第45話 想いは氷雪のはてに
「おにぃちゃん、こっちに気づいた」
リィル達のいる森の入口。ロォルはその黒い瞳の眼を細く吊り上げたまま、大きく息を吐いた。少しでも緊張感を和らげたかったが、なかなか鼓動は落ち着いてくれない。
「走ってきた。……うん、こっちに来るなら避けにくいところが狙えるはずだね」
その手には、ロォルがその両手を広げたのよりも長く張られた弦が際立つ、大きな
ロォルは遠くを見つめている。ちらちらと、彼が動く度に木々の隙間から見えるリィルと視線が交錯する。さらに緊張感が増したが、確かな手付きで
歯車がぎりぎりと音をたててを動き、力強く弓が引き絞られていく。それと同時に、自分の意思を、その
しかし、どうしても、その込める意思が揺らいでいく。本当はもっと綺麗にしたいというのに、
「はぁ、もう仕方ないか」
中途半端な威力を持った矢ができてしまったが、ロォルは溜息しつつ
じっと、目に意識を集中させる。体の五感が研ぎ澄まされていく。特に視覚が強化されていく。
その、強い輝きをもった瞳は、まだ遠く離れた位置にいるリィルの姿を追っていた。重なった木の影に、隠れていない箇所をを狙い、引き金を引く。
バシュッ、と大きく弦が爆ぜる音が静かな空に響いた。
彼女の狙いは正確だ。ロォルの元を離れた矢は木々の隙間をぬって、外すことなくリィルに真っ直ぐ向かっていく。そのままリィルを貫くか、と思われる速度で矢は森を疾走した。
しかし、勢いよく放たれたその矢は、あまりにも簡単にリィルの手によって叩き落とされる。
(やっぱり、またダメか)
やはり、込めるべき意思が弱かったとロォルは結論付ける。彼女は落胆する表情を隠さず、それでも
最初、この場所に来て、千里を見通すかのように優れた視力でリィルを見たロォルは、一目で彼の身に何が起こったか悟った。
洋介から聞いて想像していた通り、彼は自分達の一族に受け継がれていた
それだけではない。
おそらく、リィルとの繋がりが強かったせいだろう。ロォルは彼の顔を見ただけで、今のリィルの頭の中身が見えてしまった。リィルが何と戦っているのか察することができてしまった。
思い出すのは、ロォルが一度だけ見たことのあるリィルの顔。
現在の動くことのない固まってしまった表情。全く違っているというのに、その顔から感じ取る彼の感情が、あの時に見たものと、とてもよく似ていたのだ。
(うん、やっぱりおんなじだ。あの時のように、おにぃちゃんは仲間のために戦っている)
あの時。それは、ロォルも思い出したくない火山の噴火で崩れる島にいた時の話だ。
立っていられないほどの地震が足元を襲っているというのに、リィルは自らの恐怖を押し隠して仲間のために奔走した。
おそらく、それはロォルのためでもあったろう。決して、表情に恐れを出すことがなかった。それだけではない。ロォルと目が合うと、引きつった顔で、それでも彼女に笑いかけようとしてくれていた。
その時の、本当の心を自身の奥底に閉じ込めていた、そんな彼の表情を、今のリィルを見るとロォルは思い出す。
「ううん、今だけじゃない」
ロォルは再び、リィルを狙って矢を放つ。足首を狙ったそれは、今度は彼の銃によって
(ずっと、おにぃちゃんは本心を出していない)
リィルは、きっと心をどこかに置き忘れてしまったのだ。ロォルは、ここにきて、そんな思いに至った。
置き忘れた。それでは、リィルは心をどこに置いてきてしまったというのか。
(それはきっと)
思い出すだけで、ロォルは泣きそうになる。それでも、強い決意が彼女の思考を後押ししてくれた。ここを乗り越えなければ、ロォルも先に進めない。
彼女が思い描くのは、氷が浮かんだ海。
――ほら、ロォル。こっから飛び込んでみろよ。
幼い頃、ロォルがリィルに
どれだけ冷えたとしても大丈夫なはずのロォルの体が、衝撃で芯から冷え込んでしまった。体が動かない。水面が、どんどん遠ざかっていく。
すぐにリィルが、ロォルの様子がおかしいことに気づいて、彼女を追って海に飛び込んだ。そして、深く沈んでしまっていたロォルの体を抱えて、彼女を何とか陸地にまで引き上げた。
――ごめん、ごめんよ。オレは、なんてことをしちゃったんだ。
いつも、ロォルに対しては余裕の態度を崩さないでいたリィルの必死な形相。ロォルは、今まで意図的に忘れていた彼の顔を、はっきりと思い出すことができた。
リィルに対してのロォルの恨みやら怒りやらも含めて、落下の衝撃で吹っ飛んでしまっていた。だから、今の今まで、ロォルの中で、リィルのその顔は薄ぼんやりとした記憶になってしまっていた。
その事件の後、残ったのは元の姿に戻れなくなったロォルの体。
リィルの無意識に、十字架を背負った。彼女への償いのために自らの未来を費やさなければいけない。そんな、強迫観念のような想いが彼に刻み込まれてしまっていた。
リィルはきっと、あの頃に住んでいた氷雪の大地。そのはてにある海に、自らの想いを置き去りにしてきたのだ。
ロォルが元に戻るまでは自分が助けなければいけない、そんな使命感だけを残して。
「ぐすっ」
ロォルはこらえきれずに鼻を鳴らした。リィルに向けて放つ矢の精度は落ちることはなかったが、威力は相変わらず弱かった。
今の彼は、あの時のロォルと同じだ。いや、
最早、手は届かない。一度、神の力によって流されてしまったリィルの意思を取り戻そうとしても、ロォルには何もできやしない。
だったら、自分にできることは一つだとロォルは涙を振り切って前を向く。
「私は、おにぃちゃんを止める」
止める、とは文字通り停止させること。その中でもリィルに比べれば実力も経験も劣るロォルにできるのは、他の存在にいいように使われているリィルの体を解放してあげることしかない。
つまり、だ。誰にも使えないようにしてしまえばいい。
「だから、わたしはおにぃちゃんの体を壊す」
ぞくっと、ロォルの背筋に冷たいものが走る。ロォルは自分の言葉に、自分自身で震え上がる。
何と恐ろしいことを口走ったのか。おまえは何を考えているのか。今までリィルにしてもらったことを一つも返せていないのに、恩を仇で返すのか。
感情的な自身がロォルを咎めてくる。しかし、冷静さをもって、彼女はそれを抑え込んだ。
ロォルの兄、リィルは他人に迷惑をかけることを一番の恥としてきた。誰かに借りを作ることを、リィルはいつも嫌がっていた。そして、どうしても他の手を借りなければいけない時は、必ず借りを返してきていた。
だから、リィルが正気であれば、自分を壊してでも止めてくれることを望むはずだ。それだけは、確信を持って、ロォルは答えることができた。
(ずっと、側にいたんだから)
恩知らずなどと言われる筋合いはない。
ここが、今まで受けた恩を、ロォルが積み上げてきた借りを返す場なのだ。これが、自分の役目なのだとロォルは気合を入れ直す。
「うっ」
それでも、ロォルが無理をしていることは確かだ。ちょっと気を抜けば、涙で射線がずれてしまう。
ロォルは的確な射撃で、リィルは時々足を止めていた。そのまま、撃ち続けることができたなら、リィルの足を止めることができる。
しかし、何本か、大きく外してしまうことがあった。その度に、リィルは速度をあげてロォルとの距離を詰めてくる。
そもそも、本当にリィルを止める意思がこもっていれば、あんな簡単に防がれる矢にならないはずだ。ロォルは、まだ、心の底では覚悟ができていなかった。
(もっと、もっと。ちゃんと想像しないとっ)
ロォルは、粉々に砕かれるリィルの姿を思い描く。しかし、その度に彼女の心は着実に傷ついていった。
徐々に、ロォルから目の輝きが失われていく。それでも、「わたしが止めないと」と、ぶつぶつ呟きながらロォルは射撃を継続していく。
彼女の心が凍りつくのに比例して、リィルは確実に近づいてきていた。いつしか、距離はつまり、リィルは自身の射程距離圏内に踏み込んでいた。
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