第16話 終焉の漆黒

 その時、世界が割れる音がした。


 上空で交差する蒼と紅の光を呆然と見上げ、何もできない自分の無力さを噛みしめていた洋介にもその音は届いた。 

「今の、何?」

 カシャンと、ガラスとガラスがぶつかり合ったような高い音に洋介は意識を地上に戻した。かなり近い距離で鳴ったような気がする。彼は、久しく見ていなかった水平方向の景色を見渡す。


 洋介を傷つけ、橋に突き刺さったままのレイラのクナイが弾け飛び、その残骸ざんがいが散らばった。そして、円を描くように宙に静止したその一つ一つの欠片が、さらに細かく砕け散った。

 その粒子が世界に傷をつくり、ぱっくりと世界が裂けた。その裂け目の奥は、全ての光を飲み込む漆黒の闇が広がっていた。


 しかし、洋介がそれ・・に気づくことはない。気づくよりも早く、その暗闇の穴は洋介に向かって牙をけたのだ。


「いっ!」


 まるで傷口を縫った糸を引っ張られるような、鋭い痛みが洋介の右腕に走る。同時に傷口を誰かに握りしめられているように感じて、洋介は視線を下ろした。

「えっ」

 洋介の表情はそのまま凍り付いた。


 朱い線の入った傷跡がそこにあった。しかし、洋介の目にそれは映らない。代わりに形容しがたいものが、右腕を隠していた。

(何だ、このモヤモヤしてるの) 

 灰色の手と呼ぶべきか、洋介の掌よりも二回りほど大きな何かが彼の腕をつかんでいた。その灰色は、洋介の視界を外れた先まで伸びている。

 あまりの衝撃に呆けていた洋介だったが、すぐに思考が現実に戻る。その灰色の手が、洋介の体を引っ張り出したのだ。とっさに橋の手すりを左手でつかんだが、その手すりごと引きずりこもうとしている。


「いや、待てって。マジかよ、これ。勘弁してくれっての!」


 声に出さないとどうにかなりそうだった。洋介は叫びながら、足と左手で全力の抵抗を見せる。時々、傷口が開きそうな痛みが神経を締め付けてくる。力任せに耐えていると、肩が外れそうな程に全身がきしむ音が聞こえた。

 引いている手が繋がっている場所が目に入った。洋介はぞっとする。

 

 その灰色の手が引きずり込もうとしているもの、それは裂けた空間に生まれた漆黒の闇であった。抵抗を続けながら恐る恐る洋介は視線を向ける。その穴は、あまりに黒く、全く中の様子が見えなかった。


 それを視認した瞬間、恐怖の感情で力が弱まってしまったのか、一気に体が引きずられる。何とか途中で洋介は持ちこたえた。左手が摩擦で熱いが、それを気にする余裕はない。

(アレに引っ張られてるのか。マジで勘弁しろって)

 不安と恐怖で左の掌に汗をかく。しかし、その汗はすでに疲れのみえていた洋介のか細い握力にとって致命的だった。


(あ、ヤバい)

 洋介の手が手すりから離れてしまった。刹那、彼の視界がぐるりと回る。正常に見えていた景色が、ぐらりと大きく歪んだ。


「洋介殿!」

 ルーミの声が聞こえた気がした。しかし、そのまま洋介の感覚は真っ暗な闇に閉ざされてしまったのだった。



 当事者の洋介には長い時間に思えたが、彼が穴に飲み込まれるまで一瞬でしかなかった。それこそ、術の発動の瞬間、すぐに振り返ったルーミが間に合わないほどに。

「くっ」

 背後から気配がする。ルーミは直線的だった動きにブレーキをかけて、すぐ真下に降りる。頭上をレイラのクナイが通過していった。


「ハハハ、そうそう。あんたのそんな顔が見たかった」

 レイラが笑い出す。ルーミはその顔を憎らしい表情で睨み付ける。

「そう慌てない慌てない。何も、あのニンゲンの命獲ろうってわけじゃないんだしさ。それこそ、ウチが手を汚す価値なんて無いしぃ~」


 レイラのそれは本音であった。あれだけ洋介に恐怖を与えたとしても、レイラの中では遊びの延長でしかなかったのだ。

「まぁ、でもぉ、アレがいると面倒だから口は閉じておこうかな」


 『極彩飲みし終焉の漆黒トル・ノワール』、その術に込められた意志は呪縛だ。傷をつけた相手を世界の終焉しゅうえんが訪れたかのような、何もない場所へと閉じ込める。本来は自身の得意な戦場へと相手を誘導する術であるが、こうしてレイラだけ外にいて世界を存続させ続けることもできた。


