第13話 白のガーベラ

 「優」という字を子どもにつけるとしたら、どのようなおもいをこめるものだろうか。


 優しくあってほしい。他人の気持ちに寄り添える人間になってほしい。一般的にはそんなところだろうか。

 優香ゆうかはそういうことを、考えないようにしている。しかし、今みたいに一人の時、ふとそんな考えが浮かんでしまう。親は自分が生まれたとき、どんな願いを込めて「優香」と名付けたのか。一度、考え出してしまうとなかなか消えてくれない。


 優香は自分の名前の由来を両親に聞いたことはない。だから、想像だけが膨らんでしまうのだ。


 母からは「優しい子に育ってくれた」と感激されたことはある。そう言われる度に、優香は申し訳ない気持ちで一杯になる。

 元々、母は体は弱かった。優香を産んだことで、それが悪化してしまったと人づてに聞いてしまった。それからは、母に代わって父の留守に家を守ってきた。

 あれは中学に上がった頃だ。一日中床に伏せることも多くなった母も、優香に負い目を感じていた。優香を見て、大粒の涙をこぼしながら母は謝っていた。


 ごめんね、ごめんねと。何度も頭を下げていた。その姿を見て、私の方が謝らないといけないのに、と言わないようにしていた謝罪の念が喉元まで出かかったことを優香は昨日のように思い出せる。


 きっかけは家事が苦手な母を見ていられなくなって手を出したこと。しかし、それを続けていくうちに優香に使命感が生まれてくる。

 母ができないことを自分がしなければならない。だから、家のことなら母以上に理解している。そんな自分を、優香は自負していた。


 母が静養で、実家に帰ることになった。その相談をされた時、父から手伝いを頼もうと提案された。


――私なら大丈夫よ。

 優香は即座に首を横に振ったのだ。


 もちろん、優香は自分に手伝いなどいらないと思っていた。

 それ以上に、身内以外の人間が自宅にいる状況を考えると我慢ができなかった。母と共にいた時間が汚されてしまう。そんな意識が、心のどこかにあった。


 そんなままな自分は母が泣くほどには優しくない。そう、優香は自覚している。


 仕事で忙しい父とは、会話も少ない。優香という名前についても、話をした記憶はない。

 しかし、少なくとも父にかけられた言葉や見せてくる態度からは伝わってくるのだ。彼は優香には「何事にも優れていて、どんな相手にもまさっていてほしい」のだ、と。


 だから、優香はずっと走り続けてきた。完璧を目指して、常に全力で駆けていく。そうすれば、理想の自分に近づけると。父の背中を、見失うことはないと。


 それが、「私を見つけてくれる」唯一の方法なのだと優香は信じていた。


(見つけてくれる?)

 だとしたら、「私」は今どこにいるのだろう。優香はそこまで考えて、まるでこれ以上の思考を拒否するかのように、深い眠りにつくのであった。



「……あれ?」


 優香はゆっくりと起き上がる。ほおの違和感に、両手で顔を覆った。


 何か夢を見ていた気分であるが、何も思い出せない。確かなのは、目の周辺に温かなものを感じることだけ。

「私、なんで涙なんか」

 眠っている間に泣いてでもいたのだろうか。生理現象を超えた水量の涙に、自分が流したものだというのに優香は戸惑いを覚えた。


 悲しかったのか、辛かったのか。思い出せないが、この涙が温かいものではないことが分かった。


「優香さん」


 扉をたたく音。良美が優香を呼んでいる。優香はとっさに近くに置いてあったタオルで顔を拭った。

 頭を切り替える。眠ったからか、体のだるさは治まっていた。

 

