第2話 未来と過去と

 夜空に浮かぶ無数の星は、どれも等しく瞬いていた。この世界、どこから見ても同じ輝きだろう。


(昔より減ってる)

 少年はそんな空を見て、大きく息を吐いた。確かに星の数は減っている。それは人のいとなみによって、星のやわらかな光よりも強い人工の明かりを手に入れたからだ。


 それでも、星一つ一つの光は変わらない。悠久ゆうきゅうの時をても、星々は誰に対しても同じ輝きを放っている。

(久々に見たけど、なんか暗いよな。夜空って)

 もし、その輝きから異なる意味を見出す者達がいたら、きっと彼等自身の心持ちが違っているのだ。おそらく、この少年も、その一人だろう。


「ふぅ」

 見上げる首の疲れを覚えて、少年――彼の名は澤田さわだ洋介ようすけという――は再び前を向いて歩き出した。


(なんか、疲れるよな)


 何も変わりのないはずの日常。この数年間は、いつも同じような時間を洋介は過ごしていた。動きもしなければ、揺らぐこともない日常風景。

 それが最近、それを見ていると妙な息苦しさを洋介は感じていた。


 それはなぜだろうか。洋介は自問してみるが、考えるまでもなく答えは決まっていた。

「なんで、みんなそんなに生き急ぐかなぁ」

 思わず洋介の口から飛び出した言葉は、十五歳という年齢を考えると非常に枯れたものであった。


 さきほどの自問の自答。

 それは、ずばり『周囲との温度差』。洋介は何とか火をつけようとする周りの熱のせいで、煙もないのに息が詰まりそうになる。周囲が熱くなればなるほど、洋介の心はますます冷え切っていった。


 洋介は平凡な市立中学に通う三年生。今年、彼は生まれて初めて受験生と呼ばれるようになった。

 受験、という言葉が未だにピンときていない。高校を選ぶ、そのことの重要性が洋介はまるで分かっていなかった。


 それでも焦りはあった。何とかしよう、とここまで努力していたことだってある。


 昨年、「あの高校に行きたいんだ」と語っていた先輩が、夢を叶える姿を見た。それはお世辞を抜きにして、素晴らしいものだと洋介だって感じた。

 新しく担任になった教師は、いわゆる体育会系だった。洋介が苦手とするタイプであるが、別に体罰に訴えるとか、そんなことは無かった。だから、熱く語る教師の言葉に、まるでドラマみたいだと素直に心を動かされた。

 こんな環境にあれば、さすがの自分でも、自覚というものが芽生えるだろうと洋介は感じていた。


 それがどうだろうか。そこから半年の月日が経つ。結局、何も変わっていない。

 枯れた大地に芽吹くものなど、何一つないのだ。


 そんな態度がしゃくに障ったのかは、分からない。洋介には分からないが、少なくとも客観的に見れば面白くない人間だろうと洋介は思う。

 そして、指で数えることができるほどに数少ない友人の一人から、この度、絶縁状を叩き付けられたのだった。


 曰く、おまえと一緒にいたら俺まで腐ると。


(どこが腐ってるって言うんだろう)

 洋介は思わず体を見回してみる。もちろん、変な臭いはしない。鼻がバカになっている可能性はあるのかもしれないが。


 自分が腐っている、なんて洋介は思っていない。これでも、問題を起こすことを良しとしない良心だってある。しかし、干からびてはいたかもしれないとは思うのだ。

(結局、周りの顔色うかがって何もしてないだけだからなぁ)


 彼が必死に頑張っていることは洋介にも分かっていた。それに対して、コメントができるほど、洋介は努力していなかった。

 そんな状況で、自分より模試で良い点数をとりながら、未だに志望校を決めかねている洋介。友人面して、何もアドバイスをすることなく、危機感すら持たずに、へらへらしている存在が近くにいる。

 ああ、それは害悪でしかない。冷静になってみれば、おかしな状況だったと洋介も彼の言うことに納得できる。それでも、どうやっても変わることはできないのだ。


(進路懇談とか、苦痛だもんな)


