第31話 これって修羅場?

(どうして、こんな状況になったんだっけ?)


 洋介はテーブルをじっと見つめながら、ここまでに至る状況を整理しようとした。しかし、近くから発せられている圧力プレッシャーが洋介の思考を邪魔してくる。

 そろそろ顔を上げて様子を確認しなければならない。しかし、それができない。それぐらい緊迫した空気が両隣から洋介は感じ取れていた。



 事の発端は、今より少し前にさかのぼる。



 洋介がカーラの、あくまでも正の感情から生まれてくるあらゆる行為に戸惑い続けていた頃。その場所から少し離れた木の陰に、その様子を複雑な様子で見つめていた少女の瞳があった。

(澤田君の交友関係に口を出すつもりはないのだけれども)

 見つめていたのは何を隠そう、井上優香、その人である。彼らからは認識できなくなるほど遠い場所で、ちらちらと様子を窺っている。隠れては出てきて、出てきては隠れ。身なりが整っていなければ、不審者に思われるだろう行為を優香はとっていた。

 なんで、自分がこんな行動をとっているのか。客観的に判断できれば優香だってそう思うのだろうが、今の優香はそれを気にする余裕がない。


(声をかけてきた外国の子、っていうのがあの子かしら?)


 高校で偶然、洋介の噂を聞いてからというものの平常心ではいられなくなっていた。どうして自分が落ち着かなくなっているのだろうか、優香は分からなかった。ただ、少なくとも、そのまま学校行事に向けた作業を継続できるような状況ではないのは確かだ。

 少し後ろめたさを感じながらも、高校を後にした優香は真っ直ぐに家に帰る気にもなれずにさまよっていた。


 そんなとき、件の光景を目にしてしまったのだ。優香の行動圏内に入っているものの、洋介達の元に辿り着くのは偶然と言うしかない。もしくは、運命の悪戯いたずらだろうか。


(あれ)


 そこでようやく優香は空を飛んでいるルーミの姿を見つけた。かなり視野が狭まっていたようだ。そこまで離れていないのに、ルーミのことを優香は全く見えていなかったのだ。


(あの子も、ルーミさんと話している?)


 ルーミを観察していると、明らかに洋介だけに話しかけているように見えなかった。


(つまり、あの子も妖精絡みって事かしら)

 そんな想像が優香に生まれた瞬間、ある記憶がフラッシュバックのように脳内に映し出された。


――だからさ、もし、ライツみたいなのがいたら教えてほしいんだ。探しに来てくれると思うからさ。


 それは、ライツを目撃してひっくり返った日の夕刻。熱のせいで見た幻影だと思い込もうとしていたが、洋介の登場で全てが真実だと悟った。もちろん、存在していないと自分の目を疑うことだって優香にはできた。

 しかし、驚くほど素直にライツの存在を受け入れることができたのは、当然ライツ自身の愛らしい様子にもあるが、そんな彼女を見つめる洋介の目が穏やかだったから。その時のことを思い出すと、優香はそう感じるのだった。


 洋介が声をかけてきたのは、優香が妖精を見ることのできる人間だと思ったからだ。少なくとも、優香自身はそう思っている。

(そっか、そうよね。他にもそんな人がいたのよね)

 だから、自分と洋介以外にも妖精を知覚できる人間がいるという事実が優香に寂しさを生んでいた。心のどこかで、洋介とどこか、特別な縁のようなものを感じていたのだ。それはもちろん、無自覚ではあるが。


