第14話 崩れた仮面

(う~ん、どうするかな)


 言うべきか、言わざるべきか。それが問題である。

 少なくとも軽々しく口に出していいことと洋介は思えないし、このまま黙っておくのも洋介の精神的によろしくない。


「私、そのアイスクリーム食べたことないけれど、そんなに美味おいしいの?」

「えー、もったいない。おいしいよ、すっごく」


 深く考え込んでいた洋介の耳に、ライツのよく通る声が飛び込んでくる。

(井上さんにそんな安物勧めてどうするの)

 どうやら、ライツはどうやら優香に自分が地上で食べたアイスクリームのプレゼンをしているようだ。それは洋介が買ってきたもので、もちろんそんな特別なものではない。ライツが、優香に食べさせたいと思う気持ちが洋介には分からない。


 しかし、ライツにとってはそれだけ特別だったのだ。それは、彼女にしか分からない。


 その特別さ、それだけは優香に伝わってくる。久しく感じていなかった、ぐに向けられるおもい。

「そっか。ライツちゃんがそんなに言うなら、今度食べてみるわね」

 だから優香は、ライツに素直に笑顔を向けることができるのだ。


 ライツと戯れている間に優香の顔色が回復していた。ライツの、明るい声が優香の気持ちを軽くしてくれたようだ。

 しかし、そんな優香の顔を見たことで、洋介は安堵あんどの気持ちよりも不安の感情が強くなった。やはり、優香は何かを無理に隠している。そう、洋介は確信した。


 洋介の脳内では普段の優香の振る舞いと、先程扉から顔を出した優香の表情が交互に現れては消えたりしている。それが遠くに行ったかと思えば、今度は昨日体調が悪かったはずの優香の顔色が思い浮かぶ。そして、その日の放課後、ライツを前にして見せた素だと思われる表情と、その上に塗り固めた仮面のような表情が洋介に訴えかけてくる。

 やはり今日の優香は何かおかしいぞ、と己の内から声が聞こえてくるのだ。洋介はそれを無視できない。


 こういったことは一度気になりだすと、どうしようもないものだ。ライツが優香にまとわりついているのを助けに、洋介は一人思考に没頭している。


(まだよく分からないけど、間違いなくプライベートなことだぞ。聞いてしまったら、それこそ後戻りができないくらいに。うん、後戻る気はないんだけど、そんな風に踏み込んでくる相手をどう思うかな。きっと、「ほっといてくれ」ってなるんじゃないか。でもなぁ)

 悩めば悩むほど深く、どんどん沈み込んでいくようだ。


 洋介は、あまり自覚はしていないが同年代の誰よりも相手の感情の機微に気づきやすいという特質を得ていた。それは先天的なものではなく、後天的なもの。

 洋介はある日を境に人の顔色ばかり気にしてきた。そんな日々もあったからか、彼の目は普通よりも他者の変化がよく映る。

 

 これまでにも「いつもと違う」級友に気付いたことは何度かある。ただ気付いたとしても、行動に出すことはまれだ。いつもなら、事なかれ主義で関わらないように振る舞う。自分が関わったことで、事態が暗転することを危惧するからだ。

 相手の懐に踏み込むのも、自分をさらけ出すのも、洋介にとって恐怖という感情がまず先に生まれるものなのである。そのおもいが、洋介の脚を立ち止まらせる。こうして、どうしようか、と悩むことすら億劫おっくうだったりするのだ。


(なんとかできないかな)

 しかし、優香が相手であれば事情は異なってくる。相手が優香であれば、洋介にいつもはない積極性が生まれてくる。


 自分ができることなら、何とかしてあげたい。洋介はそう思った。


(やっぱり、普段は隠してるんだよなぁ。あの時の井上さんが、きっと素に近いんだ)


 優香は知らない。しかし、洋介ははっきりと覚えている。

 優香にしてみれば、ごく当たり前の行動。しかも、洋介に働きかけたわけではない。洋介は、事の傍観者でしかない。

 それでも、それでも洋介にとって大切な記憶だ。中学で初めて優香の存在を認識したときだって、一目で彼女だと分かった。


 それからずっと、記憶に残る表情とはまるで違う、そんな気を張り続けている優香を気にしていた。それがこんな気づきを生むとは、その時の洋介は想像もできないだろう。そして、その気づきは確信に近い。


