第31話 暗き空にかかる虹

 さっきのが何回目の試行になるだろうか。


 途中からは、もう数えてすらいない。壁に侵入しようとすれば全身を突き刺す痛みに襲われ、体は後方へと弾き飛ばされる。生まれてから経験したことのない苦しみに、ライツの思考はその都度削ぎ落とされていく。

 今は考えることも億劫おっくうだ。頭の中がもやもやとしている。


「はぁ、はぁ」

 それでも、その瞳の輝きは、壁に拒まれる度に研ぎ澄まされていく。


 ライツの服がところどころほつれていた。突入に力を使いすぎて、補修に回す力が足りなくなっているのだ。

 ライツは文字通り、魂を削って壁を突破しようとしている。


 どうして、そこまでするのか?


 そんな疑問は彼女には生まれないし、誰かに聞かれても答えることはできない。ただ、ライツはしたいことをしているだけなのだから。

 無邪気に遊び回っている時の笑顔と、決死の覚悟をして悲壮感に満ちた表情は、他者が見ればまるで違っているように見える。しかし、ライツにとっては同じことだ。


 結局、今一番やりたいことを一生懸命にやっていることに変わりはない。


 ライツは天を仰ぎ見る。荒い呼吸は、何とか周囲から力を集めようとしているがための生理現象。

 結界に奪われていった光の力を、外界から取り込もうと呼吸を早めていた。


「今度はライツがヨースケを守るんだ」

 うわ言のように繰り返す、ライツの『今一番やりたいこと』。

 どれだけ意識が朦朧もうろうとしようが、それだけははっきりとしている。むしろ、他の余分な思考がなくなっていくことで更に大きく膨れ上がっている。彼女の頭は、それだけで占められていた。


 さっきから背中が熱い。

 破れた衣服から露出している、彼女の小さな羽根が震えている。ライツの力の源である羽根は悲鳴を上げていた。

 限界を超えた熱量が羽根から発せられ、体が焼けそうになる。


「ふう」

 もう一度だ。ライツは今もなお膨らみ続けて、世界を飲み込もうとしている結界を睨みつけた。


(今度は足から行ってみよう。バラバラになりそうでも、それならガマンできる)

 ライツは前の反省を踏まえて、次の行動を選んだ。頭から行ったら衝撃が強すぎて推進力が弱まってしまったのだ。理由は分からずも、経験から本能で最適解を選択していく。


「今度はライツがヨースケを……」


 ぐっ、と口を結ぶ。羽根はますます熱くなっていく。


(ためて、ギューっと。そして、ドーンと蹴っ飛ばすんだ)


 引き絞った弓につがえた矢のように、ライツは体を縮めていく。そして、最高潮に達した時に躊躇なく解き放った。

 すぐに壁に接触する。そして、すぐにビリビリと足の先から脳天まで衝撃が走っていく。


 その痛みを振り払うように、ライツは口を開いた。

「ライツが守るんだっ!」


 気合を込めて叫ぶ。体を吹き飛ばそうとする衝撃を何とか耐えて、それだけではなく、さらに体を押し込んでいく。

 すると、さっきまでとは違う感触がした。足の指が、すーっと壁の内側に吸い込まれたのだ。


 今しかない。ライツはさらに力を込める。羽根が焼ききれてしまいそうだが、気にする余裕はない。


 頭によぎるのは洋介の笑顔。

 母から離れて初めて知った不安という恐怖。洋介はずっと、襲ってくる怖さからライツを守ってくれていた。

 彼と引き離されて、ようやく気づいた。洋介は失ってはいけない、かけがえのない存在なのだと。


「今度はが……」


 それなのに、彼を閉じ込めた結界に負けて逃げていいのだろうか。それは絶対にしてはいけない。

 洋介はずっとライツを守ってくれていた。


 だからこそ、今度は。


!」


 ライツの叫びとともに、結界の壁が歪む。ライツの視界は真っ白になって、世界が弾け飛んだ。



「うわっ、とと」

 次にライツが見たものはアスファルトの地面だ。勢いをつけすぎて、ぶつかりそうになったが何とか踏みとどまる。


「やった、入れた」

 思わず笑顔がこぼれる。しかし、次の瞬間には怪訝けげんな表情に変わっていた。


 空を仰ぎ見る。先程までの青はそこにはない。よどんだ暗い色が隅々まで広がっている。

「嫌な感じ」

 それは洋介の周りに感じたものと同じだった。その感覚が、周囲全体に漂っている。


 うーっ、という唸り声がして振り返った。

 そこには首輪をした犬が一匹、ライツに怒りの表情を向けていた。近くに倒れた飼い主らしき女性の姿、犬は彼女にライツが近寄らないように吠え続けている。


「ゴメンね、驚かせちゃった」


 ライツはしゃがみ込んで犬と視線を合わせる。その目に敵意を感じなかったのか、犬は吠えるのを止めた。

 犬の首輪につけられた紐は女性が握っていたのだろう。今はどこにも縛り付けられていないから、この犬は自由の身である。

 それでも、犬は女性のそばを離れる様子はない。起き上がる様子がない女性を案じてか、座って彼女をじっと見つめている。


「護ってるんだ、偉いなぁ」


 ライツは洋介の側を離れてしまった。彼に危険が迫っていることに気づいていたというのに。

 この小さな子犬の姿が、ライツにはとても眩しく映っていた。


 すっ、と立ち上がったライツは空を見る。

 壁の外では感じなかった洋介の気配を感じ取ることができた。


 大丈夫だ、まだ失敗は取り返せる。


「行くよ、洋介。待っててね」


 ライツは地面を蹴って、飛んだ。

 暗い空を、己の羽根から零れる光で虹色に染め上げながら。

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