第12話 心の借金

 洋介との通話を終えた後、優香はしばらく机から動かなかった。彼女は、何とも言えない複雑な表情で呆けている。優香にしては珍しく、何も考えていない無の時間が続いていた。

 どうも、複雑な感情が心の中をかき乱していて整理ができない。優香は、それを放置することで自然と整頓されていくのを待っていた。


 そんな彼女を、ピコンと電子の音が呼ぶ。携帯電話の画面に、メッセージの通知が現れる。それを見た優香は眉根を寄せた。


「なに、これ?」


 映し出されたていたのは、普段気持ちを表現するために使われている動物のイラストだ。何が描かれているのかは分かるが、今この時間にそれを送ってくる意味が分からなかった。

 何をそんなに祝っているのだろう、と思う満面の笑みをしたウサギが優香を嘲笑あざわらっているかのようにすら感じてしまったのだ。これも、まだ混沌とした感情が生み出した副産物である。


 その通知は洋介からのものだった。彼の意図を優香がはかっている間に、追加のメッセージが送られたきた。


『ごめん、変なの押した。』


 どうやら、優香があれだけ意味を考えていたのは、ただの誤操作によるものであったようだ。

 ちなみに、先程の文章はなぜか「な」のところで改行されている。その、どこか幼い子どもがすることに似た失敗が可愛らしくて、先程までもやのかかっていた優香の胸はすっと晴れていった。


 しかし、続けて送られてきた一文を見て、再び優香の感情に雲がかかる。それを吹き飛ばそうと、彼女は息を吐いた。その溜息の持つ意味は感嘆とも、呆れとも判断がつかない。

「澤田くん、本気でここまで来るつもりなんだ」

 洋介は短い言葉で、到着する予定の時刻を告げていた。今度は要件だけのメモのような味気なさだ。


「あの人は時々、妙な行動力を発揮するのよね」

 普段はじれったくなるほどに慎重なくせに、一度行動に移すと全く躊躇ちゅうちょがないのが澤田洋介という少年だ。特に、自分が苦労することとか大変なこととかは足枷あしかせにならない。止まるとしたら、他の人の不利益になるかもしれないと洋介自身が思ったときだろう。


 それに加えて、こと妖精に関しては執着とも言える感情を表に出すことも優香は知っている。あまり興味関心といった情動にとぼしい彼が、最近熱心に読んでいる本の内容も聞いたことがある。

 桔梗のことを聞いてからは、彼の妖精に関する態度は、かなり内面から刻み込まれたものだということを優香は理解した。彼という今現在の人格の根底にあるもので、決して他者が変容させることのできないものだ。


 だから、であろう。優香の複雑な心境の多くを占めるのは「そんな洋介の純粋な想いを利用したのではないか」という感情であった。


 もう少し、しっかりと考えていれば洋介がこういう行動をとるって予測できたのに。彼が、リィルくんのことを知ったら、絶対看過かんかできない人間だということを分かってるのに。


 これでは彼に重荷を背負わせてしまったのではないか。優香はそんな風に後悔の念を抱いていた。


 一年前、今もあまり変わっていないが優香はあまりにも周りが見えていなかった。自分の信じる道を邁進まいしんするあまり、大事なものを置き去りにしてしまっていた。

 それを、大切に拾い上げてくれたのが洋介だ。


 その時から、優香は洋介に恩義を感じている。それを返さなければいけないと、ずっと思っているのだが、なかなか機会が訪れない。それどころか、自分の知らない間に再び彼に助けてもらっていたこともある。

 しかも、今回のように意識的にも無意識的にも、己の心のどこかに洋介のことを頼っている自分がいることを優香は自覚していた。


 これでは、さらに返さなければならないものが増えるばかりではないか。時間が経てば経つほど、心の借金はふくれ上がっていく。


 優香は軽い頭痛を覚えて、頭を抱える。

「これでは依存よ」

 あまり考えずに思いついた言葉を口にしてみたが、それほど的を外していないように優香は思った。

 そんな関係は望んでいない。それならどんな関係を望んでいるのか、と問われると彼女には何も答えられないのだが。


 自分の感情に答えを得ていない。複雑な心境になるのは仕方のないことであった。


 間違いないのは対等でいたいということだ。優香は、客観的には事実でなくとも、彼女自身は洋介にとても助けられていると思っている。今度は自分が彼を助けることができた、そう思えないと少なくとも彼と対等であると優香は思えない。


