第5話 お昼前の一騒動

「……あれ?」

 目を覚ましたライツの目に映ったのは、見知らぬ景色だった。


 眼前には白い天井。無機質なそれに、ライツは見覚えがない。

 厳密に言えば、昨夜見ていたものと同じはずである。しかし、彼女はそれを「知らない」と思える。白い天井は、ライツに対して初対面の顔をして見下ろしていた。


 むくり、とライツは起き上がる。


「ムゥ……」


 その顔は不機嫌そのもの。いつもなら、起き上がってすぐに飛び出すところであるが、今日はそんな気分になれない。

(うーん、なんだろ?)

 体の節々に違和感がある。己の指先が自分のものではないようだ。


(イタくは、ないなぁ)


 ライツは両手をニギニギと何回も握っては開いている。四肢の感覚が鈍いように彼女は思えた。


 実際の衝撃は少なくとも、墜ちるというのは、ライツの体にとてつもない負荷を与えたようだ。どうも、彼女が気付いていないだけでライツの身体には相当のダメージが残っているようである。


 しかし、それも一瞬。

「あはっ」

 思わず笑みがこぼれる。


 すぐに元の感覚を戻ってきた。安堵して、手のひらを下に下ろした。触覚も戻ったことで、その指先に触れた柔らかいものにライツは気づく。


 それはライツの為にと洋介が用意してくれた簡易ベッド。タオルとお菓子入れだったカゴでできたそれは、普段ライツが使っているものに比べれば、非常に粗末なものではあった。しかし、ライツはそこから、洋介という人間の優しさを感じ取っている。


 だからだろうか。


「ヨースケ?」

 この場に、その優しさの主の姿が見えないことにこんなにも不安になってくるのは。



 同刻。

「ふわぁ〜」

 ライツがキョロキョロと周囲を見渡している頃、洋介は教室で大きなあくびをしていた。


(ダメだ。視界がボヤける)

 洋介は眠そうに目をこする。事実、眠くて仕方がない。

 

 先程からあくびが止まらない。脳が酸素を欲しがっている。血液が頭まで回ってこない感覚が洋介にはあった。

 朝からこんな様子では、さすがに今日一日、体がもたないかもしれない。洋介はそんな未来予測に、頭をかいて唸った。


(さすがに朝まで、は、失敗だったかなぁ。でも、まぁ、いいか)


 一晩中、洋介はライツと話をしていた。

 彼女が語るのは、洋介の知らないことばかり。そして、それを素直に、無邪気に、楽しそうに話すものだから洋介も楽しくて仕方がなかったのだ。


 気づいたら太陽が昇っていた。一緒に話していたはずのライツは、いつの間にか電池切れを起こして前のめりになって眠ってしまっている。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。ライツをカゴの中に寝かしつけた洋介は己の失態を取り戻す術はないことを悟った。

 このまま彼女のように寝てしまいたい欲求はある。しかし、今から寝てしまえば確実に遅刻だと、洋介は徹夜することを決めたのであった。


 その結果、学校まで辿り着くことができたのはいいが、椅子に座ったところで限界を迎えている。一歩も動けなくなってしまっていた。


「よっ」

 そんな洋介を一瞥して、一個前の席である自席にカバンを置いた少年が洋介に話しかけてきた。

「珍しく早くいると思ったら、かなり眠そうだな」

 知也ともやが洋介を不思議そうな眼で洋介を見つめてくる。


「夜更かしで勉強でもしたのか。ほんと、珍しいな。そんな真面目だったっけ?」

「ま、まぁね」

 軽い口調で話しかけてくる知也を見て、少しだけギョッと目を大きく見開いた洋介だったが、すぐに表情を戻す。しかし、その笑顔はぎこちない。


 そんな洋介の様子に気づいているのか、いないのか。

「ふ~ん、そろそろやる気出てきたか。澤田が本気出してきてるとなると、いよいよヤバいんだろうな」

 けらけらと知也は洋介を見て笑っている。その笑顔に不自然さは一切ない。


(そうだ、そうだ。こいつはこんな奴だった)

 洋介は、自分だけが緊張しているのが馬鹿みたいに思えてきた。知也の態度は昨日洋介に見せたものとは大幅に違っている。

 しかし、違っているように見えるのは洋介だけなのだ。あくまでも知也はマイペース。何も変わっていない。


――いい加減にしてくれ。お前といると、俺まで腐ってしまう!


