので、ひづりもすぐにそれに倣った。凍原坂は「よしてください。ひづりさんは先にソファに座っていてください」と言ったが、手持ち無沙汰であったし、それに先に部屋の奥でソファに座り込んだ渡瀬と一対一で向き合うのも気まずかったので、ひづりは手伝いを続けた。《火庫》は小走りで渡瀬の後を追いかけると、彼が座った右隣のソファへ《フラウ》を放り投げるように下ろし、それからまたひづりたちの方へ戻って来て片づけを手伝った。


 凍原坂の事務室は外観から想像していたよりも広く、入り口から見て正面と右手に中身がびっしり詰まった天井に届きそうな本棚が二つ威圧的に聳え立ってはいたが、それでも部屋の中心部は楽に行き来が出来るゆとりが十分に確保してあって、そこに学校の校長室のような革張りのソファが、低いテーブルを挟んで向かい合わせに置いてあった。床に乱暴に落ちていた家具類を除けば、部屋は掃除が行き届いているように見えたが、しかし普段はそこまで几帳面に整頓はしていないのかもしれない、結構強めの埃臭さが鼻を衝いた。


「で、凍原坂、お前これからその女子高生ちゃん達と用事があるんだろう。いいぜ、俺、今日は帰るよ」


 散乱していた物があらかた片付いただろうか、という頃になって、渡瀬がにわかに言った。


 最後に外れてぶら下がっていた備え付けの受話器を元に戻した凍原坂はそれを聞いて眼を丸くした。


「えっ、帰るのか?」


 あれだけ駄々をこねたくせに? と身内に同じく良い歳をして人前で子供みたいな駄々をこねる女が居るひづりも意外に思った。


 渡瀬は戸棚から勝手にグラスを一つ取り出しながら凍原坂に返した。


「そりゃあ俺だって、お前が会うっていうのが大学の研究仲間だとか、生徒だとか、ヘルスだとかならもう邪魔してやろうと思ったけどな。でも、リコちゃんはお前の義妹で、ひづりちゃんは事情は知らないがお前の恩人の娘さんだって言うんだろう。なら、俺だって引き下がるさ。話は明日にでも延ばしてやるよ」


 グラスを持った手でひづりと夜不寝リコを指差しながら渡瀬はまたソファに腰を下ろした。


「そうか。そうしてくれるなら、ありがたいよ」


 凍原坂はほっと胸を撫で下ろしたが、それを見て渡瀬は俄に唇を三日月に歪めて笑った。


「でも、今日だって別に近くもない神保町までわざわざ来たんだ。一つくらい、俺に何かしてくれたっていいだろ、凍原坂?」


 あぁ、なるほど条件付きか、とひづりは腑に落ちた。姉もよくこういうやり口を使うのだ。やはり似たタイプの人間らしい。


「何しろって言うんだよ」


 腰に手をあてて溜め息混じりに凍原坂が訊ねると、渡瀬はゆるく両手を広げて首を横に振った。


「そんな顔をするなよ。昔よく行ったあの高いが美味い弁当屋、憶えてるだろ? まだやってるらしい。久々にあそこの弁当を晩飯にしようと思ってな。だから、そいつを今から買ってきてくれ」


「今から!?」


 凍原坂は眼を見開いて叫んだが、渡瀬は気にせず続けた。


「今から以外にあるかよ。心配するなよ。いくら俺だってお前の知り合いの子供らに手を出すほど飢えちゃいねぇよ。ちょっとばかし、世間話や、お前の近況なんかをこの娘たちから聞かせてもらいたいだけさ。いいだろそれくらい。じゃあ頼むよ。豚と魚の気分じゃないから、鳥か牛で頼む。副菜は全体の三割くらいが良いな。でもニンジンが入ってるのは駄目だぞ」


 彼はグラスにワインを注ぎながら一息にそう言った。


 まさに開いた口が塞がらないという顔で凍原坂が立ち尽くしていると、隣の《火庫》が彼の袖をくいと引いた。


「……凍原坂さま、構いませんよ。わっちが渡瀬さんのお相手をしていますから」


 おや、とひづりは意外に思った。いよいよ凍原坂に《滋養付与型治癒魔術》による施術が出来るとあってだろう、《火庫》はついさっきまでずいぶん浮き足立っているようにひづりには見えていた。だから凍原坂の旧友が来たからといってそちらを優先するというのは、何を措いても凍原坂の事を優先に考える彼女にしては珍しい対応に思えた。


