第16話 努力の方向性

 優香は今更であるが、少し冷静になると同時に羞恥が襲ってくるのを感じていた。


 ずっと鍵を閉めてきた感情だったから、一度決壊すれば脆かった。つい最近まで会話もしてない同級生、しかも男の子になんて話す内容ではないのに止まらなくなっていた。


「井上さん、ちょっといいかな?」

 洋介に声をかけられて、優香は顔をあげた。

 彼は真っ直ぐに優香を見ていた。恐ろしいほどに、その視線に歪みはない。

 意を決して、という表現がしっくりくるだろう。それだけ、洋介の顔は緊張に満ちていた。つられて、優香は体を固くする。


 何を言われるのだろう。

 ここまで中身をさらけだしたことは家族にすらなかったから、この後の展開を優香は怖がっていた。

 この短時間に、彼の口から出てくるであろう言葉をいくつか思い浮かべる。そのどれも、優香はうまく返せる自信がない。


 ただ、洋介が発した言葉は、そんな優香の思惑など、軽く飛び越えていくものだった。


「人に好かれたかったら、まずは自分が努力しないと」


「え……?」

 軽い言い回しだと言うのに、洋介の言葉は、優香の心にはずっしりとのしかかってきた。

 それがなぜなのか、すぐにははっきりとしない。


「おじさんの本心はわからないよ。でもさ、僕はこう思う」

 優香の困惑に気づかずに、洋介は話を続ける。

「置いていかれる、って感じるのは井上さんがおじさんの背中しか見ていないからじゃないかな。井上さんが頑張ってきたのは確かだし、凄いなぁって感心する。でも、おじさんとのことに関しては何かお互い顔を見れていないっていうか」


 自分は顔を見すぎなんだけど、と洋介は自嘲する。

「もっと、相手のことを見ようと努力する必要があったと思うんだけど……あれ?」

 そこまで話して、優香が目をパッチリと開いたまま放心していることに洋介は気付いた。


「ご、ごめん、言い過ぎた」

「ううん、そんなことないけど」

 洋介の謝罪に対して即座に言い返したものの、優香の表情は変わらない。驚きが先に来たことで、処理が止まっていた脳がようやく回りだす。

 優香は、まじまじと洋介の顔を見つめている。


「澤田くん、お父さんと同じこと言うのね。ビックリした」


「え、あ、そう、そうなの?」

 洋介は明らかに動揺していたが、優香は意に介さずに自分自身の思考に脳内処理のリソースを割く。


 優香は思い出していた。父に同じことを言われた時を。

 その時は、「もっと精進しなければいけない」と肝に銘じるだけだった。

 なぜなら、父が苦労する姿を見てきたからだ。

 父は才覚と勇気と機会に恵まれていた。あれよ、あれよと富を積み上げて一代で会社を大きくした。

 故に、妬みからか「成金」と蔑まれることもある。父は、その都度自分を磨き上げ成果で周囲を納得させた。


 思えば、父が厳しかったのも優香に自分と同じような思いをさせたくなかったからではないか。

 不器用な人だから分かりづらかったが、それも父の優しさではなかったのか。


(ちょっと考えれば分かることなのに。お父さんの想いなんて、私は考えることもしなかった)