 そして、レイラのクナイを起点に開かれた異世界への扉は、彼女の意志をもって閉じることができる。できるのだが、それをしようと右手を握りしめたレイラは不可解な現象に顔をしかめた。

「なに、これ」

 漆黒の口を閉じようと、レイラは右手に力を込めるのだが握られた拳がすぐに開いてしまう。何かが、レイラの右手の力に対抗している。こんなことは初めてだ。これでは口は開いたままだ。

 はねを持たない洋介は、それでも脱出はできないだろうが、レイラは今日初めて焦りの表情を見せた。


 レイラもルーミも、そして洋介も知らない。幼少の頃から洋介を護っている加護が、地上との結びつきを無くさないように働いていることを。世界の移動には抗えずとも、帰還する希望の芽を摘ままれないようしてくれているのだ。


 レイラの戸惑いがルーミにも伝わってくる。これなら、洋介を救いに穴に飛び込むことだってできるはずだ。

(しかし、それをしたらレイラもついてくるでしょうね)

 『極彩飲みし終焉の漆黒トル・ノワール』の中は、まさしくレイラの為に用意された舞台だ。そこではレイラは主役となり、ルーミは脇役とすら呼べないほど輝きを失ってしまう。

 そうなると、距離の近くなった洋介を護りながら、能力が上乗せされたレイラを、力を奪われたルーミが相手をしなければいけなくなる。今、この条件下でレイラに翻弄されている自分にそれができるのだろうか。ルーミは迷った。


 しかし、幸運にも生まれた時間だが猶予はない。意味が分からずに困惑しているレイラが落ち着いてしまったら、それこそルーミは身動きがとれなくなってしまう。

 さて、どうするか。


『聞こえるか?』


 そんなとき、ルーミの思考に直接話しかけてくる声が聞こえてきた。

(え、だれ?)


『じっくり考えるのも時には必要だが、時間は無いのだろ?』


 誰かの術だろうか。心に投げ込まれた意志がルーミの中で言葉に変換されていく。その声は聞いた覚えがない。覚えはないのだが、ルーミは大人しく声に従っている。


『あの小僧は私に任せておけ。なに、悪いようにはしない』


 その声の響きから、どこか暖かいものをルーミは感じ取ったのだ。本当に洋介を助けたい、そんな意志が言葉と共にルーミに伝わってくる。

 その術は、心と心を繋いでいる。その想いに嘘はない。


(任せていいんですね?)

 ルーミは、自分でも驚くほどに、その声を信頼した。それだけ、洋介を助けたいという想いは真っ直ぐだった。


『そっちこそ、そいつを足止めしてくれなくては私が困る』


 どうやら、レイラの術の特性も分かっているようだ。ルーミは大きく息を吐いた。


「我が命、懸けるは今」

 ぐっと握りしめた刀に力が宿る。迷いは置いた。どちらにせよ、レイラを取り押さえれば術は効果を失う。声の主に言われたとおり、今はただ、全力でレイラを足止めしよう。


「ルーミっ!」

 飛び込んできたルーミの刀を、間一髪のところで避けるレイラ。そこに先程まであった余裕はない。予想外のことが起こりすぎている。まさか、ルーミが自分の方に向かってくるとはレイラは思わなかった。

「いいじゃん、足りないってのなら相手になるよ」

 レイラは虚勢を張って、顔に笑顔を戻した。それでも、精神的に余裕がない。体に力は入っているし、ルーミの速度についていくのがようやくである。


 そんな、狭くなったレイラの視界には映らなかった。

 『極彩飲みし終焉の漆黒トル・ノワール』の入り口に飛び込む、黒い影の存在が。

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