第5話 絆を辿って

「う~ん?」


 リィルは目をこらして、左右いっぱいに広がっている水平線を見つめていた。右を見ては一度、左を見ては一度。そして、正面を見て再度首を傾げている。眉根を寄せて、しばらく考えた後にまたそれを繰り返していた。


 ようやく彼に追いついた優香は、そんな様を見て声をかけた。


「どうしたの?」

 何か困っているのなら力になりたかった。そもそも、リィルが何か言ってくれなくては優香には何も感じられないのだ。優香は情報が欲しくて、リィルの返事を待つ。


 彼は、先程と同じ動作を一周し終えてから優香の方に向き直った。

「いや、うん、何かおかしくて」


 振り返ったリィルの視線は優香を通り過ぎていた。その黒い瞳には彼女の背後にある山々が映っている。首を大きく、ぐるぐるっと左右に回した後に、リィルは頭を抱え込んで座り込んでしまった。

「おっかしいなぁ。そんなはずないんだけどなぁ。何か、オレがおかしくなったのかぁ」

 おかしい、おかしいとリィルの口から戸惑いの言葉が延々と出てくる。


 どうやら、リィルの予想とは違った答えが目の前に広がっているらしいが優香には分からない。その事実に、優香は少々苛立った声でリィルを呼ぶ。

「リィルくん。いったい、何がおかしいのか。私に教えて」

 自分の知らないところで相手に悩まれるのは気分が悪い。状況を打破したい想いが全面に出てきて、優香の口調は厳しくなる。


「う~ん、オレさ。きっとロォルは海の上にいると思ってたんだ。さっきまで」

 だから、海が見えた時にあんなに嬉しそうに駆け出したのか。優香を置いて走っていく、そんなリィルの小さくなっていく背中を彼女は思い浮かべた。

「だからさ、海に飛び込むくらいの勢いでここまで来たのに海の方にはロォルの気配がないの。むしろさ、その逆に……」


 頭を抱えていたリィルは、その手をゆっくりと下ろす。そして、力強く立ち上がって、並んでいる山々を指差した。

「こっちにロォルがいるっぽいんだけど、何でだろうって。もしかしたら、オレがおかしくなっちまったのかなって」


 リィルは、優香の想像通りロォルの位置を大雑把ではあるが探知できていた。リィルはこの場所までやってきて前方海側からロォルの気配が消えてしまった事実を、とても不可解に思っているのだ。

 優香は、まだ地上の方が安全だろうと思った。だから、その結論は良いことのように思えたのだが、リィルは信じられない思いでいる。


 それは、彼が今まで抱いていた観測と矛盾してしまうからだ。


「オレならさ、気を失っても無意識に泳げるから、どっかの島に上陸できると思うんだ。でも、ロォルは……泳げないから。だから、今までずっと一緒にいたんだから」

 リィルのざわめく心が、そのまま彼の思考を揺さぶっている。彼の表情は、どんどん険しくなってくる。


 まるで、目覚めたばかりの時のようだと優香は感じた。


「ロォルが泳げないのは、周囲を水で囲まれるのが怖いからなんだ。泳ごうとすると、どうしても少しは沈むから、それで練習もできなくて。でもオレ達、種族的な体質の問題で沈もうとしなければ体は浮くんだ」

 人間も無駄な力を抜けば水に浮く。実際は大きな違いがあるのだろうが、優香はとりあえずの理解で話を聞いている。


「ロォル、前も一人になって海に落ちたことあるんだ。そんときはこう……オレが見つけるまで無表情で波間に漂っていたから、今回もそうしてるんじゃないかと思ったんだけど。無の境地ってやつ?」

(ふふっ)

 優香の脳裏にはリィルとそっくりな子が、真顔でラッコのように浮かんでいる映像が浮かんできた。そんな想像に、思わず笑みを浮かべそうになる。

 さすがに不謹慎だと思って、彼女は歯を食いしばって耐えた。


「もし、急に泳げるようになったとして……それでも、海から離れようとはしないはずなんだよな。ロォルにとっては恐怖の対象だけど、同時にオレ達の命を繋いでくれるのも海だからさ。見えないところまで行こうとはしないと思うんだけどなぁ」


