第7話 瑠璃色の糸

(だれっ!?)

 飛び出そうになった心臓を喉でせき止めて、優香ゆうかはゆっくりと振り返る。感づかれぬように小さく息を吸い込み、表情を整えた。


 振り返った先には、夕日であかく染まった教室に立っている同級生の姿が目に入った。

(えっと、知っている顔なのだけれど)

 名前は、何だったろうか。確かに同じクラスにいたことは覚えてはいるが、すぐに名前が出てこないほど優香の印象には残っていない。


澤田さわだくん」

 優香が名前を呼ぶと、彼はにこやかに表情を崩した。


 澤田さわだ洋介ようすけ


 彼と関わった記憶が優香にはない。思い出してみるも、どこか薄ぼんやりとしている。残っている記憶からは浮き世離れした印象が伝わってくる。

 どこか、つかみどころのない人物だ。それが、優香が洋介を評した人物像である。


「よかった。なかなか戻ってこないから心配していたんだ」


(あら?)

 その、にこやかな笑顔に優香は洋介に対しての印象を修正する必要を感じた。


 こんな表情をするんだ、と意外に思う。あまり注意して見ていなかったということもあるが、洋介が笑う姿に優香は覚えが無い。

 こんなにはっきりと自分の感情を表情に出せるのだと、今日始めて知った。


「別に。あなたに心配してもらうほど、最初から悪くないわ」

 優香は洋介の穏やかさとは対照的に、洋介を冷たく突き放す。


 そんな言い回しになってしまうのも、彼が本当に心配しているということが分かったからだ。これ以上、心の距離を近づけさせて、自身の弱い部分を見せたくない。そんな思いが優香を支配している。

 だから今すぐにでも離れて欲しかった。それなのに、彼はうれしそうに笑った。


「そっか、よかった」


 それどころか、先ほどよりも距離をつめられた。そのまま彼はそこに居座っている。

(何を考えているのだろう)

 恐らく、自分はかなり鋭い視線を彼に向けているだろうと優香は意識している。それなのに、洋介は微動だにしない。意に介せず、優香に微笑ほほえみかけている。

 こんな経験はしたことがない。不思議な人だ、と優香は洋介を改めて評した。


「それで、澤田さわだくんは私に何かあるの?」


 彼がここを立ち去らないのなら、用件を言ってもらおう。早く帰りたい、そんな焦りを分かりやすく示す。

 洋介は、それでもマイペースに会話を続けてきた。


「ああ、うん。ちょっと確認したいことがあって」

「確認?」


 一体何を、と優香は思う。これも、なかなか経験することのない会話の切り出し方だ。それに、先程も思い返したように洋介と優香にはあまり接点がない。

 そんな間柄で確認することなど、何があろうか。優香はじっと、洋介の挙動を注視していた。


 そんな鋭い視線を向けられた洋介は、右手でポケットを探り出した。そこから何かを取り出して、優香の前にその手を広げて見せたのだ。


 最初はあまり近寄ろうともせずに、遠目に見ていた優香。しかし、目を丸くした後に、彼女の方から初めて洋介との距離を縮めた。

(ちょっと待って。今の何かしら)

 視界に入ったものが何なのか、とてつもなく気になってしまったのだ。優香はのぞむように、洋介の手のひらにある何かを見つめた。


「何、これ」


 彼が持っていたのは正方形の布であった。大きさは何かの切れ端のように小さい。それなのに、その周辺は既製品のように綺麗きれいに縁取られている。


 最も驚くべきなのはその色だ。あお色というか、藍色というか、紺色というか。

(もしかして、光ってるのかしら)

 布、それ自らが光を放っているようにすら感じるほど、それはきらめいていた。こうして優香が見つめている間にも、色は刻々と変化している。

 その不思議な色合いに、優香の瞳は釘付くぎづけになっていた。そんな彼女を見下ろして、洋介は胸をなでおろした。


 これなら大丈夫だ。

 洋介は背中側を見て合図を送る。優香はそんな彼の仕草に気づく様子もなく、不可解な布の存在にのめり込んでいる。


 どれだけ時間がったろう。ふと、我に返って優香は顔をあげる。

「ね、ねぇ。澤田さわだくん。これって」

 この布を、どんな意図で見せてきたのか洋介に聞かなければならない。優香が自分で行動を起こすほどに、その不思議な布が与えた衝撃はすさまじかったのだ。


「……えっ?」

 しかし、優香はその後の言葉を続けることができなかった。


「ふふふ」

 微かな笑い声が優香の耳に届く。優香の眼前には、布と同じ輝きをした瞳があった。

 それはまさしく、夢で見た小人。彼女は、あの時の同じように笑みをたたえて優香を見つめていた。


 しばらくの沈黙。


「えええええええええっ!?」


 そして、絶叫。


「ひゃあ」

 あまりの声量に驚き、ライツは浮いていられなくなったのか、床に落ちかける。同じく驚いていた洋介だったが、そんなライツに気づいて慌てて彼女を拾い上げた。


 ほっ、と一息ついて洋介の手の上で体勢を整えるライツ。


「え、あれ、ちょっと待って」


 優香はふらふらと後ろに下がって、自分のはしたない声が聞かれていないか周囲を見渡したり、ニコニコと笑っているライツをじっと見たり、あまり見たことのない優香の姿を目の当たりにしてパチパチとまぶたを動かしている洋介と視線を合わせてみたり。

