第2話 引き裂かれた繋がり
「これでよし、と」
少年をベッドに寝かせて、優香は一息つく。その途端に、疲れがどっと押し寄せてきた。それに耐えきれずに、優香はその場で座り込んでしまう。
優香が思っていたよりも、彼女の体は無理な動きをしていたらしい。力を込めても、その力が末端まで行き渡らない。そんな己の腕を、優香は苦々しい表情で見つめていた。
「気を張ってたのは確かね」
家までの道中、会った人に不思議な顔をされた。できる限り背筋は伸ばしていたのだが、少年を支えるための腕は固定していた。そのため、客観的に見れば妙な格好であったのは間違いない。すれ違う人が来る度に、優香は愛想笑いでここまで乗り切ってきた。
家に着くと、その中に
少年の濡れた体はいつの間にか乾いている。優香の服にだけ海の臭いが染み付いてしまった。
優香は、
服を着替えるか、と震える足を一回叩いて優香は立ち上がる。その瞬間、少年の唇が動いた。
「……ロォル」
砂浜で倒れていた時は苦しそうだった呟きも、普通の寝言のようになっている。少年が繰り返している単語は先程と一緒だ。
「ろーる、ううん、ろぉるかな」
日本語ではあまり使わない舌の巻き方だ、と優香は感じた。どこか別の国からやってきたのだろうか。
優香はそこまで考えて思考を打ち切った。
「この子が、あの子と一緒なら私の知らないところから来たのかもしれないしね。目を覚ましたら聞いてみましょう」
彼の無事を祈りつつ、優香は視線を外して背中を向けた。
今まで経験したことのない柔らかな布団に包まれながら、少年は夢の中にいた。
まどろんだ視界の中で、妹がよちよちと歩いている。ああ、その体では急ぐのは難しいぞと少年は彼女を追いかけた。
どんどん、その背中が近づいてく。あとちょっと。もうちょっとで手が届きそう。少年は彼女を捕まえようと手を伸ばした。
その時、世界が縦に大きく揺れた。
あまりの揺れに立っていられない。耳の近くで、ドォンドォンという
そこには震える妹の姿があった。大丈夫だ、オレが側に行ってやると思った瞬間に、もう一度大きな揺れが襲ってくる。
足がすくんだ。体を一生懸命動かそうとするのに思ったように動いてくれない。
何でこんな時に。少年は、思い通りにならない自分の体を呪った。
視界が歪む。思考ごと、ぐちゃぐちゃにかき回してくる地震。その揺れへの恐怖は、過去の恐怖を呼び起こす。
その次々と襲い来る恐怖の連鎖。その衝撃が、一瞬、そうほんの一瞬であるが、少年の中から妹の存在を消してしまっていた。
そして、刹那の間。バラバラになった意識が少しだけまとまってくれる。認識が正常に戻った時。
彼の視界がとらえた光景は、崖から足を滑らせる妹の姿で――
「ロォォルッ!!」
「ひゃあっ」
少年は掛け布団をふっ飛ばしつつ、恐ろしい勢いで飛び上がった。額の汗を拭こうと近寄っていた優香は思いっきり弾き飛ばされる。
「あっ……、悪い」
彼の口から飛び出したのは、戸惑い気味の謝罪の意。
少年は状況がよく分かっていない。寝ぼけた思考のまま、それでも自分のせいで優香が尻もちをついたということは理解できた。
「いいのよ。よかった、元気そうで」
優香は何事もなかったかのように立ち上がった。立ち上がった彼女の姿は、直近の正直に言えば無様な姿を忘れさせてしまう。その流れるような動きはとても洗練されていて、少年は素直に感嘆していた。
「えっと」
少年の首はぐるぐると動いている。眼球は色々なものへと焦点を合わせていく。
目覚めたら急に知らない場所にいるんだから、当然の反応だ。彼の視線が、再び優香に戻った時、彼女はできるかぎり穏やかな声を発した。
「私は優香、あなたの名前は?」
「リィル」
彼は促されるままに自分の名前を口にした。
「え、あれ、待って。何で、オレこんなとこにいるの?」
リィルの記憶は未だに混乱している。今の、この瞬間にまで繋がっている記憶が一切見つからない。それはひどく不安定な状況で、リィルの心は落ち着かない。
「海で倒れているところを私が見つけたの。何か思い出さない?」
「海って、そりゃオレはずっと海に生きてるんだからそれは当たり前で……いや、倒れてたことはないなぁ」
そこまで言って、自分の背中がとても軽いことにリィルは違和感を覚える。一日の多くを、自分はその背に誰かをのせて泳いではいなかったか。軽い時は、すぐ近くに、その誰かがいなかったか。
「あれ。何で、オレは一人……」
思い出せ、今、自分の隣にいない存在を。
「あっ」
リィルの記憶が全て繋がった。その瞬間、とてつもない喪失感が襲ってくる。先程の不安は塵のように消え去って、新しい不安が巨大な塊となって彼の頭を打ちのめした。
「ロォル……オレの妹、近くにいなかった!?」
「妹さん?」
必死の形相でベッドから飛び降りたリィルを見て、ことの重大さを感じた優香は何とか思い出そうとする。しかし、う~んと天井を見上げてみても、なかなか記憶が戻ってこない。
リィルを助けた時は優香も必死だったから、周囲の状況はあまり覚えてはいない。覚えてはいないのだが、それでも、目の前の彼のように目立つ存在がそこにいたのであれば気づかないはずがない。
優香はじっとこちらを見つめるリィルを見下ろして、残念そうに首を横に振った。
「そっか」
リィルは肩を落とす。落胆した様子を見せたまま、部屋の出口に向かって歩き出した。
「ありがとう、助かった。礼は、今度の機会で絶対にする。オレはロォルを探さないと」
リィルはそのまま優香から離れようとする。優香が声をかけようと、何を言うべきか迷っている間に、彼はドアノブに手をかけた。
「あ、あれ」
そして、そのままリィルは
今まで寝ていた体を急に動かしたから負担になったのだろうと、そう思った優香は駆け寄った。
「ほら、無理をしないで。私につかまって」
彼を支えようと手を伸ばす。
しかし、近寄ってから優香は気づいた。彼の体から、ぎゅ~という高い音が鳴っていることを。
「は、腹減った」
それはリィルの腹の音だ。
「……えっと、何か食べたいものあるかな?」
少々気の抜けた優香は、緊迫感の薄れた声で彼に尋ねた。
食材なら優香を歓迎するために母や大隅が用意してくれていたはずだ。台所を借りれば、少しは腹の足しになるものが作れるだろう。
ただ、何を食べるのかは分からない。もしかしたら、人間の食事は口にあわないかもしれない。そう思ったから、優香は彼に直接聞いてみたのだが、帰ってきた答えは優香にとって予想外のものであった。
「タラ……ニシン……イカナゴ……イカ……サーモン……」
「何で素材?」
うわ言のように魚介類の名前を繰り出していくリィルに少々呆れながら、優香は立ち上がる。たぶん、アジならあったはずだ。すぐに食べれるように、焼きで何か一品用意しよう。
「分かった。ちょっと作ってくるから待ってて」
そんな優香の声が聞こえてきたのか、
「え、作ってくる? ……獲ってくるじゃなくて?」
お互い認識がずれていた。そう、二人は気づくことになる。そして、優香は本当の異文化を知ることになるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます