第20話 道化師の如く
速さであれば負けていない。
シィドは最初につけられた差を、瞬く間に詰めていった。暗い森を弾丸のように駆け抜けていく。
そして、脱獄者の姿がその目に入った時、シィドの遠い記憶が蘇った。
地上界のピエロを思い出させる風貌。生気のない真っ白な肌。正面は見えないが、きっと金色の瞳がギョロギョロと動いているはずだ。
「ハハ、ハハ、ハハハハハハハ」
時折聞こえてくる耳障りな笑い声には特に覚えがある。
「あんにゃろ、何が楽しいんだっての」
シィドは悪態をつく。
記憶が確かなら彼の名はコーヤー。あまり思い出したくもない相手なのに、それが目の前で飛び跳ねている。それは、彼にとって悪夢でしかない。
コーヤーはもともと、人を笑わせることが大好きな者であった。しかし、戯れに光妖精から宝玉を盗んだのが運の尽き。
彼は宝玉から溢れ出る光の力で自我を失い、この領域で大暴れした。後に牢獄に封印されたのだが、シィドの兄弟はその時に負った傷で走れなくなってしまっている。
シィド自身も、大暴れする彼の力の奔流に飲み込まれた一人だ。
本当に思い出したくない。シィドにとって、何も対抗できなかった事実は屈辱でしかないのだ。
「止まりやがれっ」
シィドは後ろ足に力をこめて飛び上がった。狙いはコーヤーの首元。シィドの牙が光る。
コーヤーは空を飛べるわけではない。地面に引きずり落としてやろうと、シィドはコーヤーが放物線の頂点から落ちてくるところを噛み付きにいった。
「ハハハ」
しかし、シィドの思惑は外れた。彼の牙は空を切る。
コーヤーはその手から金色の鞭を出して、木々に巻き付けて自分の体を持ち上げたのだ。
(んなの、ありかよ)
落ちていくシィドの視線とコーヤーの視線が交錯した。
コーヤーは枝の上に飛び乗って、片手を握りしめる。その手の周囲の空間が歪み、バチバチと火花が散る。
これはまずい、と察したシィドは地面で受け身をとる。もう一度立って跳びつきたいところであったが、彼は足を丸めて地面をそのままの勢いで転がった。
ズドン、と大地が揺れる。シィドが先程までいた地点を中心に爆音が響いた。
シィドの体は、受け身の姿勢をとったままで、衝撃によって遠くまで吹き飛ばされていく。
丸まっていたのが幸いした。地面に叩きつけられることなく、シィドはさらにゴロゴロと転がっていく。
「ごふっ」
大きな岩に進路を阻まれ、ぶつかったシィドの口から空気が漏れた。背中に強い痛みを感じるが、この痛みだけで済んだのは幸運と言っていい。
再び四足で地面に立ったシィドは眼前の光景に自身の目を疑った。
先程まで確かに森だった。
それが土と岩だけの広場になってしまっているのは何の冗談なのだろうか。
「マジか」
さすがに力の差がありすぎるだろう、とシィドは嘆く。甲高い笑い声とともに、コーヤーが近づいてくる。
歯を噛み締めて唸ってはみたものの、シィドの気力は完全に削がれていた。
そんな緊張感の中。
「なんじゃ、騒々しいのぉ」
背後の岩から、とてつもなく間の抜けた声が聞こえてきた。
「ん?」
反対側からひょっこりと顔を出したのは、おかっぱ頭の少女。濃い紫の和装に身を包み、寝ぼけ眼で眼前の惨状を観察している。
「はてさて、こんな景色だったろうか。まさか、100年寝過ごしたわけではあるまい」
「えっと、桔梗。あんた、もしかして寝てたのか」
桔梗と呼ばれた少女は、視線を動かすとじっとシィドの方を見つめた。そうしていて、ようやく目が覚めたのかパッチリと目が開く。
「おお、汝はシィドか。久しいのー」
そんな会話をしている間に、コーヤーがゆっくりと近づいてきている。彼の個性的な笑い声に気付いて、桔梗はそちらを見やる。
コーヤーの存在を認識すると、桔梗は瞼をパチパチと動かした。
「ん、汝も懐かしい顔じゃな」
「んな、悠長な」
あくまでも呑気な桔梗の台詞に、シィドはがっくりと項垂れた。
「ハハハ」
コーヤーは右手を握りしめる。
さっきの光弾だと気付いたシィドはその身を固くする。桔梗の表情は変わらない。
コーヤーが腕を振る。同時に空間を歪めるほどの雷鳴。森を焼き払った弾丸が、桔梗達を襲う。
シィドは動く間も与えられずに、ただ奥歯を噛みしめる。
「ほい」
しかし桔梗は手にした扇子で、その光を軽々と天に打ち返した。
ドーン、と闇空に雷の花が咲く。
「うわぁ」
シィドは呆けた顔で、ただ天空を見つめていた。
「なんじゃ、まだ苦しんどるのか。難儀な奴じゃの」
桔梗はコーヤーと正対する。
開いた扇子をパチンと閉じると、コーヤーを指し示した。
苦しんでいる、と桔梗は言った。
あの笑い声の奥にどんな感情が含まれているのか、シィドには検討もつかない。
「変わらぬな、本当に。変わってしまったまま戻らぬのか」
桔梗は短く息を吐いた。
そもそもが妖精族は、その性質から変質しやすい存在である。闇と光といった対極の存在であれば、その影響は計り知れない。
かつて、地上界を好んで住み着いていた者がいた。彼はもともと家の守り神として人間達に尊敬されていたが、いつしか人間達の心が変わり、彼を悪徳の存在と扱うようになった。
すると、どうだろう。人間達の負の期待に応えるように、彼は幸を荒らす怪物と化してしまったのだ。
(じゃから、わしもこっちに帰ってきたんじゃったな)
千年の時を、地上界で過ごした。初めは人間達から敬われて、時に恐れられて。彼女はそんな彼等の生き様を近くで見ているのが好きだった。
しかし、時は流れ人間達から忘れられると、今度はいつ自身が変容するのか、その恐怖が襲ってきた。
(そういえば、人の成長は早い。あやつはどうなったかの)
桔梗は、自身を慕ってくれた少年の顔を思い出す。久々に人間と、彼と交流できたことで、より彼女は人間達に仇なす存在と自身がなってしまうことを恐れた。
慣れ親しんだ地上界を離れることを決心したのも、それ故だ。
「まぁ、よい」
自分の思考に終止符をうち、再び扇子を開いた。表情を隠すように、口元に持ってくるとそれを優雅に動かしている。
彼女のまとう空気が徐々に変わっていく。
「暴れたりぬようなら、わしが相手をしよう。さぁ、『存分に舞おう』ぞ」
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