 と、なれば「今度は自分の番だ」と洋介が思うのも当然であろう。


 視線を上げる。ライツと目があった。視線が絡むとニコッと笑って、また優香に向き直る。

(あいつ、もしかして、時々こっち見てたのか)

 どうやら、洋介の様子が気になっていたライツは、会話の隙間に様子をうかがっていたようだ。ライツはライツなりに、色々と気を配っている。

 その気遣いが、洋介はうれしかった。

 

(……いってみるか。このまま、黙っておくのも気分が悪いし)


 洋介は思い返す。ライツと出会ってからの彼は、今まで感じていなかった気力というものに満ちている。今も、ライツの顔を見ただけで勇気があふれてくる。


 あの日、全てが信じられなくなった洋介はどん底にいた。忘れられない思い出、それを積極的に捨てようとした。こんな思い出にすがっている自分が馬鹿馬鹿しく思えていた。


 そんな日々の中、ふと見た少女の勇気に洋介は感じ入った。感化された洋介は、最悪な時期を越すことができた。捨てた思い出をもう一度拾い上げた。

 しかし、それでも新たに夢を見ることはできなくなった。思い出も心の奥底にしまいこんでしまった。消えてしまう時の苦しさを、もう味わいたくなかったのだ。


 そんな洋介が、今は幼い頃のような純粋な気持ちを思い出せている。ライツと一緒にいる時は、彼女のぐさに引きずられて、物事を斜めに見ることは無くなった。

 それはとてもありがたいことだ。色あせてきた忘れられない思い出も、もう一度しっかりと色づいた。もう二度と手放してはなるものかと思えている。


 そして、今この瞬間。ライツと共にいる、この瞬間も大切なものだ。

 後で悔やむことはあっても、今はぐに動いてみよう。洋介は、そう思えるのだった。


「あ、あのさ」

「ねぇ、澤田さわだくん」


 意を決して話しかけようとした洋介だったが、声が小さくて優香には届かない。彼女も話しかけてきたものだから、洋介はじっと口をつぐんだ。勇気が出ていただけに、洋介はもどかしさを感じる。


「ごめんなさい。急に、お願いなんかして」


 優香は洋介が口を開いたことにも気づかず、視線は不安げなライツの方に向けたままで言葉を続けた。

 

「どうしても届けて欲しかったんだけれど、あなたしか頼める人、思いつかなかったから」

「いや、別に。特に用事もなかったから」

 洋介は首を横に振った。水くさい、とも洋介は思うが、客観的に見て洋介と優香はそこまで親しくない。

 自宅までのお使い、そんなものは異例中の異例だろう。


(あなたしか、か。ホントなら喜んでいいところなんだろうけど)

 洋介は、優香の一言が気になっていた。


 頼りにされているんだ、と単純に浮かれるわけにはいかない。自惚うぬぼれでなければ多少は心を開いてもらえているのだろう。

 しかし、自分しかいなかったという言葉の意味の本質は別のところにあると洋介は思っている。


 それを聞いてみるか、と思った洋介だったが意外にも優香は自ら理由を口にした。


「あまり、今の私を見られたくないの」

 

 膝の上にのったライツの髪をなでる優香。ライツの金色の髪から、光がこぼれた。その光があまりにも綺麗きれいで、優香は目を奪われる。彼女の固まった表情が、少しだけ柔らかくなった。

澤田さわだくんには……昨日、もっと、みっともない姿を見せちゃったからね。それに比べたらって思って」

 優香は力なく笑う。


「ごめんなさい、わがままに巻き込んで」

「……」


 その謝罪には洋介は答えない。別の言葉を処理することに時間がかかっていた。


 今の私を見られたくない、ということは優香も自覚しているのだ。洋介が感じた、優香に対する違和感。それが事実であったと優香自身が告げてきた。

 洋介の確信に近い想像が、現実となって形になる。


「あのさ、的はずれなこと聞くかもしれないんだけど」

 洋介の呼びかけに優香は顔をあげて、彼を見た。その顔が今にも泣き出しそうだったのは、洋介の気のせいでは無いだろう。


「井上さんが今日休んだのって、体調不良じゃないよね」

 ビクッと優香の体が震えるのが洋介にも見えた。踏み込みすぎたか、と洋介は焦る。ただ、優香は視線を外さない。心の動揺を抑えつつ、そんな彼女を洋介は真正面から見続けた。