 手にしたタオルを、未使用であるかのようにピシッと折りたたむ。証拠隠滅、というわけではない。元通りにしないと、自分が気持ち悪いだけだ。


「はい、なんですか」

 優香は、一拍おいて良美の呼びかけに応えた。


「洋介くん、みえましたよ」

 その名前に、大きく心臓が鳴ったのを優香は感じた。


「ちょっと待って」


 何をそんなに焦っているのか。声が裏返りそうになった優香は必死で抑えた。自分で呼んだというのに驚くのはおかしいと思うが、その感情の変化を優香は抑えきれない。

 大きく深呼吸する。時間を掛ければ不審がられる。落ち着きが、ある程度得られてから優香はベッドから降りた。かけてあった上着を羽織り、優香は扉に向かう。


 扉に手をかけて、優香はもう一度大きく息を吸い込んだ。


「こんにちは」


 優香が部屋の扉を開けた。しばらく沈黙していたから大丈夫だろうか、と洋介が思い始めた時だった。


「ごめんなさい。わざわざ来てもらって」


 彼女の顔色は明らかに昨日より悪い。熱のせいか、息づかいも若干荒く、どこか艶っぽさまで感じる。

「ううん、そんなことない……けど」

 そんな優香を見た洋介は、彼女に対する心配や緊張よりも、まずはその姿そのものに違和感を覚えていた。

 その違和感が何なのか、結実するまで時間がかかる。この場では洋介にその原因は分からなかった。


 そんな二人の様子を眺めいた良美はにっこりと微笑ほほえむ。


「優香さん、私は下の階にいるから何かあったら呼んでね」

 良美に声をかけられた優香は丁寧にお辞儀をする。


「ありがとうございます。休んでいただいてよかったのに、無理を言って」

 恐縮する優香に向けて、手を振る良美。


「いいの、いいの。私がしたかっただけなんだから」


 その表情は心底うれしそうであった。事実、良美は優香が素直に頼ってくれることに満足しているのであった。


「あっ」


 少しだけ歩いたところで、良美は立ち止まった。その様子を見ていた洋介は何事だろうと注目する。

「ふふふ」

 振り返った良美は洋介をじっと見つめてきた。その真意が分からず、洋介が視線を絡ませてくると、彼女は愉快そうに口角を上げた。

 意味が分からない。そんな、困惑した表情をする洋介に良美は言い放つ。


「そういうわけで。君には残念かもしれないけど、一階には私がいますからね。その辺、注意するように」

「あ、はい…………ぶはっ」


 反射的に返事をした洋介だったが、彼女の言葉が意味するところを察すると思わず吹き出した。

(いきなり何を言い出すんだろうか、この人は!)

 彼には珍しく、良美をにらみつけたりもしたが彼女は気にしない。その反応も含めて、良美は楽しそうだ。もう一度ひらひらと手を振って階下へと降りていった。


 良美と会話している間、じっと大人しく座っていたライツだったが、彼女が背を向けたのと同時にふわりと浮き上がり洋介の眼前に現れた。

 ライツは今みたいに、自分が見えない者がいなくなってから洋介に話しかけるようになっていた。それは洋介に言われたからではなく、学校で洋介に何度か無視された経験から学習したのだ。

 ライツはライツなりに空気を読んでいる。会話に参加しようとしたら洋介が迷惑することもライツには分かっている。


 ただ、黙っている間も色々と気になっていた。まずは、あれだとライツは食い気味に洋介に尋ねてくる。

「何でビックリしたの、ヨースケ。今の、どんな意味?」


(どんな意味、てなぁ)

 洋介はライツの無邪気さを少し疎ましく感じる。しかし、それはそれで良美に言われて生まれた緊張を緩和してくれる。

 洋介はライツの存在に感謝しつつ、平静を装って応えた。


「ビックリなんてしてないぞ。おまえの気のせいじゃないかな」

 そんな洋介に、ライツは首をかしげる。教えてくれないのなら仕方ないか、という態度をライツが見せたことに洋介は胸をろした。

「どうしたのかしら?」

 同様に洋介にとって良かったのは、優香もライツと同じような表情で首をかしげていることだった。

 ただ同時に、自分一人焦っていて馬鹿みたいだと洋介は恥じることになるのであった。


 ちなみに、わざと優香には分かりづらい言い回しを良美が選んでいたことを追記しておく。


 本当はすぐに荷物を手渡して去るつもりだった洋介であったが、良美が先に降りてしまったせいもあって帰りづらくなる。さらにライツが優香の側へと飛んでいってしまった。


澤田さわだくん、ライツちゃん。よかったら、中にどうぞ」

 優香が何も気にせずに促してきたので、洋介はそのまま彼女の部屋の中へと案内されることにする。


「おじゃまします」


 優香の部屋は一人部屋にしては広かった。飾り付けはシンプル、しかし、どことなく品を感じるものであった。見た目は廉価品と同様に見えるが、一つ一つが高級なのかもしれない。そう、洋介は感じた。

