第6話 とある女帝の話

 その眼光は、岩をも突き通すだろう。彼女の目に射すくめられたものは、心の底からそう思った。


 それはおよそ、中学生の甘酸っぱい恋愛模様とは程遠いところにあった。

「あなた、それ本気で言っているの?」

 意を決した男子生徒からの告白を、優香は冷たい言葉で一蹴した。いや、まだ断られただけならいい。

 まるで彼女は己が尋問官であるかのように、淡々と、なぜ好意という感情が生まれたのかを少年に問いただしていた。


 何を答えたか、彼は覚えていないらしい。

「もし私と並んで立とうと言うのなら、私よりまさっているところがあるといいのだけれど。あなたに、そんなものがあるのかしら?」

 彼女から発せられる、強者しか生み出すことのできないプレッシャー。それに打ち勝つ方法があるのなら、教えて欲しい。


 洋介に忠告するつもりで話しかけてきた少年は、最後は涙目になって訴えていた。


(あいつ、本当に怖かったんだろうな)

 洋介が思い出しているのは昨年のことだった。


 校庭で洋介がぼんやりとしていると、その近くに集団に指示を出している優香が現れた。彼女は、洋介を路傍の石のように気にせずに通り過ぎていった。 


 洋介は、そんな彼女の背中を無意識に目で追っていた。

 優香は集団の中にいても、異質なほどに目をひく。立ち居振る舞い、その全てが同世代の少女とは一線を画す輝きを放っていた。


 眺めていたのは、かなり長い時間だったろう。知らない男子から話しかけられたことで、洋介の行動は中断された。


 その声の主は、同級生の男子。

 いわく、井上優香だけは悪いこと言わないから止めておけ、と。洋介の視線の意味を、好意からだと決めつけて彼は忠告してきた。


 彼は優香に一目惚ひとめぼれして玉砕したのだという。自分のような犠牲者を出したくないと、徐々に熱くなってくる彼を洋介は冷めた目で見つめていた。


 彼が言うには、あんなにも優香の中身が冷たいとは思っていなかったそうだ。

 洋介は、その言葉に苛立いらだちを覚えた。それはおまえが勝手に彼女に理想を押し付けていただけだろう、と言いたかった。しかし、こんなところで波風を立てるのが嫌で、仕方なく洋介は黙って彼の話を聞いていた。


 その後も井上優香という少女のうわさは、風に聞こえてくる。

 容姿に関しては言わずもがな。洋介が通うのは、平凡な公立中学。明らかに優香は雑誌かテレビか、そんな非日常から出てきたような華やかさを持っていた。

 学業は申し分なく。それどころか、学校の先生ですら彼女にミスを指摘されることを恐れるほどだという。

 どうやら現時点で既に中学の内容は自主的に終わらせてしまっているらしい。どこから聞きつけたのか、「どうやら井上優香は、家の方針で公立しか通えないらしい」なんて話をしている者までいた。


 そして、その容姿に似つかわしい彼女のよく言えば高潔、悪く言えば冷酷な態度についても同時に聞こえてくる。

 裏で、彼女が「女帝」と呼ばれていることも洋介は知っていた。


 例えばこんな話がある。

 優香は、誰もやりたがらない生徒会に立候補した。漫画とは違い、中学の生徒会なんて大した権限を持っていない。ただのごっこ遊びだ。

 しかし、そんな遊びの延長線上でしかなかった生徒会を、優香は己の才覚を十二分に発揮して奔走することになる。


 女子の頭髪に関する古くからある校則。そんなものは時代にそぐわない、という最もな理由があっても、誰もが行動してこなかった。それを優香はとことん動き回り、校長を含め教職員やPTAを説得して改めさせた。

 これも長い間、是正されてこなかった学内活動に関しての予算の偏り。特に部活動がひどかった。そんな現状を、優香は許さなかった。様々な反対意見を理詰めで退けて、優香は自身の代だけで再分配を成し遂げた。


 その姿に憧れて近づいてきた者には、容赦なく自分と同じレベルの仕事を要求する。ある者はそれでも何とかついていって、ある者は無言で彼女の側を去っていった。

 そして、くだんの少年のように、優香に好意を示してきた者を彼女は冷たくあしらった。同世代の色恋には全く興味を持っていないようだ。

 優香に少女の顔を期待するのは筋違いだ。告白をしてきた相手に、優香は表情一つ変えずに問いただす。

 何故なぜ、自分に好意を抱いたのか客観的に知りたい。男女の交際というものは知っている。それをするのなら相手のことを知っておかなければいけない。そんな、合理的な判断による言葉が相手に冷たく突き刺さるのだ。

