第1話 白頭の少年

 澄み切った空気は遠くまで視界を広げてくれていた。その最奥では空の青、海の青が混じることなく真っ直ぐに水平線を描いている。時折、海からの風が吹いてきて、全身が潮の香りに包まれていく。

 そんな美しい光景を見ながら、これぐらいの量なら髪が傷んだりはしないかな、などと少女は現実的なことを考えている。


 井上優香、十五歳。ゴールデンウィークの長期休暇を利用して、この地を訪れていた。


 振り返って後ろを見てみれば、こちらも海に負けず劣らず鮮やかな新緑が広がっている。観光地として整備されてないせいか、山も海も幼かった頃の記憶のまま。昔通りの景色が、久々に訪れた優香を出迎えてくれた。


 自然豊かな土地ではあるものの、刺激は少ないのだろう。若者の数は年々少なくなっていると聞く。仕事も第一次産業が主力で、それを嫌って外に出ていく人達もいる。こうして優香が歩いていて、すれ違う人もご年配の人が多かった。


(お母さんも、ここなら無理はしないよね)


 優香の母も、この町を飛び出して都会に出ていった一人である。しかし、そのせいで自覚していなかった自身の体の不調に気づくことになる。そして、悪化の一途を危惧きぐした父のはからいによって、もともと実家のあったこの地に優香の母は移り住んでいた。


 楽しいことが大好きな母の性格からして、退屈はしているのだろう。


 少しは自分の体のことを労ってほしいと優香は短く嘆息たんそくする。

 母は、すぐに自分の限界値を超えて無茶をするのだ。昨日だって、久しぶりに顔を合わせた娘に感激しすぎて優香が止めるのも間に合わないほどに走り回っていた。こまめに連絡はとっているものの、直接会うのは別格の喜びがあったらしい。

 その結果、次の日は朝から寝込んでしまう事態となった。


(まさか、初日で力尽きるほどはしゃぐとは思わないじゃない)


 せっかく見舞いに訪れたというのに、自分のせいで悪化させては本末転倒ではないかと優香は天をあおいだ。


「……あれ?」


 優香は自分の不思議な感覚に戸惑った。重めの罪悪感はあるのだが、それがすっと抜けていったのだ。

 幼い頃だったら自己嫌悪で悩み尽くしていたであろう案件なのに。

 昔から母は確かに体が弱かったが、それを自覚しないまま大人になった。今のように、ちょっとした無理で倒れてしまうようになった元凶。それが、自分を産んだことであると知った時、優香はかなり長い間苦しんだ。

 その記憶は今も優香にはっきりと刻み込まれている。


「そうね、責任を感じて動けなくなるより行動しないと」

 誰に告げるでもなく、優香は確認のために呟いた。「自分が何とかしないと」という想いは相変わらず強いのだが、いつからか、その方向が後ろ向きではなく前向きになっているような気がする。


 そうすることができるようになったきっかけといったら、やはり――。


「えっ」


 物思いにふけっていた優香の視界に、とてつもなくおかしなものが入ってきた気がした。優香は確認のために、立ち止まって目をこらす。


 視界には踏み荒らされていない砂浜が広がっている。そこにいるのは地元の親子連れだ。幼子と手を繋いで、連れて歩いている男性。


 その進行方向、白い砂の上に黒が一点。優香の瞳孔どうこうが大きく開く。本当に信じられないものを見た。


「誰か倒れてる?」

 認識するが早く、優香の足は目標に向かって駆け出していた。


 見間違いではない。それは確かだ。こうして近づいていけばいくほど、黒い点だったものは人の形になっていく。背丈は小学生くらいだろうか。身動き一つとらずに、砂に突っ伏している。


 そんな光景が目の前になるのに、ならば、なぜあの親子は笑いながら呑気のんきに歩いているのか。


「何とかできるのは、私だけ」

 結論は一つ、この状況でその存在を認識できるのは優香だけ。彼女が動かなければ、あの子はずっとあの場所で放置されてしまう。

 それだけは避けないと。優香の速度がさらに上がった。


 彼女は知っている。自分が、そういった意味では稀有けうな人間であることを。そして、その知識は「自分が何とかしないと」という想いを強めた。


 階段を駆け下りる。最後の一歩でバランスを崩したが、柔らかい砂浜が足の裏を支えてくれた。優香はそのまま砂上を走る。

 靴に細かい砂が入ってくるが、優香は気にせず走る。彼女に追い抜かれた子どもは、その急ぎ足に驚いてポカンとした顔で彼女の背中を見送っていた。表情を見ることができたなら、そんなに必死になる理由を問いただしたくなっただろう。


「ふう」


 大きく息を吐く。ようやく彼のもとに辿り着いた。


 眼の前には小柄な体の男の子がうつ伏せに倒れていた。黒いマントが、濡れてぴっちりと体に張り付いている。短く切りそろえられた、その細くて真っ白な髪が太陽の光を反射していた。


 優香は息吹を確認するために、彼のそばにしゃがみこんだ。耳を顔に近づける。


「うっ」

 彼から、くぐもった声ではあるものの、息をしようとする意思を感じさせる音が聞こえてくる。その事実に安堵あんどした優香は、自分が濡れることなど気にもせずに彼を抱き起こした。


(軽い)


 彼の体は、その見た目よりも質量がない。これなら、優香の細腕でも容易に彼を背負えそうだ。ぐったりとした様子の少年の体を持ち上げる。


 その様子を、子どもの父親であろう男性は不思議なものを見る目で見つめていた。

 彼等から見れば、優香が奇行に走っているように見えるだろう。当然、優香も客観的な自分の姿は認識している。はたから見た自分の姿を想像して、それでも動きを止めることはない。

 少年を背負った優香は周囲の目を気にせずに砂浜から出ようと歩き出す。優香の思考は、少年を救助することに全力だ。


 昔、川に取り残された子犬を助けた時のように。

 優香の動きに一切の躊躇ちゅうちょはない。


(このままお母さんの家まで連れて行こう。私が借りてる部屋に寝かして……でも、医者に見てもらえないのはどうするかな)


「……ル」

 そんな風に後のことを考えていると、優香の耳に少年のか細い声が入ってきた。優香は歩みを止めることなく、意識だけを背後に向ける。

「……ロォル」

 聞こえてきた言葉の意味は優香には分からなかった。


 それを優香が知るのは、まだ先のこと。しかし、この出会いをきっかけに新しい幻想へと優香は足を踏み入れることになるのであった。

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