第26話 放課後に想う

「あのー、井上さん?」


 誰もいなくなった教室で一人、作業を続けていた優香に恐る恐るといった様子で声をかけてきた女生徒がいた。彼女の方を見ようと顔を上げると、目の前の相手がビクッと体を震わせる。

(……そんなに不機嫌だったのかしら、私)

 彼女の反応で、優香はまた自分の眉が寄っていたことに気づくことができた。非常に整った優香の顔。その反動からか、怒っている時の表情が発する破壊力は凄まじい。


 ある者曰く、あれこそまさに処刑前の罪人を見下ろす女帝の目つきだと。


「ごめんなさい、少し考え事を。何かあったかしら?」

 すぐに柔和な表情を取り戻した優香に、心から安堵の表情を見せた女生徒は自身の仕事が完了したことだけを優香に告げて去っていた。

 その背中を見送った後、彼女が遠く離れていったことを確認して、優香は彼女にしては珍しく大げさに溜め息をついた。


(不覚だ。こんな簡単に感情を表に出すなんて。まだまだ精進が足りないわね、私も)


 最近、『彼』にならって周囲の表情を少しは気にするようになってきたおかげで新たな自分の弱点を知ることができた。己の弱みを知ることは、成長には欠かせないものだ。

 昔、自分の弱さから極力逃げたがっていた優香。今は、それを歓迎できるほどには心に余裕が生まれている。


「それにしても、少しは話をしてくれていいじゃない」


 そんな彼女の心をかき乱しているのが、そのきっかけをくれた『彼』だということは皮肉でしかないだろう。


「あんなに分かりやすい反応されたら私にだって分かるわよ」


 優香は独り言を天井に向けて言い放つ。今日は本当に珍しい。そんな行動をとってしまうほどに、優香は自身の心を制御できずにいた。

「何かは、あったのよね。絶対」

 昨日の彼の様子が気にかかっていた。そして、優香が心配していたままに、今日会った彼の様子は昨日と同じなのだ。いや、それ以上と言っていい。明らかに悪化していた。


(本当にままならないものね。こんなに悔しいのなら、さっき行動すればよかったじゃない)


 それが分かっているのに、踏み込めなかった自分にも優香は腹が立っている。話してくれない彼へ向けるものと同じくらいの、いや、それ以上の怒りを優香は自分に向けていた。

 そんな状態だからか、今日は作業に手をつけられない。優香の集中力は散漫になっている。

 注意があちらこちらに向けられているせいか、優香の耳には外の声がよく聞こえてくる。まだ授業が終わったばかりだからか、学校には生徒が数多く残っていた。


「え、誰がって?」


 普段なら聞き耳を立てようともしない男子生徒達の声も、意識せずとも耳に入ってきた。どうやら彼らは外の廊下を歩いて通り過ぎようとしているようだ。


「そいつ、めっちゃ美人な外国人に声をかけられて逃げ出したんだよ。逆ナンってやつかな。もったいねー、って思って。しかも、その子、ちょっと悲しそうな顔してから、そいつを追いかけたりしてさぁ」

「あのさ、急に外国人に声をかけられたら驚くだろ。何がもったいないんだ?」

「いや、もう、その子が凄かったんだって。こんな、こんなでさ」


 男子生徒の片方は、目撃した女性の体つきをジェスチャーで表現していた。上品とは言えない、はっきり言ってしまえば下品な行動だ。男子高校生同士ならいいのだろうが、まだ、ここは放課後の学校である。誰に見られるか分からない。


 幸運なことに、音だけ聞いている優香は見ることがなかったのだが。


「いや、盛ってるだろ。それ」

 聞いていた少年もそう思ったのか、少し嫌な顔をして答えていた。

「ちげーって。本当にこんななんだって」

 めげずに繰り返している彼は、無駄な根性を発揮している。何が、彼をそこまで突き動かすのか。


「それに逃げてた奴がさ~」

 それは少しだけ知っていて、心のどこかで下に見ていた者の思わぬ幸運を目の当たりにしてしまった悔しさだったのかもしれない。


 放課後に補習で残されていたことを知っているし、自分のように部活動に専念しているわけではない。同じ補習組であって、「あいつは俺より下だな」と勝手に値踏みしていた者の等級が一気に跳ね上がる現場を目にしてしまったいきどおりも多分に含まれている。

 彼は、そんな嫉妬を向ける対象の名を口にした。


「2組の澤田ってやつ。知らね?」

「知らね~」


 彼らの話はそこで終わった。すぐに次の話題へと移っていく。若者の興味関心は、あらゆるところにあるのだ。


 しかし、偶然その話を聞いていた優香は次の思考に移ることができない。

「2組の、澤田?」

 そのキーワードが該当する人物は、優香の記憶ではたった一人しか存在しなかった。



 優香の思わぬところで、彼の名を聞いて困惑していた頃。



(ここにはいないよな。そりゃあな、こんなに人がいるところにあいつがいるわけない)

 その噂の大本である洋介は駅前の商店街をふらふらと歩いている。昨日もここに来た時にも同じ事を思ったのに、洋介は向かう足を止めることができなかった。

 昨日の話を聞く限り、今のライツは人目を避けてどこかに隠れている。


 一昨日から色々とありすぎて体の疲れはピークに近い。それに加えて、昨晩は何か起こらないかと眠れない夜を過ごした。そのせいで、洋介の思考も疲れていているのか、明瞭とは言いづらかった。

 ちなみに、授業の内容は全く覚えていなかったりする。事態が終息したら取り返さなければいけないと、洋介はぼんやりと思っていた。


「だから、貴様は休んでいろと言ったんだ」


 そんな洋介に、背中から声がかけられる。

(またか)

 洋介はうんざりといった表情で振り返った。


「貴様が走り回ったところで、星の姫は姿を現すものか。大人しく、待っていればいいものを」


 そこには、なぜかセーラー服を身にまとったカーラが仁王立ちをしているのであった。

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