 あの、洋介の心に深く突き刺さった一言を発した場面も知也にとっては日常の一コマに過ぎなかったのだ。


 たき知也ともや。洋介にとっては、相手から話しかけてくるというレベルに達している数少ない友人である。


 知也はサッカー選手として部活動に打ち込み、進路もスポーツ推薦一択であった。しかし、最後の夏、自身の軽い怪我けがもあって成績があまり良くなかった。その為に、目指していた高校への推薦が厳しくなっていたのであった。

 そして、進学先の選択肢を増やすために、これまでやってこなかった受験勉強を始めた。学業へとかじを切ったのだが、それはサッカーしかやってこなかった知也にとっては、とてつもない負担だったのである。


 そのため、精神的にとてつもなく不安定で、彼にしては珍しく、厳しい表情をしている時も多かった。真剣に自分の未来を考えていないように見える、いや実際にそうである洋介に知也が苛立ちを露わにすることはよくあった。

 

 そして、件の洋介への暴言へと繋がるのである。


「俺も頑張らないとなぁ。いくつか、声をかけてくれる学校あるけど、みんな公立なんだから」


 しかし、洋介にとってこれまで歩んできた道を恥じ、自身をかえりみるほどに重かった言葉も発した本人はそこまで意識した発言ではなかったようだ。

 現に、気まずい様子も見せず、仲の良い友人としての顔を洋介に見せている。


(そういや、滝って最初に会った時からそうだったよな)


 基本的に思ったことを口にするのが、滝知也という少年だ。

 澤田って頭良さそうに見えないよなと、テストの点を覗き見るという悪行を働いてさらに悪態を上乗せしてきたことを洋介は今更思い出した。


(いいよいいよ。僕だけ気にしてるっていうのなら、それでいい)


 知也が気にしていない。だったら、それでいい。それでいいと思うのだが、洋介は少しだけ釈然としない思いを抱くことになった。


「しっかし、数学はどうやったら点数取れるのかな。こればっかりは澤田に聞くわけにも行かないし。澤田、極端に数学だけ成績悪いからなぁ」

「そうですね」


 スラスラと言葉が出てくる知也に対し、それでも、洋介は非常に気にしているので返す言葉が出てこない。今まで、どう返事していたのかも思い出せず、おかしな丁寧語が飛び出す。

 そんな彼の返事もあまり気にせずに、知也は「がんばろうなー」ともう一度声をかけて席についた。


 数学、というキーワードで思い出したものの、今の今まで洋介は完全に忘れていた。

(そういや言ってたな、先生)

 今日の数学は単元テストだ。成績に関わるものだと言っていたことも洋介は同時に思い出した。

 もちろん、何の準備もしていない。心の準備ですら皆無だ。洋介は、心の中で大きく嘆息した。



 一時間目の内容は、まったく頭に入っていない。恐らく、起きながらに洋介の頭は眠りについていたのだろう。

 そして、迎えた二時間目のテスト。当たり前だが散々だ。グラフを書こうとしても、思うような線すら書けない有様だ。


(これは、職員室に呼び出されるな)


 洋介は理由を問いただす教師の顔を想像する。おまえは何を考えているんだ、と。そして、素直に忘れていた、と言ったら相手は激昂するだろうか。

 それも仕方ないことだ。実際、自分が悪いのだから洋介には何の言い訳もない。

 

(明日の自分に期待しよっと)

 

 諦めたが最後、洋介の頭から数学のすの字もなくなった。


 代わりに思い出すのは蒼く光る花畑だったり神々こうごうしい神殿のような建物だったりする。ライツが語る内容を自分自身で想像したものだ。

 自分が作り出したものとはいえ、何とも心躍る光景ではないか。少しだけ、洋介は眠気が吹っ飛んだ気がした。


(そういや、あいつ、まだ寝てるのかな)


 そこまで想像したところで、今朝のライツを思い出す。夜明けを迎えると非常に眠たそうに目をこすっていた。

 ちてきた、なんていう状況。そして、慣れない世界での疲れもあったのだろう。お菓子の入っていた竹を編んだカゴに、洋介が用意したタオルを敷いただけの簡易ベッドに横になると、すぐに寝息をたてて動かなくなった。


(置いてきちゃったけど、大丈夫かなぁ)


 学校に行く、夕方には戻るという内容のメモを残してきた。それだけで、大丈夫だと思っていたが冷静に考えてみると不十分だ。不安は募っていく。


(やっぱ、寝不足で判断力鈍ってたよな。今朝の僕は)


 言葉が通じていたから失念していたが、そもそも彼女が日本語を読めるかどうか怪しい。その辺りの視点が欠落していた。

 学校が終わるまで、まだまだ長い。考えれば考えるほどに、席を立ちたくて仕方なくなってくる。


 休み時間を使って一旦家に帰るべきか、仮病をつかって早退するべきか。


 そんな風に考えていたからだろうか。洋介は肘に消しゴムが当たったことに気づかなかった。

 こつんと、床で消しゴムが跳ねる。彼の消しゴムは誰の目に映ることなく、床を転がった。監督をしている先生ですら、他の方向を見ていたのだから気づく者は誰も居ない。


 しかし、そうではなかった。

「おっ」

 小さな瑠璃色の瞳だけはその姿をとらえていたのだった。


「ヨースケ、落としたよ」

「ああ、うん、ありがとう……って、え?」


 熟考中に話しかけられたことで素直に返事をしたが、すぐに洋介は違和感を覚える。消しゴムを両手に抱え込み、机のすみにちょこんと座っていたのは、今考えていた件の少女だった。