 しかし、毎度意気込んで洋介と接している優香であるが、いつもうまくいかない。気づけば優香は洋介に「与えた」ものより彼から「与えられた」ものが多くなってしまう。


 その要因の一つは、優香が洋介に対しては正の感情が生まれやすくなっていることである。


 今回も、これほど悩んだ話なのに、ある事実を思い浮かべると心がふわりと軽くなってしまうのだ。

「そっか。明日、澤田くんに会えるのね」

 思わず、優香の顔に笑みが浮かぶ。


 色々と思うことはあるものの、とにかく、洋介に会えるのだ。その喜びが、優香に生じた他の負の感情を洗い流してしまっていた。



 次の日の昼過ぎ。太陽が頂点から、徐々に降り始めていた頃。


 優香は落ち着きのない様子で、海岸沿いを走る路線バスを待っていた。開けた視界だ、見逃すことはおそらくない。それなのに、優香は遠くの方へと目をらしている。気を緩めることなく、休むことなく、その場で待ち構えていた。


 かたわらにリィルの姿はない。

 彼は朝早くから、一人でロォルを探しに行っていた。一緒に行こうとした優香をリィルは制した。


――ねぇさんは、ねぇさんのかぁさんと一緒にいなよ。何か、寂しそうだったしさ。


 今日は調子が良さそうな優香の母親を見て、リィルは優香に提案した。それまで、自分でできる限り、ロォルのいる場所の目星をつけてくるというのだ。

 血縁者を探しているリィルだからこそ、家族と過ごすべきだという言葉には説得力がある。甘んじて、その提案を優香は受け入れることにした。


 そして、午前中。騒げるだけ騒いだ母が、体を休める為に部屋に戻ったところに洋介からバスに乗ったという連絡を受けて、優香はこのバス停までやってきたのだ。


(澤田くんのことが昼頃に着くことは伝えてあるから、そろそろリィルくんも戻ってくると思うけど)


 一番良いのは、この時間の間でリィルがロォルを見つけてきてくれることだ。そうなれば、今後のうれいなく、洋介に二人を会わせることができる。

 それが、最も洋介を喜ばせることのできる状況ではないかと優香は考えていた。


 しかし、希望的観測にもほどがあるので実際は難しいだろう。そんなに簡単に見つかるのであれば、昨日の時点で何かしらの手がかりくらいは得ているはずだ。優香は手応えすら感じていない。


「ちょっとでいいから、リィルくんがなにか見つけてきてくれるといいのだけれども」

 もし新たな情報をリィルが仕入れてきてくれれば、それだけで新たな展開が望める。


 しかし、そうなったら洋介は手を貸したがるだろう。会いたいだけ、と言う言葉が本心だとしても、それだけで終わるはずがないのが洋介だと優香は考えている。

 これ以上、彼に借りを作るのは悔しいと優香は思うのだ。どうしても、負けず嫌いの本性が顔を覗かせる。論理的に展開させようとしている優香の思考を、ちょいちょいと突っついてくる。


(実際に手詰まりだったのだから、それは認めなさい。もし、澤田くんが介入してくるのなら、素直に受け入れること)


 自身の精神安定の為に、自らをさとす優香。幾分いくぶんか、気持ちが楽になった。洋介の登場で事態が動くのであれば、優香も肩の荷が下りる。

 そして、もちろんのことだが、それはリィルにとっても最善なのだ。


 優香の中で一応の結論が出た頃、視線の先に待っていたものの姿があった。

「あっ」

 バスが来た。先程メールをもらったタイミングを考えれば、あれに間違いない。


 優香はなぜか、高鳴る胸の存在を感じながら、じっとバスが来るのを待っていた。

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