第3話 幼子の憧憬
それは、今は遠き木漏れ日の記憶。
祖先の霊が帰ってくる日、お盆。幼き日の洋介は普段生活している町から離れ、その日は父の故郷を訪れていた。洋介は、お盆がくるのが楽しみでしかたなかった。
そこは本当に何もない
もちろん、それは『彼女』に会えるからだ。
基本的に夜行性の彼女は、普段家の中にいた。昼間はいつも眠そうにしているのを覚えている。
しかし、屋内に姿が見えなかった時、彼女はいつも祖父の家の裏にある里山へと出かけているのだ。そこの奥、木漏れ日の差す場所。その大きな岩の上が、彼女の定位置だった。
今日は何を教えてもらえるだろうか。彼女の話す機知に富んだ話は、洋介最大の娯楽であった。
――おお、洋介よ。よく来たな。
しかし、その日に彼女が話したのは占いで国を動かした
洋介は彼女を前にして目を丸くしていたことだけは覚えている。聞こえてきた単語は分かりやすい。分かりやすいからこそ、理解が追いつかなかった。
帰らねばならない、と彼女は言った。
その帰る、という言葉の意味がよく分からない。
ここが彼女の家なのではないだろうか。少なくとも彼はそう認識していた。だから、洋介はここに会いに来ているのだ。ここに来れば彼女に会えるから。
――ちぃっとばかし、汝には難しい話かの。
しかし、彼女にとってはそうではなかった。
彼女はいつものように洋介に笑いかける。しかし、いつも見せる悪戯っぽい笑顔に、寂しさの色が混じっていた。
洋介は、その顔がとても綺麗で、しかし、壊れそうだったことを今でもはっきりと覚えている。
「……まぁ、僕も急に思い出してきたんだけどさ」
我ながら、薄情な奴だと、洋介は思う。これだけ熱を帯びた思い出を、過去のものにしてしまっているのだから。
「でも、うん、そうだな。あれから五年経つのか」
なぜ傘を持っていかなかったのか、と母に一喝されて飛び込んだ脱衣所で洋介は息を吐く。
手にした制服をゆっくりと開く。包まれた小さな少女は、先程と変わらず静かな寝息を立てていた。今度は、安堵の息が洋介から漏れた。
さて、これからどうするか。今後を思案していると、洋介の心にチクッと棘が刺さったのを感じ取る。
その痛みに、眉根を寄せながら、洋介は大きく息を吐く。
「まぁ、何とかなるか」
おそらく、この手の中にある少女は母には見えないし、話したところで信じてもらえない。それは幼き日の思い出が告げている。
おそらく母は着替えを用意してくれている。それを受け取ってから、教科書を乾かしてくるよとでも言って、そのまま少女を抱えて部屋に飛び込んでも問題は無いだろう。
洋介は近くにあったタオルに少女の体を預け、再び蘇ってきた思い出を振り返っていた。
彼女との出会いはある夏の日。
洋介が記憶している限り、一番遠い記憶だ。太陽はカンカンに照りつけていると言うのに、涼やかな風が心地よかったことを覚えている。
そこに、彼女はいた。別に隠れる様子もなく、日常風景の中に彼女はたたずんでいた。その肌の色は血の気がなく真っ白で、異質なほどに風景から浮き上がっている。
洋介は最初、絵本で見たお化けか何かかと思った。しかし、それにしては存在感が強すぎる。洋介はまじまじと、祖父の隣でお茶を嗜んでいる彼女を見つめていた。
見た目は小学生くらい。紫色の和装に身を包み、短い髪も相まって日本人形を思わせる。祖父は彼女を気にすることなく、こちらに笑いかけている。そんな祖父を、嬉しそうに眺めた後に彼女は視線を元に戻した。
――おや?
そこで目が合った。彼女は驚きで目を丸くしている。その瞳は、蒼と朱の混ざった不思議な色をしていた。
洋介は無邪気に、彼女に挨拶をした。そんな洋介に、周囲の大人達が怪訝な表情を浮かべている。この子は急に何を言い出すのだろう、そう言いたげだった。
彼女はというと、最初見せた驚きはすでにない。余裕のある態度で静かに微笑むと、首を横に振った。
――小僧、今はわしのことは気にせず
彼女に促されたことで視線を外し、祖父のもとに向き直った。
祖父母は洋介の突飛な言動を、子供らしい反応と気にもとめなかった。母は少しだけ複雑な表情を見せたが、すぐに元の顔に戻る。
幼き頃から、洋介は時折、何もない箇所をずっと見つめていることがあった。もう、洋介はその頃を覚えていないが、誰もいないところに話しかけることも多々あったらしい。成長するにつれ、少なくなってきたので母はあまり気にしていない。
祖父母の熱烈な歓迎を受けながらも、洋介はその光景を穏やかな笑みで見つめる彼女のことが気になって仕方がなかった。
夜、大人達が居間で酒を酌み交わしていることを確認して、洋介はこっそりと寝所を抜け出した。
古風な家の縁側。洋介の住んでいる家の近くのように、街灯はない。それでも、大きな月が足元を照らしていて、闇の怖さを感じない。それどころか、夏の陽気も手伝って不思議な優しさに包まれていた。
その中心部、彼女は昼間と変わらない様子で今度は星空を見上げていた。
洋介がその光景に心を奪われていると、ゆっくりと彼女はこちらに向き直った。
――なんじゃ、小僧。眠れぬか。なら、近う寄れ。話し相手になろう。
彼女は洋介に気づくと、にこやかに手招きする。その様子が本当に嬉しそうだったので、得体の知れない相手だと分かっているのに、何の緊張も持たずに彼女の横に腰掛けた。