「……ひづりさんがよろしければ、ですけれど」


 《火庫》に窺うような眼差しを向けられ、ひづりは我に返って背筋を伸ばした。


「え、ええ、それは構いませんけど……」


 凍原坂への《滋養付与型治癒魔術》による施術は、別に急を要すという訳ではない。《火庫》に急かされるでもないなら、そこに関してひづりは何も意見は無かった。


 またこの渡瀬という男がどんな人物にせよ、凍原坂が出て行けばこちらは女だけになるとは言え、それでも四人を相手に悪い事などさすがに考えはしないだろう。それに最悪、ひづりには《防衛魔方陣術式》という手もあるし、そうでなくても《火庫》と《フラウ》はそれ以上の武力を持っているのだ。心配は無用だろう。


「ひづりさんが……そうおっしゃるなら……。すみません、来て頂いたのに、こんなことで。四十……いえ三十分ほどで戻ります。《火庫》、リコちゃん、すまないが僕が居ない間、お願い出来るかい?」


「はい、任せてください。行ってらっしゃいませ、凍原坂さま」


「途中で雨降るかもだから、傘持って行った方がいいよ」


 急いで上着と財布と長い傘を抱え、《火庫》と夜不寝リコに見送られながら扉を開けた凍原坂は、そこでまた渡瀬を振り返った。


「渡瀬、お前、本当に変な事はするなよ。絶対だぞ。僕が戻ってくるまで、そのソファから腰を上げるんじゃないぞ」


「ああ分かってる分かってる。急がなくてもいいぜ」


「すぐに戻る!! ……ひづりさんっ、何かあったら大声を出すんですよ!!」


 戸が閉まり、凍原坂の駆ける足音が外の廊下の向こうへ消えていった。


「……いやあ、相変わらず面白い奴だね。これだからアポ入れずにあいつの部屋に来るの、やめられないんだよな」


 最高の肴だ、とでも言わんばかりの気持ち良さそうな顔で渡瀬はワインをぐいと呷った。何となく察してはいたが、この男、やはりちょっと意地が悪いらしい。


「ひづりさん、リコさん、ソファにお掛けになっていて下さい。今、紅茶をいれますから」


 《火庫》はひづりたちを渡瀬の向かいの三人掛けソファに促すと、自分は戸棚の方へ歩いて行った。


 特に何を言うでもなく、ひづりがソファの左端、夜不寝リコがソファの右端に座った。間に《火庫》に座って貰いたいのは、互いに共通意見のようだった。


 引き続き何の遠慮も無くワインをがぶがぶ飲む渡瀬を前に、ひづりはさてどうしたものかと居心地が悪くなった。大学という場所に来るのは初めてだし、数学者の個室にお邪魔するのも初めてだったので、緊張はそれなりにするだろうと覚悟はしていたが、しかしここへ来て新たにこんな緊張の理由が転がりこんで来るとは思ってもいなかった。


 凍原坂さんや夜不寝さんに《妖怪》が見えていることは、この渡瀬奉文という人には秘密にしなければならない。それ自体さして難しい事ではないだろうが、しかし凍原坂の帰りがあんまり遅くなるとついうっかり口を滑らせてしまう事だって、ひょっとしたらあるかもしれない。ひづりはあまり嘘が上手でない己を知っていたため、気をつけなくてはいけないと思った。


「じゃあうん、凍原坂が帰って来るまでの間、何を聞かせてもらおうかなぁ。……ああそうだ、あれが良いな」


 空になったグラスを目の高さに掲げてふらふら揺らしていた渡瀬はふと何か良い事を思いついたという風に笑うと、グラスを静かにテーブルへ置いてひづりの眼をじっと見つめた。


「まず、官舎万里子の話について聞かせてもらおうかな。官舎、ひづりちゃん」


 柔和に微笑んでいるはずのその表情の中で、彼の眼は笑っていなかった。










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