第9話 心の距離

「もう少し、作りを細かくできなかったのかしら。もちろん専門家じゃないのだから、そこまでの精度は求めないけれども、まだ精進する余地があるわ。これを表に出したら、怠慢だと思われないかしら」

「すみません……」

「あ、先輩が謝る必要はありません。今のは単純に、私の感想なので」


 謝る必要はない、と口では言いながらも優香は不満げな顔を崩しはしない。他にも気になるところがあるのか、言葉にしなくても視線は鋭いまま変わらない。目の前の大道具を、強い眼差しで見定めていた。


 その妥協を許さぬ姿勢は周囲の人間から見れば頼もしいこと、限りない。彼女に任せておけば、物事のクオリティが上がることはあっても下がることは決してない。

(いや~、これでも結構やったほうよ。俺)

 しかし、一緒に仕事する人間から見れば恐ろしいこと、この上ない。なにせ、優香が求める理想ははるかに高い。それを実現させようとするのなら、相当の覚悟が必要だ。

 彼女が先ほど言ったように最近は、少なくともプロフェッショナルな仕事をアマチュアにお願いするような無茶はしなくなった。一時期に比べれば、他者に飛び越えてほしいハードルは低くなっている。

 

「この辺り、最後に手を抜いたら台無しになってしまうこともあるのに。それこそ、あと一歩での過ちというのを認識する必要があるわね」

「すみません」

「だから、謝る必要はないと言ってるじゃないですか」


 優香はずいぶんと甘くなった。それは優香自身も自覚しているところだし、別に悪いことだとも思っていない。むしろ、良い方向への変化だと思っている。

 それでも、できることすらできなくなってしまうたぐいの精神的な甘えというものを井上優香という人間が許すことはない。完璧は実現できずとも目指すもの、彼女の根底にある考えが揺らぐことはない。


 こういう人間だからこそ、下級生でありながらイベントの指揮を任されているのだ。学校側からの信頼感はとてつもなく高い。

 ちなみに彼女の前で恐縮している少年は、一応は一学年上の先輩である。

「これじゃあ、他の人が作っている物と並べたときに見劣りします。もう一回、やり直す時間はあるかしら?」

「は、はい。やりますよ、やりますって」

 当初は優香に対して馴れ馴れしかった少年も、今ではすっかり従順になってしまった。それだけ、優香の鋭い視線を受けて萎縮しているのだ。


(誰だよ、こんな可愛い子と一緒にやれてラッキーだとか思ったやつ)

 少年は他者に責任を転嫁てんかしようとしているが、優香がいることを知って運営に参加したのは自分自身である。あわよくば、何かしら良い関係になれないかと妄想していたのを思い出して恥ずかしくなってくる。

 そんな羞恥を抱えて、少年はいそいそと自分の持ち場に戻る。そして、一番得意だからと引き受けたイベント用大道具の修繕を再開しようとしていた。


(くそっ、なんでこんな言われ方しなきゃいけないんだ。先輩だぞ、俺)


 これで優香が口だけの責任者だったら、少年の中に生まれた反発心も育っただろう。しかし、彼が想像する以上に優香の仕事は完璧に近かった。スケジュール管理もそつなくこなし、少年も「やり直す時間は無い」と言うとわがままになってしまうくらいは余裕をもって進められている。

(えっと、うわっ、確かに歪んでる。ここ、彼女の言うように最後にちゃちゃっとやっちゃったところだな)

 だから、少年は素直に目の前のやるべきことに集中できるのだ。


 しばらく顔を下げていた少年は、何かが気になって顔をあげた。

(ん?)

 視界では優香が妙な動きをしている。もちろん、本当に奇妙な動きをしているわけではない。いつも物静かに作業をしている優香が、そわそわとしている。それだけで「妙」なのだ。


「ごめんなさい、ちょっと抜けていいかしら」

「あ、大丈夫。任せておいて」


 近くにいた女生徒に声をかけて、優香は立ち上がる。

(おっ)

 立ち上がって教室を後にする優香の表情が、いつも見ていたものと違って少年は目を奪われる。


 最後に少しだけ見えた表情。それはとても柔和で親しみやすい、少年に生まれていた優香の堅いイメージを壊す輝きを放っていた。



「澤田くん」

 廊下で声をかけられた洋介はゆっくりと振り返った。

「井上さん」

「どうしたの、こんな時間に。帰ってるかと思ったのに」


 洋介はそう言われて時計に目をやった。時刻は五時を過ぎて、すでに校内は人気が少ない。確かにこんな時間に、帰宅部である洋介の姿があることは異例なのかもしれない。

「忘れ物を取りに来て。井上さんは仕事?」

「そうよ、って。いきなり何をいうのよ。それじゃあ、私はいつも仕事しているみたいじゃない」

 優香の表情は明るい。普段の彼女しかしらない人間が見れば、驚きで目を丸くするだろう。


 そんな優香とは対照的に、洋介の表情は常時暗かった。

「どうしたの、澤田くん。何か心配事?」

 さすがに優香も受け答えに一切気のない洋介が気になって問いかける。彼女がそういう反応をしたことによって、ようやく洋介は自分が上の空で話を聞いていたことに気づいた。

「ん、いや、何でも無いよ」

「そう」

 洋介にそう言われると、優香は何も言葉を続けることができなくなってしまう。


 それから、洋介はいつも通りの反応になったのだが優香にはずっと違和感がつきまとっていた。

(私が分かるくらいなのよ。何かあったに決まっているじゃない)

 優香は洋介が何かに「気づく」能力に長けていると評価している。それに反比例して、自分自身の「気づき」というものに自信が無い。


 そんな優香が洋介の異変に気づけるくらいなのだ。よっぽど、彼に何かあったのではないかと気になって仕方が無い。

「アルバイトは順調?」

「う~ん、まぁまぁかな。ようやく人の顔を見れるようになったよ。前に人の額見た方がいい、ってアドバイスもらってから良くなった」

 それなのに、洋介の内面に踏み込むことに恐れを感じて日常会話を続けている。

「あら、精進しているようで何より」


 ――今まで、誰も聞いてくれなかったからね。


 普通に話しているように見えて、優香の頭の中には洋介のある表情がちらついて離れない。普段の物怖じしない優香の言動は、こと洋介相手には発揮されない。


(ままならないものね)

 前に、洋介の心の傷を垣間見てしまってから優香は柄になく臆病になってしまっているようだ。そんな自分に腹立たしく思うときも優香にはある。


 その原因が何なのか。いくら考えてみても、優香には分からなかった。

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