当時の洋介から見れば、少し年上のお姉さんといった感じか。大人びた、というよりも年寄りじみた話し方や振る舞いと比べ、こうして近くに寄ってみると、その容姿は幼さが強かった。
月明かりが、彼女の白い肌をさらに透き通らせている
おまえは誰だ、と素直な問いを洋介は口にした。しばし、思案した後、彼女は弾むような声でその問いに答えた。
――わしはな。この花のように、古くからここにいる。ここに住む人間達の隣人じゃよ。
目の前には青紫色した星型の花。可愛らしいそれは、どこか隣の彼女に似ていた。その花を見ていた洋介に、桔梗は鈴のような声で話しかける。
――その目、汝の父にそっくりじゃな。あやつも、気になったことがあると、そんな風にじっと見つめておったわ。
洋介は花から一切目を離さずに、その花をずっと見つめていた。何が面白かったのか、今でも分からないが、幼い洋介はその花が気になって仕方が無かったのだ。
その花の名が「
それから幾度か夏が訪れた。その度に、彼女に会った。洋介が行きたがるので、本当は渋っていた母も正月に祖父母に顔を見せるようになってからは冬にも会った。
――洋介よ。あまり母を困らせるでないぞ。あやつも忙しい身。どれだけ時間を作るのに苦心しているか……いや、なに、そんな悲しそうな顔をするでない。わしが会いたくないわけではないぞ。泣くな、泣くな。わしだって、汝が来るのを心待ちにしておるのじゃ。それは間違いない。間違いないぞ。
洋介は最初から彼女を友達と認識していた。そんな物怖じしない彼に、彼女も嬉しそうに付き合った。
洋介が成長しても、彼女は姿を変えずにそこにいた。それを認識していても、洋介は不思議と気味が悪いと思わなかった。漠然と、彼女はそういう存在なのだと認識していた。
祖父母の家にいけば、彼女はそこにいるのだ。だから、彼女は祖父母の目に見えずとも一緒の家に住んでいるのだと思っていた。
事実、住んでいたのだろう。一度、和室のど真ん中で爆睡している彼女を見たことがある。大人に踏みつけられそうでヒヤヒヤしたことを洋介は覚えていた。
それ故に、あの日。
そんな彼女の口から「帰る」という言葉が出たことに洋介はただただ驚いた。
でも、また会えるよね。洋介はそう彼女に言う。
自分だって、帰る家があるのだ。彼女との別れは名残惜しいが、またここに来れば会うことができる。彼女の本当の家が別の場所にあるとしても、また会うことはできるはずだ。
――どこから話せば良いか、の。
洋介の、そんな願いを込めた言葉に彼女は首を横に振った。
憂(うれ)いを秘めた笑み。いつも陽気な彼女が見せる表情とは違っていることが、彼女の真剣さを伝えてくる。
――そろそろ、潮時なのじゃよ。
彼女は語る。自分がこの地に立っていられる奇跡も、すでに限界が近づいていると。
百年ほど前までは、この土地は非常に過ごしやすかった。この土地に住む人間は、彼女たちのことを敬い、恐れ、奉ってきた。信じてくれる人がいる、その一点が心地よさにつながっていた。彼女の遊び相手となり得る人間も多かったそうだ。
だが、ここ三十年で状況は一変した。誰もが、彼女から遠ざかった。それは心の距離であり、こんなに彼女が近くにいても、人間達は彼女を認識しなくなった。
人と話す機会、それも洋介が久々であった。だから楽しかったし、彼が来てくれることが彼女にとっても楽しみであった。
――わしは、まだ大丈夫、まだ大丈夫と耐えておった。そのおかげで汝と会えたのは行幸であったがの。
彼女は「迷信」になってしまっていた。彼女を信じてくれる人がいなくなっている、それを自覚したと同時に、急激に薄れていく自分自身の存在に彼女は気づいてしまったのだ。
――消えるだけなら、まだよい。この身がわしのままで居られなくなったら……想像するだけで恐ろしい。
彼女は、古い友人の話をする。人の信心が変わってしまったが故に、善意から悪意の存在へと変貌してしまった者の話を。洋介はその話を理解できなかったし、あまり覚えていない。彼女の言葉は、幼い洋介にとって難しすぎた。
いつもは洋介に合わせて平易な物言いをしてくれているのだが、彼女自身その余裕がなさそうである。洋介も、そんな彼女の様子に圧倒されていて聞き返すこともできない。
だが、一つだけわかったことがある。
彼女はとてつもなく遠い場所に行ってしまうのだ、と。洋介ではどうしようもなく埋められない距離の場所へと。
ひとしきり話し終えた後、彼女は洋介を見つめた。
――何という顔をしておる。ま、わしも似たようなものか。
口端を歪め、洋介の頭を軽く撫でる。
最近は見た目の年齢が追いついてきた洋介と彼女。しかし、今の彼女は人生の先輩として、悠久の時を過ごす先駆者として彼に接していた。
――洋介、これだけは覚えておけ。
名残惜しそうに手を離すと、洋介にいつもの明るい表情を見せる。
――汝がわしらを忘れずにいられたらな。再び、わしらが相まみえる時は来ようぞ。
あれから五年。
洋介は今も彼女と会えていない。
「……忘れようとした罰なのかもな」
洋介は自室に戻って、段ボールとタオルで作った簡易ベッドに抱えていた小さな女の子を寝かせた。
「とりあえず、こいつが目覚めてからかな。次の話は」
洋介は心の奥底に閉じ込めた、久々に火がついた熱を感じながら、今後に思いをはせていた。
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