「どうして、そう思うの?」

「井上さん、今日は体調悪いの隠そうとしていないから」

 もしくは、隠したくても隠すには気力が足りていないのか。

 洋介が感じた違和感の正体。それは、優香が自身の弱さを取り繕うこともせずに見せてきたことだ。


(この人は、どこまで分かっているんだろう)

 優香は驚きを持って、洋介の指摘を受け止めている。事実、体調は昨日の方がひどかった。なにせ、保健室で半日眠ってしまうほどだ。


 しかし、洋介にはそれほど弱々しくは見えなかった。多少、顔色は悪かったものの言動自体はいつもの優香そのものだった。彼女が体調を崩している、そう言っていた教師の言葉を疑ったくらいだ。

 だからこそ、今日の優香の振る舞いには引っかかる。あれだけ隠しきっていたのに、今は一切取り繕うとしていないのだから。


「……あなたには関係のないこと、なんて言えないか」

 それだけ言って、優香は天井を見つめた。


 家に帰ってきてから、いつもどおりに優香は動こうとした。しかし、どれだけ脳が命令しても体が考えたように動いてくれない。

 休め、休めと体が訴えて、どんどん全身が重くなっていく。学校に連絡したのは、その頃だ。

 荷物を頼んだのは、それでも井上優香らしくありたかったから。たとえ学校を休んだとしても、与えられた仕事は完遂かんすいする。


(今でも不思議だわ。なんで、あそこで澤田さわだくんの名前が出たのか)


 しかし、その運び手に洋介を指名したのはなぜだったのか。本当に、みっともない姿を見せられるのは洋介だけだと思ったのか。

 もう一度、自分自身に問いただしてみると明確な答えが返ってこないのだ。深く、深く、心中を訪ねてみる。すると、そこに答えはいた。

(本当に?)

 優香は自問する。彼女自身、あまり納得ができない答えだ。しかし、それ以外に合理的な解答が見つからない。


 観念して、優香は口を開いた。

「私は聞いてもらいたかったのかもしれないわ」


 洋介なら、この胸の内にあるモヤモヤを打ち明けてしまっても良いかもしれない。そんなかすかな期待と、それ以上に、処理しきれなくなった負の感情を誰かと分け合いたいという欲望が優香の中にいたのだ。

 それは卑怯ひきょうだ。自分の弱さに、肩を貸して欲しいと優香は願っていた。そんな自分がいたのかと驚きつつ、優香は静かにその感情を受け止めていた。


 もう、ここまで来たらとことんまでみっともなくてもいい。優香は覚悟して話し出す。


「休んだのは病院行ってたからよ。でも、私の治療のためじゃなかったわ」

 形の無い痛みが優香を突いてくる。この痛みをなんとかしたくて、無意識に優香は誰かに助けを求めていた。


 その声を、洋介は敏感に感じ取っていたのだ。それを、優香は後に感謝することになる。


「午前中、お見舞いに行ってたの。駅近くの、総合病院にね」

「……誰のって聞いていい?」

 小さくうなづいた優香はただ一言、苦しそうにつぶやいた。


「お父さん」


 その一言がよっぽど、重たかったのか。それだけ言い放つと、優香は一回、大きく息を吐いた。


 空気の重さに耐えられなくなったライツが洋介の頭に戻ってくる。すでに定位置となりつつある、洋介の頭上はライツにとって安息の場だ。

 そんな彼女の様子を見て、優香が放っていた空気が和らぐのを感じた。


「ライツちゃんは、良かったね。澤田さわだくんがいて」

 優香は心底うらやましそうにライツに微笑ほほえんだ。その笑顔の意味を洋介が知るのに、そこまで時間は必要なかった。


 その後、優香は自分の父親の話を語りだした。

 彼女の記憶にここまでやった覚えがないほどに、自分自身の内面をさらけ出して。

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