第12話 芽生えた姉心

(まさか、本当に男の子だったとは)


 表面上はにこやかに、挙動不審な様子の洋介を促しながら、良美よしみは内心にやついていた。これは優香ゆうかと出会ってから、想像もしていなかった展開だ。少し楽しいし、大変興味深い。

 彼女の視線は、良美なりに井上優香という少女を知っているからこその慈愛に満ちたものだ。若干、興味関心が強いものの、それは研究者としての性である。仕方が無い。



 話は少し前にさかのぼる。

 

 その日の夕方、いつも約束している時間に良美は井上邸までやってきた。

「来なくていいって言われてもねぇ」

 彼女は、その前で仁王立ちしていた。腕を組んで立つと、とても力強く男らしい。ふとした仕草が体育会系になってしまうのが、昔からの彼女の癖だ。


「さすがにそういうわけにはいかないでしょう」


 意を決して、良美は一歩前に踏み出した。


 彼女がこの家に通いだして、もう二年となる。


 きっかけは、とある企業が出していた奨学金の応募であった。良美は大学卒業を間近に控えていたが、そのまま学問を続けていたいという意志が強かった。しかし、金銭的な理由で大学院に進むのを迷っていたのだ。良美はその話に飛びついた。

 結果、奨学金を得て、自分の望み通り研究者を目指す道を選ぶことになった。しかし、話をしたいのは、その面接のあとだ。


 その企業の代表者に声をかけられた。内容は単純。君さえよければ私の娘に勉強を教えてくれないか、とのことだ。

(労働が条件ではなかったよね)

 奨学生になるのに必須な話なのかと、良美は身構えた。そういった条件が付帯しているのであれば、彼女は遠慮したかった。大学生活ですら、時間が惜しくてアルバイトをしていなかったほどだ。

 しかし、その話を持ちかけてきた彼は首を横に振った。奨学生を誰にするかの決定権は自分にはなく、ただ良美の語った研究への意欲に個人的に感銘を受けたからだと彼は語った。


(よく分かっていらっしゃる)

 そんな風に、自分の話をかみ砕いてくれているのであれば、彼女も悪い気はしない。専門外の人には分かりづらかったのでは、と反省もしていた。だから、彼のことにも興味を持って、その話を引き受けることにしたのだ。


 勉強を教えて欲しいという娘、それが井上優香である。最初に会った時に良美が抱いた印象は、難しそうな子だな、というものだった。


 勉強を教えに来たのに教えてもらおうという気持ちがない。そして、そもそも良美が教えてあげられることもない。友人からは、家庭教師というものは家庭学習の監視者のような役割だと聞いていた。それも当てはまらない。優香はとても効率よく、学習計画を自ら作り上げていた。

(はぁ、なるほど)

 気がつくと時間を忘れて没頭してしまう良美は、そのスケジューリング能力に感心すら覚えたほどだ。


――良美さん、こことかどう思われますか。


 そして、優香は時々、良美の力を試そうとしてくる。優香は自分がぎりぎり理解している問題、そして時事問題に関する見解などを良美に問うてきた。

 そういう挑む姿勢を良美は嫌っていない。全て正面から向き合って、返答してきた。そうやって、少しずつ良美は優香の信頼を勝ち取っていったのだ。


 あと、優香について特筆すべきことがある。良美のことは色々探り出そうと目を光らせるくせに、自分自身の内面は全く見せようとしないのだ。


 家庭環境については良美もある程度聞いている。病弱だった母が本格的な治療に入り、家を離れた。一代で築き上げた会社を経営する父も多忙で家を空けている。それなのに、寂しいとか辛いとか、そんな弱い感情を表に出さない。むしろ、助けなどいらない、全て自分でやってのけるという気概に優香は満ちていた。


 家事も自分でこなすから、とお手伝いを頼もうとした父が優香の了承を得ることができずに断念したと聞いた時に良美はピンときた。自分が雇われた理由を。


 おそらく、家庭教師を頼みたいというのは建前なのだろう。父の本音は、一人で家に残された優香が心配で仕方が無いのだ。だから、同性でかつ、優香の年齢の割に達観した目で見ても教師として相応ふさわしい人物を探していた。それで、自分に白羽の矢が立ったのだと考えれば納得がいく。