 もう、離れてしまおうか。


 優香がそう決心した時、今まで聞こえてこなかった声が彼女の耳に届いた。


「……確かに、地上界こちらでは私のような能力の持ち主を夢魔サキュバスと呼んでいるよう……」


 夢魔サキュバス。確かに彼女はそう言った。その一言が優香の足を止めた。

 もう一度、少女の顔を見る。遠すぎて、そして、色々と優香に生まれていた複雑な感情からあまり見ようとしていなかった彼女の顔。


 どこかで、見た覚えがなかったか。


「あっ!」


 優香は思わず声を出した。そして、あまりの衝撃の大きさに力が抜けて持っていた鞄を落としてしまう。


――そうか、貴様の大切な者か。


 どうして気づかなかったのか。優香は最初、そう自分を叱責した。しかし、その原因は意図的に記憶の奥底に封じてしまっていたからだったらしい。一気に記憶が蘇ってくる。


――問題ない、すぐに会える。私の夢の中でな。


 忘れようがない。一瞬ではあるが、はっきりと覚えている。思い出してしまえば、もう疑いようもない。

 なぜ、彼女がここにいるのかは分からない。洋介と、今はどんな関係を持っているのかは知らない。そもそも、それこそ優香にはあずかり知らぬ事だ。

 ただ、はっきりとしているのは、彼女の存在は優香にとって未だに大きな棘であり、排除したいものであること。


 そうなると、もう、ここで見ている気分にはなれない。優香は、一切の懸念を置き去りにしてカーラへと詰め寄ったのであった。



 そして、今に至る。



 洋介から見れば、急に現れた優香がカーラと言い争いを始めてしまった。ずっと集まっていた行き交う人達の視線が、さらに集中していく。

 いたたまれなくなって、時間帯のせいか、偶然空席の多かった近くの店に何とか彼女らを誘導する。店員に誘導された丸テーブルに腰掛けると、今度は優香とカーラによるにらみ合いが始まってしまったのだ。ピリピリと居心地の悪い空気が、周囲に充満している。

 水だけは、かろうじて置いていってくれたフロア担当の店員さんは遠目でメニューを聞きに行くタイミングを伺っている。新しく入ってきた客は、その剣呑けんのんな雰囲気から自ずと離れた席へと座っていた。それは正解だ。洋介だって、できることなら離れたい。しかし、おそらくは優香の怒りに関して当事者だから離れることはできない。


 ちなみに、居心地が悪そうにしているのはもう一名。向かいの席に座っているルーミだ。はねをしまって、それだけではなく、体も小さくして見た目の体積を減らしている。

 もちろん、彼女の前には水は置かれていない。


 周囲から見たら、どう見えているだろうか。洋介は、そこばかり気になっている。自分を挟んで対峙しているのが、優香とカーラだ。輝かしい存在感を持つ彼女達に挟まれて、身動きがとれない様子の洋介。


 時折、『なんであんな奴が』といった類いの視線が突き刺さる。

(羨ましいんだったら、いつでも変わるよ。この席)

 その度に、洋介は悪態をつきたくなるのだった。


「それで、あなたはいったい何をしに来たのかしら?」

 ようやく口を開いた優香の声には、明らかな怒気が含まれていた。冷静でいよう、その理性が優香を何とか押しとどめてくれているらしい。

「さっきも言ったがな、私は。そこの洋介の手助けをしに来ただけだ。なんだ、話してなかったのか。てっきり、大切な者には話しているかと思ったが」

 カーラは洋介を見て首を傾げる。洋介は自身の不手際が起こしたことだと「すみません」と小さく声に出していた。


(むっ)


 ここで優香が覚えた引っかかりは二つ。


 一つは、あまりにもカーラと洋介の距離が近いことだ。特にカーラが洋介の名を呼ぶ声に、強い親しみを感じてしまう。まるで、長年付き合った人間同士が交わす呼び方のようだ。

 ちなみに、カーラの洋介への呼び方については他の者からの受け売りである。心情は別として、カーラが発するイントネーションに、親愛の情はなかったりするのは優香には関係のない話である。


 そして二つ目。カーラの言った「大切な者には話している」という言葉だ。それを聞き、自分の中へと優香が咀嚼そしゃくして飲み込んだ時、ある釈然としない想いが生まれていた。

 自分は、洋介にとって大切な者ではない。その認識が、予想以上に優香の心に重くのしかかった。


 ちなみに、二つ目はカーラが意図的に優香を挑発しているのだ。結局、彼女の本質は変わらない。


「ええ。何があったのか、それはまた澤田くんに問いただします」


 洋介が話してくれるのを待つ、などと自分らしくないことをしてしまったと優香は反省している。もし、聞いてさえいれば蚊帳の外にいるような疎外感を覚えることはなかった。

「お、お手柔らかに」

 洋介は、そんな優香の迫力に小さく言葉を返すしかなかった。

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