第17話 花咲く横顔
「ムー、いいかげんにしなさい」
散々走ったムーは、優香の一言で沈黙し渋々と言った様子で彼女のもとへ歩み寄った。
ライツはライツで、若干怯えた表情でムーと一緒にふわりと飛んできた。怒られると思っているのか、非常に恐縮した面持ちで優香の挙動を観察している。
険しい顔をしていた優香であったが、すぐに破顔する。
「ストレス溜まってたかな。ごめんね、明日は散歩に連れて行くから」
ムーの側でしゃがみ込むと、その顔を挟むようにして撫でる。そんな優香の表情はとても柔らかく、洋介の心から過去の光景を引っ張り出してきた。
あれは、洋介が小学5年生の頃だった。
祖父の家で出会った人の理から外れた少女、彼女は自らを「桔梗」と名乗っていた。そんな桔梗が、突如洋介に別れを告げたのは前年の夏。
期待を込めて訪れた祖父の家に、彼女の姿は彼女が告げていた通り見当たらなかった。
戻ってきた洋介の落胆ぶりは、当時洋介が一番の友人だと思っていた人物が気にかけるほどであった。
桔梗のことは、祖父も親も分かってくれなかった。見えないのだから仕方がない、と彼女は笑っていた。いつしか、洋介も伝えることを諦めていた。
それでも、この友人なら桔梗のことを信じてくれるかもしれない。洋介は一縷の望みにかけて、桔梗のことを友人に伝えた。
――なにそれ。高学年にもなって、そんなの信じてんのか。
返ってきたのは明確な拒絶反応。
その後、件の友人は転校してしまって、それっきりだ。
しかし、桔梗の話がどこで漏れてしまったのか。彼女の話は、洋介をからかう為の題材となってしまう。いつしか、エスカレートした級友たちは洋介をいじめの対象とした。
誰に信じてもらえなくても良い。桔梗のことは自分だけ覚えていれば。
そんな風に耐えていた彼だったが、幼い心はすぐに限界を迎える。
桔梗には、もう二度と会えないかもしれない。自分自身を信じる材料が非常に乏しい。そもそも、本当に自分は彼女に会っていたのか。最初から全て幻だったのではないか。周りの人間が言うように、自分はおかしな人間なのではなかろうか。
洋介は一人になると、いつも考え込むようにまってしまう。もともと受け身だったせいで、ますます自分の殻の中に引きこもっていった。
級友たちからすれば、軽い気持ちでからかっていただけだろう。しかし、洋介は彼等の言葉で今まで積み上げてきたものを全て崩されてしまっていた。
結果、未来が見えず、今を考えれず、残った大切な思い出も消してしまう直前まで行ってしまう。
そんなことが続いたある日、洋介の鬱憤はついに爆発してしまう。
その日最後の授業はグループ学習。
いつものように、仲間外れにされる洋介。子どもは馬鹿ではないから、普段は先生の見えないところで洋介をからかっている。
今回も、狼狽する洋介をにやにやしながら見るのが目的で、先生が気付いたら仲間に入れる算段だった。
しかし、彼等にとって予想外だったのは洋介がこっそり教室を抜け出してしまったことだ。
洋介は学校を飛び出すと、家に向かう帰り道とは逆の方向に歩き出す。
勢いに任せて逃げ出したが、何かしたいというわけではない。帰る気にもなれない。
ぶらぶらと目的なく歩き続けると、大きな川を見つけた。
(ん?)