 そういう事情に気付いてしまうと、良美にも思うところがある。優香に対して、特段悪い感情は持っていない。むしろ、その精神性は年下でありながら尊敬できる程だ。もともと力を抜いていたわけではない。しかし、自身が当初考えていたよりも、より強く優香に関わっていきたいと良美は思った。


 それに加えて、時給も良いのだ。何だかんだ言って生活費には困窮している良美には悪くない条件である。そこで、研究室へこもる予定にない時は優香の相手ができるようシフトを組んでもらった。


 良美の考えが変わったとしても、優香はなかなか変わらない。最初は心を開いてくれなかった。しかし、最近は年頃の少女らしい面を見せてくれるようになってきていた。


 良美も、素直になってくれた優香に慣れてきた頃だ。だから、余計に心配になった。


「体の調子が悪いので休みにしてもらえませんか……なんて、口が裂けても言わないよね」


 初めて会った頃よりは、幾分か柔らかくなった。それでも、絶対に弱みを見せたりしない。それが井上優香という少女である。

 優香から携帯電話に連絡があったのは昼頃だ。その時の優香に対して抱いた違和感を、良美はずっと抱えている。


 体調を崩す、というのは彼女にだってあるだろうと良美も思う。それで、弱くなってしまうこともあるかもしれない。しかし、電話で聞いた優香の声に良美は納得できない。

 あんなに力のない優香の声を、良美は初めて聞いたのだ。これは非常事態だ、と良美の本能が告げている。


 そう思うと、いてもたってもいられなくなった。少なくとも、一度は顔を出しておくべきだ。

 そう決意して、井上邸までやってきた良美であった。


「でも、寝てたら起こしちゃうか」

 門の前まで踏み込んで、そこで立ち止まってしまった。色々な予測が、今後の行動を阻害する。ここまでは勢いよく来たが、これからどうしようか。

 そんな風に考えつつ、うろうろと不審者の如く家の前を歩いていた。そんな良美の目に信じられない光景が目に入ったのはその時だ。


「……不用心な」


 視線の先、扉が若干開いている。

(もしかして、ここも?)

 まさかと思って動かした門。それも、何の抵抗もなくゆっくりと開いていく。


「こういう家って、セキュリティ厳しいと思ったけど」

 どうやら、良美の思っていたよりも、井上家の感覚は庶民的だったようだ。


 確かに昔は、中に人がいるのであれば鍵をかけなかった家も多かったと聞く。しかし、最近の防犯事情を考えれば一軒家でも戸締まりをしっかりするべきだろう。まして、こんな広い家に女の子一人しかいないのだ。もう迷うことはない。良美は門をくぐった。


「お邪魔します」

 腕に力の入った良美が玄関の扉を開く。気合いが、そのまま手に伝わって強い音をたてて扉が開かれる。


「……良美さん?」

 そこで寝巻き姿の優香と目が合った。まさか、開けてすぐにいるとは思わなかった良美であるが、色々と優香に言いたいことはあったので、好都合だと仁王立ちになる※。


「えっと」


 優香の目が泳ぐ。良美の目が細くにらむような視線になっていたこともあって、優香はそれから逃げ出したのだ。そんな彼女も珍しい。優香の表情は暗く、見るからに調子が悪そうだ。