 洋介が勝手に想像していた女子の部屋、とは違うものの全体的に柔らかい印象を覚える。角が無い、と言えばよいか。

 あまりキョロキョロとしては失礼だろうと、洋介は優香に向き直る。


「椅子、一つしかないの。これに座って」

 立ち尽くしていた洋介に、優香は着席を勧めた。


(これだけ、明らかに高そうだな)

 優香が自分の机から持ってきた椅子は、洋介がよく知る椅子とは形が違っていた。長く座っても疲れない、そんな椅子だということを後々洋介は知ることになる。

 その時に、文字通り桁が違う値段に洋介が驚愕きょうがくすることも付け加えておく。


 優香自身は自分のベッドに腰掛けた。ふと、彼女が見上げると、その周囲をライツが飛び回っている。その表情はとても苦しそうだ。

 そんなライツに気付いた優香は、彼女に笑いかける。


「ライツちゃんもありがとうね」

 そんな優香の声に、ますますライツは表情を曇らせる。

「……いたい?」

 ライツは病気、というものを知らない。しかし、優香が辛そうなのは感じ取っていた。だから、精一杯ライツなりに優香の体を案じているのである。


「痛くないの、本当よ」

 優香はその幼い気遣いがうれしくて、できる限りの笑顔をライツに見せた。しかし、その表情も弱々しいものである。

「ほんとに?」

 ライツはその顔を悲しそうにゆがませた。


(さて、と)


 着席するように言われたものの、普段優香が使っている椅子に何の気なしに座る勇気は洋介に無い。部屋に入った時のまま、立った状態で洋介は二人を観察していた。その会話が途切れたのを確認して、優香の側に近づく。


 まずは用事を済ませないといけない。


「これ、先生から頼まれたものと」

 封筒を差し出す。優香は「ありがとう」と言って、それを受け取る。


(えっと、どうするかな)

 これだけでいいのではないか。そう洋介が思ったとき、カバンから顔を出した花が何かを訴えてきたような気がした。

(ああ、もう。分かってるよ)

 洋介は意を決して、それを手にするのであった。


「それと、これは僕から」


 荷物の中身を確認しようとしていた優香が視線をあげる。そこには一輪巻きの花束があった。白い可愛らしい花が優香の眼前に差し出されている。

「これは?」

 予想外の手土産に、優香は目を丸くしている。それが自分に持ってきてくれたものだと、優香が認識するのには時間がかかった。


「いらないなら、持って帰るけど」

 慣れないことをしているので、ぶっきらぼうな物言いになる洋介。


「そんなことないわ」

 そんな彼に優香は静かに首を横に振った。


「ありがとう、可愛かわいい花ね」


 受け取った優香の表情が穏やかになる。ここに来て、初めて見た柔らかい表情だ。それを見届けると、洋介は静かに安堵あんどの息を吐く。


(喜んでもらえたようでよかった)

 洋介は花を見つめる優香を眺めながら、花屋に寄った時のことを思い出す。


 最初、店員には赤かピンクを勧められたのだが、洋介は白を選んだ。何となく優香らしい、と思ったからだ。その何となく、は洋介に分からないのだが。

 そして、ふとなぜ店員が赤色を勧めたのか気になった。少しだけ不満そうだった店員に聞いたら、彼女はこう答えた。


――愛の告白なら赤かピンクですよ。


 どうやら、店員は勝手な想像でお節介を働いていたらしい。誰もこれから愛の告白なんかすると言っていないし、女の子に持って行くということすら彼女に言っていないというのに。

(大きなお世話だっての)

 記憶の中で目を輝かせている花屋の店員に心の中でパンチして、羞恥で赤くなった顔を冷ますために洋介は頭を振るのであった。

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