 優香の瞳は、とてもせわしなく動いている。


(こんな井上さん、誰も見たことがないんだろうなぁ)


 優香には悪いとは思うが、洋介はこの状況を非常に面白く思っていた。こんな、我を失って慌てふためく彼女を見たことがない。


「あー、えっと、これは、どういうことかしら?」


 まだ言葉がまとまっていないが、優香の目の焦点は合ってきた。洋介の手から離れて、ふわふわと彼の周囲を飛んでいるライツを徐々に冷静さを取り戻しつつある目で追っている。

 その視線に気づき、ライツは優香の近くに寄っていった。もう、優香もそんなライツに叫んだりせず、彼女の一挙手一投足を見守っている。


「こんにちは、ライツです。よろしくおねがいします」

 学校のどこかで知ったのか、やたら丁寧な挨拶をお辞儀付きでするライツ。

「……こんにちは。井上優香です。こちらこそ、よろしくおねがいします」

 そのテンプレートな自己紹介に、長年培った礼儀作法を返す優香。そのあまりの普通さに、ようやく優香の沸き立った思考が冷えてきたのだった。


「夢、じゃないわよね。一体、あなたは」

「ライツはね、ライツって言うんだよ」

「……それはさっき聞いたわ。私が問いたいのはね」


 そんな二人のわない会話を聞いている洋介は、笑いをこらえていた。滑稽で仕方ない。

 そして、同時に安堵あんどの息を吐くのであった。


(うまくいってよかった)


 洋介が優香に見せたのはライツが用意した『ハンカチ』である。


 授業中、流石さすがに洋介に相手をしてもらうわけには行かず、暇になったライツは洋介のカバンの中に入って荷物をあさりだした。そんな変なものは持っていないが、どうしても気になって洋介が彼女に視線を向けていると、ライツは彼の荷物の一つに興味を示した。

 それがハンカチだ。その正方形の布と戯れた後に、彼女は洋介の机の上に戻ってくる。そこで何やら両手をふわりふわりと動かしだした。

 まるで機織りのようだな、と洋介が感じている間に彼女の手に握られていたのがくだんの瑠璃色の布だ。


 ライツの衣服は、魔法といっていいのだろうが、彼女自らの力で生み出している。その力の切れ端を使って生み出したのが、ライツの『ハンカチ』なのであった。


 ライツの存在と同じで、その布も彼女が見えないものには見ることができない。あえて、机の上に出しっ放しにしていたのだが、級友たちは誰一人、ライツにもこの布にも気づくことはなかった。


 こんなに綺麗きれいなのにな、と洋介は残念に思ったものだ。

 その無念が、洋介のトラウマを刺激していたのだが、ライツを見ているとそんなことは考えていられなくなった。彼女の落胆ぶりは、それほどのものだったのだ。


――こんにちは、ライツです。


 初めて会う相手には、こういう挨拶をする。学校をうろついて、そう学習したライツはその真似まねをして、笑顔で挨拶を続けていた。しかし、彼女の存在に気付くものは誰一人いなかった。


――なんか、つまんない。


 落ち込みに落ち込んだライツは、あれほど押し込められて嫌がっていた洋介の鞄(かばん)の中に引きこもってしまっていた。そして、つい先ほどまで出てくることはなかったのだ。

 優香に話しかけている時も、ライツはカバンの中から顔だけ出してこちらを見ていたのである。


(だから、先にハンカチを見せてみたんだけど)


 優香はライツが見えるかもしれないと予想はしていた。だから、ライツにそれを告げて彼女を待った。

(夕方まで帰ってこないとは予想してなかった)

 放課後まで待つとは思っていなかったが、そのおかげで心の準備は完了した。我ながら、スムーズに話を切り出せたものだと洋介は胸を張る。


 予想通り、優香には見えるようだ。それで、ライツと引き合わせたのである。


「わかった、それなら……澤田さわだくんに話を聞くから。それでいい、ライツちゃん」

「うん、いいよ。ユーカ」


 どうやら、自分の出番がきたらしい。洋介は、少しだけ軽くなった心で優香と向き合うのだった。

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