第24話 幸福な悪夢
優香は洋介の席を見つめていた。それも無意識に。
(ああ、まただ)
自分の行動に何の意味があるのか。
首を傾げつつ、優香は意識を己のノートに戻した。
教師が話す内容は、ずいぶん前に独学で履修してしまった箇所である。普段なら、それでも他事を考えたりしない優香であったが、今日の集中力はかなり散漫になっていた。
その原因なら自分で理解している。
(澤田くん、今日はどうしたんだろ)
朝から姿の見えない洋介のことが気がかりだった。再び意識が授業の外に、はみ出してしまう。
若い教師は授業をするのに精一杯と言った様子で、あまり生徒を見れていない。
ちなみに、優香の隣に座っている男子は一時間目の授業だというのに爆睡している。他の教科の勉強をしているものもチラホラ。
かわいそうに感じるが、教師の自業自得だとも優香は思う。授業を聞いて欲しかったら相応の努力をするべきだ。
今日は自分も授業を聞くのは、もう無理かもしれない。それならとことん考えてしまおうと優香は開き直った。
(遅刻してくるんだったら、何の問題もないとして)
もしかしたら、自分の風邪を彼にうつしてしまったかもしれない。今、もしも自分のせいで洋介が苦しんでいるのであれば、と思うと優香は気が気でなくなってくる。
(お見舞い、か。してくれたことはしっかり返さないとね。え、でも、それってどうするのが正解なの?)
教師が生徒に質問を投げかけている間、優香は今まで経験したことのない難問に取り組んでいた。
そんなことを考えている優香。
その目が、ふいに大きく見開いた。
(えっ)
ドクン、と大きく心臓が脈打つ。そんなことをされた経験はないが、まるで頭を鈍器で殴られたかのような衝撃。
同時に、肩の辺りがずっしりと重くなる。
「なっ……!?」
抗えない倦怠感、その未知の感覚に思わず優香は叫びそうになった。
「んぐ」
口を抑えて、飛び出そうになった言葉を飲み込む。
授業中に叫ぶなど、もう二度としたくはない。優香は己に生まれた衝動を、必死に抑え込んだ。
しかし、そんなことをする必要はなかったかもしれない。
思考にかかった雲を振り払うように頭を振った優香は、周囲を見渡して気づいた。
「なに、これ」
優香の口から驚きの声がもれる。
眼の前の日常は、この刹那で反転していた。
今まで教師の声が響いていた教室内は静まり返っている。そんな教室で、優香だけが音を発していた。
隣の男子だけではない。右も、左も、前に立っていたはずの教師でさえ、皆が昏倒している。
表情は眠っているように穏やかだ。しかし、その口から漏れる息は、生きているのかさえ疑わしいほどに微かなもの。
優香は知っている。
「お父さんと同じ」
未だに目覚める様子のない、自身の父親と級友達の様子は見事に一致していた。
(あっ)
立ち上がった優香は目まいを覚える。体から芯を抜かれたようで、全身の感覚がどんどん薄くなっていくようだ。
そのまま倒れそうになったが、なんとか持ちこたえる。
壁に体重を預けながら、教室の扉までたどり着いた。視界がますます狭くなっているように感じる。
気を抜けば、眼の前は真っ暗になるだろう。優香は大きく、息を吐いて右手をつねる。
その痛みが、わずかに優香の頭に血液を送り込んでくれた。
これなら、まだ動くことができる。
「本当、急におかしくなるのね」
父が倒れた時の状況を優香は聞いた。彼に付いていた部下が、少し視線を外した瞬間に父は意識を失っていたという。
その男の言うことを優香は信じられないでいた。なぜ、父の変調に気づかなかったのか。恨みにすら思った。
「私も、何もできなかった」
急に倒れた父を何とか助けようとしてくれた男性に、優香は心の中で謝っていた。
異常な事態なことは分かっている。
「助け……そうだ、誰か呼ばないと」
動けるのが自分一人ならば、自分がやらなければいけない。
廊下に出る。
いつもなら生活音に包まれている学校。それを学校が生きていると考えたのなら、今の景色はまさしく命を失ってしまっている。
廊下が果てしなく伸びているような錯覚。
どこまで歩かなければいけないのか。優香の決意が揺らぐ。自分にのしかかってくる重さに負けそうになる。
負けるわけにはいかない。優香はもう一度、今度は左手をつねろうとした。
そんな優香の耳に、全てを刈り取ろうとする強い言葉が飛び込んでくる。
「抗うな」
(えっ)
背後から聞こえてきた声に優香は振り返ろうとする。しかし、声の主はその姿を優香に見せる前に言葉を続けた。
「『
優香の知らない外国語。その音が聞こえたとき。
ぷつっ、と優香の中で何かが切れてしまった。
「あっ」
地面が近づく。自分が倒れてしまったと優香が分かったのは、冷たい廊下の感触を頬に感じた時だった。
優香の耳元に軽い足音が聞こえてくる。ぼやけた優香の視界に見えたのは、白い足だけ。
「抗うと苦しいぞ。
優香を見下ろしている者から降ってくる言葉が、優香の脳から考える力を奪っていく。
「う、くっ」
何とか立ち上がろうにも、優香の体は言うことを聞いてくれない。
このまま眠ってしまった方が楽かもしれない。優香は諦めそうになった。
しかし。
「おや、もう一人。結界に入ったのに動いている者がいるな」
そんな彼女の耳に届いた言葉が、少しだけ優香の気力を取り戻させた。
「ああ、昨日の坊やか。面白い、とことん抗ってくれるな」
昨日の坊や、それが誰を指しているのか優香には確信はない。それでも、優香には彼の姿しか思い浮かばなかった。
「ダ、ダメッ!」
優香は力の限り叫ぶ。できるのなら、その声が洋介に届くようにと思いっきり。
しかし、優香の喉は思うように動いてくれない。か細く、空気が抜けるような声しか出なかった。
「ほう」
それでも、優香を見下ろす少女は驚きの声をあげた。
「そうか、貴様の大切な者か」
優香の顔の近くで少女はしゃがみこんだ。初めて優香は彼女の顔を見る。
美しく、妖しい艶やかさをもった少女が優香の瞳を覗き込んでいた。まるで、優香の全てを読み取ろうとしているかのように、その瞳は不思議な輝きを放っている。
そして、揺らいでいた瞳は一つの色に定まった。
朱だ。
優香は、それがまるで血に染まっているかのように感じた。
「問題ない、すぐに会える」
ふふふ、と笑う少女。しかし、その目は冷たく優香を突き刺している。
「私の夢の中でな」
優香が真っ黒な夢の中に落ちる前に最後に見た光景。
それは、自分と全く同じ顔で微笑む少女の姿だった。
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