洋介の耳にか細い鳴き声が届いたのは、彼が橋を渡っていた時だ。
(どっから聞こえてきたかな)
洋介は一旦引き返して、堤防に戻り、階段を降りて川岸に降りた。その声の主はすぐに見つけることができた。
何というテンプレートな出来事だろう、と洋介は思った。
そこで見つけたのは、箱の中で震えている子犬の姿だ。地毛は白かっただろうと想像できるが、汚れて本来の姿を見ることはできない。
見下ろす洋介に対して、うーっと唸っていた。
動物にまで嫌われるのか、と洋介は一瞬落ち込みかけるがすぐに持ち直す。
(怪我してる)
足に汚れとは違う朱い染みを見つけた。
意味も分からずにここに連れてこられて、親を探して走り回ってた時にでもついた傷だろう。人間は親から引き離した存在だから、恐怖の対象でしかないのだろう。
そんなことを想像していた洋介は、自分自身を納得させるために頷いた。
ズボンからハンカチを取り出して、犬が怪我した箇所を守ろうとする。
当初、警戒して逃げようとしていた犬も洋介の必死な様子を見てか、徐々に落ち着いてくる。傷口を縛り終えた時には、洋介の汚れた手を舐めるほどには心を開いていた。
(消毒とか、したほうがいいかな)
小銭入れなら持ち歩いている。ここに来る前に見た薬局で買うことができるかもしれない。
洋介は不安げな顔で見つめる犬を置いて、その場を立ち去った。
しばし、時間は流れて。
急に降り出した雨の中を洋介は駆け戻ってきた。しかし、そこに子犬の姿はない。
どこにいったのだろう、と周囲を見渡した洋介はある一点で固まった。
少し大きめの川の中洲で、子犬が不安げに鳴いている。
すぐ近くにおろおろとうろたえる子供達がいる。
大方、近づくと逃げる子犬の態度を面白がって追い回していたのだろう。ただ、そこまで必死に逃げるとは思ってもいなかったらしく、どうしようか次の行動を決めかねている。
中洲に渡った時は必死だのだろう。
犬の方も、次の行動をとれずに座り込んでしまっている。もう一度、泳ぐという選択肢はなさそうだった。
思ったよりも近い。
洋介は駆け出そうとした。しかし、そんな彼よりも早く行動を始めていた者がいた。
女の子が一人、傘を放り出して川の中へ入っていった。
あまりにも素早かったので、子供達は呆然と彼女がすることを眺めている。洋介の足も止まっていた。
浅い川だ。子どもでも足がつく。それでも下半身は完全に水の中だ。
少女は自分が濡れることには一切構わずに、歩いて中洲にたどり着く。震える子犬を抱えると、子犬は川につかないように持ち上げながら、再び何の障害も感じさせない足取りで川の中を戻ってきた。
子ども達は、一人が逃げ出したのをきっかけに散り散りに去っていく。少女はそんな彼等を見て、大きく嘆息した。
少女は子犬を見つめている。彼女は洋介の存在に気付いていないが、洋介は彼女から目を離せなくなっている。
少女の手の中で唸る子犬を彼女はじっと見つめる。
――あなたも、そんな態度だから虐められるのよ。
彼女の声は雨の中でもよく通った。洋介はまるで自分に言われているかのような気分になってくる。
――人に好かれたかったから、まずは自分を磨かないといけないの。
それだけ言うと、彼女はニコッと子犬に笑いかける。その横顔が、あまりにも綺麗で、洋介の目に焼き付いた。
――私も頑張るから、一緒に精進しましょうね。
彼女は傘を拾い上げると、子犬を抱えたまま洋介に背を向けた。
その姿を、洋介は眩しいものを見るような視線でずっと見つめていたのだった。
(あのあと、大変だったなぁ)
連絡を受けた母親が会社帰りの状態でずぶ濡れの我が子を見つけたのは、そのすぐあとだ。警察まで動員された騒動の後、洋介に対するいじめは無くなった。
加害者からすれば遊び相手には面倒だ、とでも思ったのだろう。
あの日から、洋介は自分なりに努力してきた。
自分の考えを否定する人はいる。何で分かってくれないんだ、と思っているのは結局自分自身。そういう人もいるのだ、と嫌ってもいいが認めればいいのだ。
自分をからかっていた人間は未だに許せないが、それでいいと洋介は思っている。
そして少なくとも、自分を否定することはなくなっていた。かつて捨てかけた大切な思い出は、しっかりと心に残した。
しかし、ポッカリと空いた穴を埋めるのには時間がかかっていて。今も傷跡はしっかりと残っている。
中学に上がった頃、すぐに子犬を助けた少女が井上優香だと気付いた。それだけ、記憶に焼き付いている出来事である。
ただ、学校で見せる彼女の表情はとても堅く、洋介はどこか納得ができない思いで彼女を目で追っていたのであった。
だから、ムーを見つめる優香があの時の表情をしている、それだけで洋介はとてつもなく満足してしまうのだ。
「ヨースケ」
ライツが洋介の頭の上に戻ってきた。
「ヨースケ、何かユーカ見てると暖かいね」
「……そうなの?」
ライツの言葉は直感的ではあるものの、何を言おうとしているのかは洋介にも理解できた。何か心を見透かされたようで洋介は恥ずかしくなってくる。
思えば、彼女と出会ってからの日々で、心の傷も癒えてきたように思える。
壊れかけた記憶を努力で補ってきたが、その隙間ががっつりと埋まった感じだ。
今なら未来も見えるかもしれない。
(とりあえず進路希望を提出しないといけないか)
渋い顔をした担任の顔を思い出して、洋介は苦笑いを浮かべていた。
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