――おまえに夢はあるのか。


 かの熱血教師の言葉を洋介は反芻はんすうする。夢をもつのが当たり前、という今から思い返せば鼻につく態度。

 もちろん、教師は本当に洋介の煮え切らない態度を心配してくれたのだろうが、洋介はそれを素直に受け取ることができない。


「いや、あるにはあるんだよ」

 口をとがらせて、想像の教師に反論する。


 あの時は言えなかったが、もちろん、洋介にだって夢はある。

 なりたいもの、学びたいもの、進みたい道。幼いころからずっと抱えていた想い、叶えたい未来。そんな夢を持っていたし、今も変わらず持っている。


 ただ、それを口に出そうとすると心のどこかでブレーキがかかるのだ。

 おまえはそれを表に出す覚悟があるのか、ともう一人の自分が立ち塞がる。


「うん、まぁ、だから、いいかな」

 存在はしているが、見えないくらいにかすみがかかってしまった、そんな夢。

 それも、自分が立っている場所すら分からなくなるほどに濃いのだから性質たちが悪い。


 もう一度、空に向かって息を吐いた。


「ん?」

 上を向いた頬に冷たいしずくが当たる。

(あれ、さっきまで星が見えてたのに)

 分厚い雲に覆われた暗い空に違和感を抱いた刹那せつな、多量の雨粒が洋介に向かって降り注いでいた。


「わっ、ぷぁ」

 口に雨粒が飛び込んで、洋介はそれを吐き出しつつ走り出した。


 空がいつのまにか漆黒になっていたことにも、洋介は気づいていなかった。それぐらい物思いにふけっていたのだ。


 物量で襲い来る雨粒は容赦なく彼の体を濡らしていく。


 雨は嫌いではない。しかし、程度がある。カバンに染み込んだ雨水が教科書達を濡らす前に、家に帰らないといけない。

 そう思った洋介は腕をさらに強く振ろうとする。

「ん……?」

 しかし、その思いとは別の刺激が彼の足を止めた。それを目の当たりにした瞬間、洋介の目が大きく見開かれる。


 明らかに、おかしな光景。それなのに、どこか洋介が待ち焦がれていた非日常な景色。


――それは、まさしく流星だった。


「えっ、何、あれ」


 濡れた衣服の不快感を忘れるほどの衝撃が洋介を貫いていた。


 雨が降っているから、もちろん空は厚い雲に覆われている。それは、先程見た時と変わりが無い。それなのに、そう、それなのに。


「流れ星?」

 きらめく輝きが、一筋。降りしきる雨の空で激しく自己主張している。


 洋介は文字通り、その後は言葉を失った。流れ星、そうは口に出してみた者の、目の前のあれを完璧に言い表すことができる言葉なんてない。洋介の、これまで歩んできた短い人生経験では体得することができなかった。