 普段見慣れた茶色の背景。そこに、金色の髪をさらりと揺らして笑う小さな少女。そのアンバランスな光景に、洋介は一瞬脳の回転が止まる。


「ラ……ツ!」


 大声を出すのはぎりぎりで我慢できた。


 洋介の不可解な様子を気にしだした先生と目が合う。しかし、彼は洋介と同じように机の上に堂々と座っているライツに気づく様子はない。

 その視線に、幼い頃の嫌な思い出が蘇ろうとするが頭を振って吹き飛ばした。できる限り、大げさに頭を動かす。


(眠たくなっただけなんですよ、ホント)


 洋介が見せた演技に、先生の視線は再び外れた。安堵の息を吐くと、テストを受ける姿勢のままライツを見下ろした。

 彼女は洋介と視線が交わったことが嬉しそうだ。一層、笑顔を輝かせている。人の気も知らないで、と洋介は思うが、そんな彼女が微笑ましくもあった。


 さて、ここからどうするか。

(そっか、最初からこれでよかったのか)

 このままおとなしくしてくれるのなら、別に他の人に見えるわけではないのだから問題ない。


 そう、洋介が結論づけようとした時。


「ひゃあああっ!?」

 今度は静かな教室を引き裂く悲鳴で、洋介の思考がかき消された。


 反射的に洋介はライツをつかみ、窓側にかけてある鞄のなかに突っ込んだ。

「うひゃあっ!」

 こちらからも悲鳴が聞こえるが、今は気にしない。今、この場にライツがいることはよろしくない。洋介は直感的にそう思えたのだ。


「井上、どうした?」

 先生が信じられないと言った表情で駆け寄っていく。


(今の声、井上さん?)

 信じられない、というのは洋介も同じ思いだ。彼女の、先程のような感情的な声を聞いた覚えが洋介にはない。


 先生や、洋介だけではない。普段の彼女の様子を知っていれば、誰だって驚く。


 井上優香、冷静沈着な生徒会長。その厳格さから、一部では「女帝」などと揶揄されることもある少女。

 テストそっちのけで皆がざわめいている。無理もないことだ。


「あ、あれ?」


 本人は混乱しているのか、落ち着きのない様子で周囲を見渡している。こういう彼女の姿も珍しい。どうしても、洋介は気になってしまうが、あまり見ていると色々と悪い気がする。


 洋介はそっと視線を外した。しかし、耳は彼女の方へと意識を向けている。


「ご、ごめんなさい。少し眠ってしまったみたいで」

「体調が悪いのに無理をするからだぞ。なんだ、もう答案はできてるじゃないか。これは預かるから、保健室で休んできなさい」


 優香が離席する気配を感じながら、洋介は形だけでも解答用紙に向かう姿勢をとる。


(井上さん、体調悪かったんだ)

 優香のことを案ずる洋介だったが、彼が気にしなければいけないことは他にある。


「ヨースケのバカァッ!」


 左側、鞄の中から抗議の声が聞こえてくる。何をするのか、とか、ちょっと痛かった、とか。

 さすがにかわいそうだったかもしれない、と洋介は反省する。しかし、仕方なかったのだ。そうしなければ、洋介の心の平穏は保てなかった。


(まさかとは思うけど。もしかして井上さんって)


 優香のことを気にしながら、洋介はそっと鞄の中をのぞき見る。


 そこには体操服の入った袋とシューズの袋で挟まれて身動きがとれなくなっているライツがいた。

「むぅ」

 発酵したパン生地のように頬を膨らませている。とても柔らかそうだ。思わず、洋介は笑ってしまう。


(おっと、カンニングだと思われるな)

 洋介はテストに視線を戻す。しかし、当然、思考はテストの内容には向かっていない。

 

 気になるのは優香が悲鳴をあげたタイミングだ。

 眠っていた、という彼女の言葉が本当であったのなら問題ない。しかし、ライツが絡んでいるとなると話は変わる。


 優香の悲鳴には、ライツが関わってくるとしか洋介は思えなかった。洋介は、優香が驚くような出来事を他に知らない。見たことのないものが相手なら、彼女も声を上げるだろう。しかし、それは反射でなければならない。優香は、洋介が知っている限り、幽霊ですら相手に話が通じれば論戦をしかけてくるような人だ。

 そうなると、消しゴムが宙に浮いていたのを見たから、では声を出すのが遅すぎるのだ。


(もしかして、井上さんも……見える?)

 今度は別の意味で、数学の問題に手がつけられなくなってしまった。

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