 ここまで聞いて、ようやくリィルの困惑を優香は理解した。


 彼が嘘を言っていないことは最初から信じている。その上、どれだけロォルのことを大切に思っているか、計ったのは優香の物差しではあるため程度の違いはあったとしても、彼女にも十分に伝わってくる。

 だからこそ、ロォルを探すために辿っていた道筋が自分の想像とは違ったところに繋がっていて戸惑っているのだ。ロォルを、彼女を必ず見つけ出さなければいけないという想いが強いからこそ、これまでの経験則とは違った結論を導き出している今の自分の感覚を信じていいのか、リィルは迷っている。


 おそらく、このままでは彼は自分の行動の指針を決めかねて、何もかも中途半端になってしまう。


(よし)

 優香の腹は決まった。


 だったら、リィルが立ち止まらず動けるようにすればいい。優香にできることは客観的な導き手になることだ。感情的なものは全て身内であるリィルに任せて、己は冷静な思考にてっする。そして、事の推移に応じてリィルに助言しよう。


「少し移動したほうがいいわ。そこでも、海の方角にロォルちゃんを感じなかったら海にはいない」

 優香は強めの口調で断言した。まずは、リィルの迷いを消し去ることが大切だと彼女は考えている。彼が自分の感覚すら信じられなくなったら、それこそ情報不足になってしまって暗中模索することになってしまう。


 それだけは避けなければならない。


「そうね、まずはこの道を直進してみましょう。少しでもロォルちゃんの気配の位置がずれたら教えてね」

「は、はい」

 張りのある言葉でテキパキと指示をされたリィルは、自分の戸惑いすら忘れて頷くことしかできなかった。


 そこから数時間。

 歩き回った後に分かったこと。


 まずはリィルが感じるロォルの気配は、確実に海側にはないこと。リィルは一度も水平線の方向に顔を向けなかった。ずっと、そんな状況が続いたものだからリィルもやっと海への未練を断ち切れたようだ。


 そして、真っ直ぐに進むだけでロォルがいるであろう方向が少しずつずれていった。その結果は、二人の位置から、それほどロォルは離れていないことを意味している。

 もし県境を超えるほどに離れていたらリィルのアバウトな感度のことだ、「あっちのほう」が広すぎて指を指す方角は動かない。微妙な動きでは会ったが、地図さえ持ってくればロォルのいるであろう範囲は絞り込めるはずだ。


 すぐ近くではないだろう。それでも、手が届きそうなところで優香は安堵した。


 念の為、優香はロォルが別の海に流されている心配はないか、リィルに尋ねた。妖精達の常識を、優香はあまり存じていない。もしかしたら、ワープのようにどこの海にも行ける可能性があるのではないか。


 優香のそんな疑念を、リィルは軽く否定した。

「北の海から海流利用して途中まで来て、たぶん、あっちに見える島で休んでたのは覚えてるから……流れ着くとしたらこの浜かな。ねぇさんが言うような術とか使えると、オレも楽なんだけど……試したこと無いし、試す機会もなかったなぁ」

 どうやら、とても幻想的な存在である彼らの移動は優香の考えるよりもずっと原始的なようだ。リィルの見ている「あっちの島」は優香には見えなかったが、それも物理的な距離の問題のようである。リィルの視力が優れていることだけは分かった。


(寒流って、この海まで届いてないはずよね)

 北の海からの海流。それはつまり、親潮のことだろう。それだけでも優香には想像もできないほどに果てしない道程に思えるのだが、休んでいたと言っているからにはリィルはそれでも旅の途中だったようだ。


 そうなると、優香にはさらに疑問が浮かんでくる。話を聞いている限り、リィルの遊泳能力はとてつもないものだ。そうなると、優香が彼を助けた状況が結びついてこない。


「そんなに泳げるのに、何でおぼれることになったの?」

「いや、オレ、おぼれたわけじゃなくてですね」


 さすがに泳ぐことに関しては自負があるのか、リィルは敬語混じりで反論しようとする。しかし、すぐに言葉が遮られた。

 思い返せば、おぼれたのと同じ状況かもしれない。そう考えたリィルは鼻の頭をかく。白い肌が、みるみる紅潮していった。


「えっと、コレはオレが単純に恥ずかしい話なんですけど」

 まだ先程の無駄な緊張が解けないのか、リィルは変な言葉遣いのまま直近の記憶を語りだした。

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