「どうして、良美さんが」

「どうして、は私が先に言います。どうして、そんなに辛そうなのに私に教えてくれないの?」

 良美は明らかに苛立いらだっていた。苛立いらだちは、優香に向けてでは無い。良美自身に対してだ。


 どうして、自分は優香が気軽に助けを呼べる存在になれていないのだろう。


 良美は優香の悲鳴を聞くことのできない自分に怒っている。どうやら、思っている以上に良美にとって優香は大事な存在になっているようだった。


 そんなイライラを、優香にぶつけそうになっている自分に気付いて、良美は大きく息を吐く。

 これでは同じ事の繰り返しだ。少なくとも、今の優香に必要なのは怒りでは無い。良美は冷静さを取り戻して、にっこりと笑う。


「大きな声出してごめんなさい。何か手伝えることはないかな?」

 わざと、大げさに笑顔を作る良美。そんな彼女を見て、安堵あんどの表情を見せる優香。

「えっと、じゃあ、一つ頼まれてくれませんか」


 優香が頼み事をしてくれることに、多少の喜びを感じて良美はうなづいた。

「ええ、もちろん。なに?」

「今、学校に電話してて。ちょっと、忘れ物があって。それが、どうしても欲しくて」

 絞り出された優香の言葉は非常にたどたどしい。言葉の端々から弱々しさを感じる。


「それを取りに行けばいいの?」

「あ、違います。同級生の子が、来てくれることになって……でも、今の私では満足な応対ができそうにないんです」


 熱が上がってきたのか、優香の頭は微妙にふらついている。心配で少し先走ってしまったが、それなら問題ない。良美は力一杯首を縦に振って、まだ話そうとする優香を制した。


「分かった。その子のことは任せて。あなたは寝ていなさい」

 早く話を終わらして、部屋に戻すのが得策だ。良美はそう思いつつ、玄関で靴を脱いでいたが、徐々に好奇心が湧き上がってくるのを感じた。


(まさか、同級生って言った、この子?)

 優香の交友関係をあまり知らない良美は、その単語を聞き間違いかと思ったほどだ。優香が同級生の話をすることを避けている、もしくは本当に興味がなくて関わっていないのだろうと推測できるほどに話に出てこないのだ。

 先生や後輩の話は合っても、同学年の話は一切出てこない。そんな影も形も、優香から感じられない背後にいるはずの同級生が井上家にやってくる。


 だから、純粋に興味があった。


「間違えてたら失礼だから、その子の名前教えてくれない?」

 戻りかけていた優香が良美の呼びかけで足を止める。優香は、躊躇ちゅうちょすること無く、その学友の名前を言った。


澤田さわだ洋介ようすけくん」


「ふーん……えっ!?」

 その短い答えは良美に大きな声を出させた。あまりの声量に優香は目を丸くしている。


「もしかして男の子?」

「もしかしなくても男の子、ですけど」

 良美が目を輝かせている意味も分からず、優香はきょとんとしていた。



 買い物に出ていた良美が、その本人に会ったのが、つい先程の出来事である。


 洋介はきょろきょろとと辺りを見ながら、不安げに良美の後ろに付いてきている。時折、慌てた様子で手を伸ばしているのが気になるが、おおむね予想通りの反応だ。

(ふーん。特段、変わった子に見えないけれど)

 良美は無意識に洋介を値踏みしていた。


 見舞いの品を用意してくるほどだ。この洋介という少年は、優香を悪く思っていないはずである。優香も、彼の名を口にしたとき、特段変わった様子を見せなかった。どう考えても、弱い自分を見せることになるはずなのに、だ。

(嫉妬、というと違う感情なのかもしれない)

 自分にはできる限り見せようとしなかった弱さを、この子には見せて良いと思えたのか。そこが、まだ良美はに落ちない。


「あのー、何か?」

 洋介が居心地が悪そうに視線を向けている。どうやら良美は、無意識に、長時間観察してしまっていたらしい。

(あら、行儀が悪いことを)

 良美は取り繕って、笑う。

 この洋介という少年が、優香にどんな影響を与えるのか。大変興味深い事象である。ここは素直に経過観察することにしよう、と良美は思った。


「ごめんなさい。じゃあ、優香さんの部屋に案内するね」

 そうして、良美の視線が外れた。


(今だ!)


 それを確認した後に、洋介は一歩横に動く。そして、いっぱいに右手を伸ばしたのだ。


 そこには、高価そうなつぼを指で突いていたライツがいた。洋介の右手は彼女の脇をつかむ。

「うひゃあ」

 くすぐったいのか、間抜けな声を出して洋介の近くにライツは引き戻される。彼女が洋介の顔を見上げると、彼は恐ろしい顔でライツをにらけている。


「……ごめんなさい」

 しゅん、と小さくなったライツを確認した洋介は手を離す。彼女は、大人しく洋介の頭の上に戻って座り込んだ。


 流石さすがにかわいそうか。そう思って、洋介は小声でライツに話しかける。

「ライツも井上さんに会いたいでしょ。でも、病気で休んでるから静かにしてなきゃいけないんだ。できる?」


 洋介の声色こわいろに怒りは無い。ライツは微笑ほほえんでうなづく。


「うん。ライツ、静かにしているよ。できる」

「よっし」


 そんな風に二人が話しているうちに、良美とは距離が空いてしまった。


 振り返った良美が後ろについてきていない洋介に気づき、大きく手を振って促した。

「洋介くん、優香さんの部屋は階段を上った先だから」

「あ、今行きます」


 慌てて足を進める洋介。

「静かに、静かに」

 ライツはそんな洋介の頭上で、なぜか律儀に正座をして背筋を伸ばしているのであった。

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