 そのりんとしたたたずまい。その前で自信を持って、自身のことを語れる相手がいたら、もしかしたら優香と付き合う者が現れるかもしれない。


 まぁ、そこに恋だの愛だのは存在しないわけだが。そしてまた、優香に挑んで勝てる者も存在しない。


 気高く強く、孤高に咲き誇る高嶺たかねの花。それが、井上優香に対する総評だ。


「何か違うよなぁ」


 そういった話を聞く度に、洋介は首をかしげるのだ。


 洋介にだって確信はない。しかし、皆の彼女に対する評価は、優香の表面しか見ていないのは確かである。

 そして、彼女は内心を見せる機会を自ら削り取っている。そんな気が洋介にはしているのだ。優香はわざと壁を作って周囲に接している。


 それを、少し寂しいと思うのは間違っていないだろう。洋介は、そう思った。


「何が違うの?」


 頭の上に載っているライツが洋介のつぶやきに返事をする。彼女には重力が働かないのか、座っている感触はあるのだが重さは全く感じ取れない。

 机の上に居られると、気が散って仕方がなかったのだが、ライツが頭の上に陣取ってからというもの、洋介は眠気を残しながらも集中して授業が聞けていた。


「こっちの話」

 洋介の返事に、「そっかぁ」と素っ気ない返事をして、ライツは再び歌を歌いだした。


 ライツの声が、遠い空へと消えていく。

 頭の上、などというかなり近い距離にいるのに、遠くから内へとしみ込んでいく。そんな錯覚を洋介は覚えていた。


(なんか、不思議な感じ)


 ライツの歌はそんなにうまいわけではない。子供らしい楽しさを優先したものだ。当然、時折音程がずれてしまっている。

 それなのに、何故なぜか印象深い、透明感のある歌声だった。普段の会話はお世辞にも流暢りゅうちょうなものではない。舌足らずな印象の強いライツが、ここまでわかりやすく心に響く歌を歌えるのかと洋介は驚きさえ覚える。


 自分にしか聞こえないのがもったいないくらいだ、と洋介は思う。


(自分にしか、か)


 ズキッと、心がきしむ音が聞こえた気がした。自分の頭に生まれた言葉に、洋介は自分で自分を傷つける。


「さぁ、どうしようかな」

 先ほど、ライツの歌声に感心していたときの顔色とは違っている。洋介の表情は、誰が見ても明らかに曇っていた。


「……ヨースケ?」

 ライツは、そんな洋介の顔を見ずとも彼の異変を感じ取っている。彼女は、どこか温度のようなもので洋介の心を感知していた。

 だから、だ。ライツは急に冷たくなった洋介の心に戸惑って歌うのを止めた。


 ライツがこちらを心配そうに見ているのにも気づかず、洋介はずっと遠くを見つめていた。昼休みが終わる、そんなチャイムの音が聞こえてくるまで、洋介の思いははる彼方かなたにあった。


 授業が再開されてからも、ライツはずっと洋介の頭の上にいる。別に洋介から離れても良かったのだが、フラフラするのも面白くない。

(どうしちゃったのかな。ヨースケ)

 洋介に構ってもらおうと思っても、あの時から洋介の様子はどこかおかしい。大人しく、洋介が元に戻るまで待つことにしよう。ライツはそれぐらいの空気は読めるのだ。


 そうして、最後の授業が終わった。教室からは、どんどん人気がなくなっていく。ここまでくると、ライツは自由に教室内を飛び回っていた。時々、チラチラと洋介の方を確認しながらだが。


 優香のカバンはまだ置いてある。あの騒動の後、彼女は結局放課後まで帰ってこない。


(井上さんが、本当に見えるのなら……そりゃ、協力してもらったほうが助かるよな)


 そんなことを思いながら、動くことができていない洋介はどう優香に話を切り出すべきか考えている。

 しかし、考えようとすると、思考はすぐにとんでもない重さを持った記憶に塗りつぶされてしまうのだ。


――また、そんな幼稚なこと言って。バカじゃねぇの。正直言って、気持ち悪いぞ。


 脳裏によみがえる光景に洋介は目眩めまいを覚えた。

(頼むよ、僕。何年ったと思ってんの)

 ままならない自身の感情に、洋介は目をつぶって息を吐いた。


 幼い頃、祖父の家で会った友達。彼女は自らを桔梗ききょうと名乗っていた。


 桔梗ききょうとの思い出を、洋介は誰にも言わず、ずっと心の中にしまっていた。なにせ、大人は誰も彼女に気づいていない。洋介にしか見えない、とはその友人自らが言っていたことだ。