 きらめきの美しさに奪われた心はなかなか帰ってこない。あまりにも、大きく、強い輝きに洋介は魅了されていた。


 だからだろうか、しばらく何も考えずに見つめてしまったのは。それは少しの時間だったが、永遠のように思えて……やはり一瞬であった。


「あ、あれ? ちょっと待って。もしかして、落ちてくる?」


 洋介のぼんやりとした思考が急速に冷えて固まった。その輝きが、自分にめがけて突っ込んできていることに気づいたのだ。

 ほんの少しの間に、光がどんどん大きくなっていく。軌跡はもう見えない。


 それはそうだ。真っ直ぐ、洋介に向かって突っ込んできているのだから。


「あぶなっ!」


 輝きが視界を覆い尽くしたとき、洋介は反射的に膝を丸めて頭を抱えた。そんなことではどうしようもないのだろうが、せざるを得なかった。

 しかし、洋介の想像とは違って音もなく、その光は彼の頭上を過ぎ去っていく。思いの外、優しい熱を残して。


「えっ、と?」

 洋介は困惑した表情で強く押さえていた耳を解放して辺りを見渡した。いつの間にか雨も止み、町は静寂に包まれている。

 すっかり、いつも通りの夜だ。先程までの光景が夢で会ったかのように、全てが元通りになっている。


「なんだったんだ、あれ」


 あれが隕石か何かだったら、きっと、とてつもなく大きな衝撃が襲ってくる。そんな風に覚悟をして身構え、体を緊張させていた。

 拍子抜けもいいところだ。洋介の体から、一気に力が抜けた。


 徐々に現実感が戻ってくる。足下がしっかりしてくると、やはり、あの流れ星は幻のように思えてきた。


「疲れてたんだよ、きっと。そうだよなぁ」

 誰もいないのに言い訳をする洋介。乾いた笑いをこぼしながら周囲を見渡している。

「ははは………………はぁ」

 そこに、見失ったはずの光を見つけてしまい、洋介はがっくりと大きく肩を落とした。


「マジかよ。勘弁してくれって」

 どうやら、まだ夢の続きに洋介はいるらしい。


 少しだけ、このまま逃げてしまおうかと考えた。一瞬だけ、目をそらす。


 でも、本当にそれでいいのか。


(……よくはない)

 洋介は思い直して光と正対する。


 近くの民家、その生け垣。中央部にぼんやりとした輝きが揺らめいていた。先程、空から落ちてきた金色の光と同じ色だ。淡くなってしまっているが、間違いない。

 洋介の知らない光。その穏やかな輝きは、どこか懐かしさに満ちていた。


(教科書にあったな、こんな場面)


 まるで、竹取の翁にでもなった気分だ。かぐや姫を我が子にした彼も、今の洋介と同じく、不思議な輝きに誘われて竹を切ってみたのだろう。

 ふらふらと光に近寄っていく洋介の心は童話の世界に染まっていく。もう、その心に逃避の思いはない。恐れもない。


 そもそも、こういう不思議に出会うことを心待ちにしていたのだ。実際に目の前にあったら、その気持ちに嘘はつけない。

 かつて、自ら蓋をした感情が一斉に表に飛び出していく。


「これで小人でもいたら本当に、って、マジか」

 光に導かれるままに、両手で生け垣を開いた洋介はそのまま絶句した。


 『彼女』を包んでいた光がゆっくりと消えていく。ただの光の塊だったそれから、人の影が浮かび上がってくる。


 まず目に止まったのは金色の髪。雨の雫でしっとりと濡れ、頬にぴったりと張り付いていた。一瞬、作り物かと思うほどに完成されている。まるで、海外製の人形をいどろる髪のようだ。しかし、それでいて生を感じるほどに毛先までつややかなのである。

 肌は白く、透き通るようだ。固さは感じない。柔らかそうな頬も、やはり命というものを洋介に印象づける。


「かぐや姫、じゃないよな」


 そう、そこにいたのは両のてのひらに収まるほどの小さな女の子。現実になった童話。その登場人物となった洋介は、驚きはしたものの冷静に頭を働かせる。


(息は、してるのか)

 彼女の顔の近くに手をかざしてみると、微かに空気の流れを感じる。よく見ると、胸の動きに合わせて体が少し動いている。


「このままにしてはおけない」

 そう決めた洋介の行動は速かった。


 ずぶ濡れになった上着を脱ぎ、表面の雨水を払いながら内側を確認する。分厚いそれは、思ったよりも中が濡れていない。これなら使えるか、と洋介はそれで彼女を包み込む。

「んっ」

 ゆっくりと抱え込むと、少女は苦しそうに息を吐いた。一瞬、洋介の体に緊張が走る。


 だが、単純に居心地が悪かったせいだったのか。彼女は姿勢を変えると、すぐに落ち着いて静かな寝息をたてていた。

「何とか、大丈夫そうかな」

 洋介は安堵の息を吐く。


 おそらく、かなり高いところから落ちてきたのだろう。それなのに丈夫なものだ、と洋介は思う。そもそもが体の作りが違うのだから、人間と同じようには考えてはいけない。


「おまえのことは知らないし、あの子とも違うんだろうから。僕の想像なんて、意味が無いんだろうな」

 洋介は、眠る少女に優しく微笑みかけた。


 そう、彼は知っていた。

 彼女のような幻想の登場人物、妖精。それがこの世界に実在していると言うことを。


 あの子、と思い出してみると懐かしさが胸を覆う。ここ最近、思い出そうともしていなかった大切な思い出。

「あの子、元気にしてるかな」

 それが急に頭に浮かんできたのは、もう出会えないと思っていた存在に会うことができたからか。


 優しく抱きかかえた少女の息吹を感じながら、洋介は急ぎ帰路につくのであった。

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