 少し考え方を変えたら、自身の胸がすっきりとする答えが生まれてくる。

 相手のことを分かろうと努める、それも努力なんだと洋介に諭されなければ、優香はこれからも同じ考えに囚われ続けていただろう。

 言葉は同じでも使う人が違えば印象は異なってくる。

 父に言われた時は考えもつかなかったが、洋介に言われると妙に納得ができた。


 自分とは異質であるのに、なぜか安心できる。

 澤田洋介という人間は、つくづく不思議な存在だと思う優香は自分の心が温まるのを感じた。


「元気、でた?」

 優香の膝の上に座っていたライツは、にっこりと笑いかける。

 ライツは感情そのものの機微に敏感だ。負の感情に溢れていた優香を見て泣きそうになっていたが、今は満面の笑みを浮かべている。


 隠すことはできないし、隠す必要もない。

「うん、元気出たよ」

 ライツの瑠璃色の瞳に、彼女の笑顔と遜色ないほどに明るい優香の笑顔が映っていた。



「寝ててもいいのに」

「客人を見送れないほど、弱ってはいないわよ」


 洋介達と一緒に階段を降りる優香の声は力強い。

 いつもの調子が戻っていることに、洋介は安堵した。同時に、どっと疲れが出てくる。

 相手の懐に踏み込むのはこうも労力が必要なのだろうか、と洋介は痛感した。ただ、優香の表情を見ていれば、これも悪くない疲れだと洋介は思えるのだった。


「ん、なんだろ?」


 二人の間を飛んでいたライツは、階下の物音に気付いた。

 忙しない音だ。タタタタ、とフローリングの床を叩いている。パタパタとそれを追いかける音がする。

 後者は洋介が履いているものと同じスリッパの音だ。前者は何だろう、とライツが考えている間にも音は近づいていた。


 わふん、という鳴き声がしたのは洋介が一階に降りた時だ。

「きゃー、洋介君避けて!!」

 良美の危機感あふれる声。何事だろうと、洋介が振り返ると真っ白ななにかに視界が遮られた。

「どぅわ!?」


 なにかに飛びつかれ、勢いそのままに尻もちをつく。

「むぐ」

 尻の痛みよりも、もふもふとしたものに抑えつけられた苦しさが勝る。何とか脱出すると、目の前でわふわふという息づかいが聞こえてきた。


「……久しぶりだな、おまえ」

 わふん、と洋介を襲った存在は返事をした。

 真っ白で大きな犬が、洋介の顔を夢中で舐める。あまり動物に慣れていない洋介は、一生懸命引き剥がそうとするが大型犬の力は予想以上だ。

 結果、顔をあずけた方が楽だと洋介は判断してされるがままになっている。


「最近、本当に驚いてばかり。ムーが家族以外に懐いてるの、初めて見たわ」

 洋介にじゃれつく飼い犬の様子に優香は目を丸くした。


「私には未だに懐いてくれないんですよね」


 息を切らしている良美はがっくりと肩を落とした。優香の代わりに散歩にでも連れて行こうかと思ったが、言うことを聞いてくれずに暴走しだしたのだ。


「井上さん、できればこいつ離してほしいんだけど」

「あら、ムーはまだ遊び足りないみたいよ」


 余裕のなくなってきた洋介に、優香は勝ち気な表情を見せる。


 優香がそんな表情をするのは、実に子供っぽい理由である。洋介には負けっぱなしな印象を優香は抱いていて、ムーがその無念を晴らしてくれている気に優香はなっているのだ。

 そして、それを何とかできるのが自分という事実が、優香の気を大きくさせる。


「もう少し舐められていたらどうかな」

 洋介と視線を合わせる為に、優香はしゃがみこんだ。

「そ、そんな」


 そんな光景をじっと見守っていたライツが、思いつきでふわりとムーの頭の上に飛び乗った。長い毛で、彼女は埋もれてしまった。

 ムーもライツの存在は感じるようで、違和感で頭を振る。

「こんにちは」

 ライツの挨拶に、わふんとムーは返事をした。その声に気を良くして、ライツはもふもふの中から顔だけ出すと右腕を突き上げた。


「ごーっ!」

「ワフーっ!」

 ライツの合図で、ムーは再び走り出した。


「ま、また。ちょっと待って」


 良美がそんな彼女らを追いかける。意外と小回りが効くようで、広い家の中を何も壊さずに全速力でムーは走っていく。

 フェイントに引っかかった良美ががっくりと項垂れていた。


 ライツは楽しそうに笑っている。

 ようやく解放された洋介と優香は顔を見合わせて、同じように笑っていた。

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