 なんとなく、話題にもしてはいけないのだろう。そう思って、洋介は桔梗ききょうの名を口にすることもなかった。


 しかし、彼女と別れ、会えなくなったことで急速に思い出が薄れていくのを洋介は感じた。桔梗ききょうの存在、それそのものが泡沫ほうまつのようであった。


 それが怖くて、洋介は「こいつなら信じてくれるかもしれない」と信頼する友人に彼女のことを話したのだ。

 結果、信頼は裏切られることになる。信じていた分、衝撃はすごかった。目の前が真っ暗になる、とは比喩ではないことを当時の洋介は初めて知った。


 それだけではない。どこから漏れたのか、一人にしか話していないのに洋介がおかしなことを言っているといううわさが学級に広まった。

 最早もはや、誰も信じることはできない。そんな風に、洋介は自暴自棄になった時期もあった。


 優香はライツのことが見えるかもしれない。


 その事実が抑えきれない喜びとなって、今まで心の奥に隠していた悲しみを引き連れて現れてしまった。洋介は忘れたようとしていた。しかし、彼の心は痛みを覚えている。


 そう、幼い頃に出会ったかけがえのない友人との思い出も。それを一緒に信じてくれると疑いすらしなかった相手に拒絶された時の心の傷も。

 洋介は、全てを忘れようとして、しかし、忘れられなかったのだ。


 窓ガラスにもライツの姿が映っている。反射した像であるライツと、洋介は目があった。

 ライツはニコニコと、手を振っている。


 何の疑いもなく、迷子だというのに洋介を信頼してくれて、キラキラと輝く瑠璃色の瞳を輝かせる。


 きれいだな、そう思った時、洋介は自分の闇がすっと晴れていくのを感じた。


 昨夜、熱を取り戻したライツの体温は確かに感じた。今日、彼女の歌声を聞いて心地よいと感じていた自分は今もここにいる。そして、まさにこの瞬間、洋介はライツの不思議な瞳の色に心を奪われている。


(そうだよ、今、ライツはここにいるんだ)

 その事実が、彼を少しだけ励ましてくれる。


(もし、ライツが僕の妄想だとしても。それは、それで良いかな)


 覚悟はできた。しかし、優香と面と向かってライツの話をする勇気はさすがに生まれてこない。随分と気持ちは楽になったのだが。


「ああ、そうか」


 自分の思い出にしか残っていなかったあの頃と違うのだ。自分の心にしか映像が残っていない桔梗ききょうのことは、彼女のことを唯一知っている洋介ですら信じきることができなくなってしまった。

 その時とは状況が違う。ライツはここにいる。それが、勇気の源だ。


「確かめてみるってのも、一つの手か」

「確かめる?」


 ライツがふわりと浮き上がって、洋介の顔の前にやってくる。彼女の瑠璃色の瞳に、洋介の顔がはっきりと映っている。

 そこに、先ほどまでの不安な表情はなかった。


「うん、ちょっとライツに紹介したい人がいてね」


 こちらの世界にひとりぼっちなライツのためにも、彼女の助けとなってくれる人物はいてほしい。

 その点、井上優香という少女は間違いなく適任だと洋介は思えるのだ。



 すでに夕暮れになった頃、優香はようやく教室に戻ってこられた。


「不覚だ」

 誰もいない教室で、少女の声だけが響く。


 いくら体調不良と寝不足が重なったとは言え、六時間の熟睡はさすがに寝過ぎだろう。担任も養護教諭も起こしてくれれば、と優香に羞恥心が襲ってくる。


 先生を擁護ようごするのであれば、保護者への連絡も済ましたので寝かしておいてあげようという優しさからくるものだ。熱も微熱で大事ではなさそうだし、静かに寝ているのであれば起こすもかわいそうだと感じたから、優香をそのままにしていた。優香がここ最近の激務で疲れていることも、教職員はよく分かっていた。


(『完璧は目指すもの、最善を尽くせ』。これでは完璧には程遠いわ)


 父の言葉を思い出し、優香は自身に気合いを入れる。とりあえず、今日の失態は自分で取り戻すしかないのだ。


 ふと、視線を自分の席から手前に移す。まるで、いまさっき見たものかのようにはっきりと映像が浮かび上がる。

「あれは」

 実は、ずっと、夢に現れていた。あの金色の髪がまぶしい小人の姿が。


 数学の試験、見直しも終わって顔を上げた。そこに彼女がいた。

 学校に人形でも持ち込んだ人がいるのだろうか、と気になって見ていれば、まるで生きているかのように動いていた。あまりに不思議な光景に、優香の目は釘付くぎづけになる。

 そして、ふと優香と彼女の視線が交わった。彼女は、こちらを認識してニコッと笑いかけてくる。脳の許容量を超えた光景に優香は思わず悲鳴をあげてしまったのだった。


 そんな失態を思い出して、優香は顔を手で覆う。

「不覚だ」

 顔が熱い。また、熱が出てきだろうか。


 いくら何でも、あれはおかしすぎると優香は思う。それだけ、自分らしさを失うほどに疲れていたのか。それなら、この長時間の睡眠も納得できる。


 簡単に認めたくはないが。

「そう、何かおかしかったんだ。今日の私は」

 そうとしか思えなかった。


(いいわね、優香。失態はここまで。精進するのよ)

 おかげで頭がはっきりとしてきた。これなら、『井上優香』らしく振る舞えるはずだ。


「何がおかしかったの?」

 だから、自身のつぶやきに対する急な返事に驚きがあっても、優香は声を出さずに向き直ることができたのであった。

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