第37話 背負わせたもの

(何か静かになったな)


 洋介に抱えられた直後は、ずっと慌てふためいていたロォルが、今度は長いこと黙り込んでいる。どうやら、何かを考え込んでいる様子だ。表情はよく分からないので、考え込んでいる、というのは洋介の想像である。


 そんな彼女を、洋介は内心冷や汗をかきながらチラチラと見ていた。大人しくしてくれることには助かっているが、何も不満を言われないというのも不安になってくる。

(気にしない、気にしない。あの感じだと、嫌なことはハッキリ言ってくるだろうし)

 洋介は騒いでいた時のロォルを思い出して、一旦不安を心の中に閉じ込めた。とりあえず、ロォルが口を開いていないのは意見がないということだと信じて、洋介は足を進める。不満があれば、すぐに伝えてくるだろう。


 そんなことを洋介が考えている間に、ようやく、一階に下りる階段のところまで戻ってきた。さぁ、行こうとした洋介の眉が中央に寄った。


「あれ、こんな急だったかな」


 昇る時には気がはやっていたから気づかなかったが、一段一段が洋介の知っている階段より高い。そのせいで、上から見るとまるで斜面のように感じる。その角度は、見下ろしている洋介が恐怖を覚えるほどだ。

 踊り場には窓が無く、電気が点いているのに薄暗い。それも、洋介に恐ろしいという印象を与えてくる。


 その拍車のかかった恐怖に、洋介の足は止まる。順調に進んでいた洋介が動かなくなったことに気づいて、ロォルの長考もそこで止まった。

「どうしました?」

 ロォルが洋介を気遣って、チラリと上を見上げる。洋介は、そんなロォルの呼びかけで思考を持ち直すと、彼女に微笑みかけた。


 肺に吸い込んだ空気を、一気にふぅと大きく洋介は外に吐き出す。

「大丈夫、大丈夫」

 恐怖を感じるのは、おそらく心理的な要因も多分にあるだろうことを洋介は気づいている。実際、深呼吸してから見る階段はさっきより格段に明るくなっていた。これなら、いつもと同じくらいである。


(こんなだと、絶叫マシンなんかには絶対に乗れないな)

 洋介は自嘲じちょう気味に笑うと、ロォルを抱えた腕に力を入れて、一歩を踏み出した。


 洋介は、いつからか、落ちる可能性があると考えてしまうと萎縮いしゅくする自分の体を自覚するようになった。

(いや、いつってのはハッキリしてるよ)

 そう、こうなったのは、あの日・・・以降だ。洋介が、命の危機を感じるほどの高さから落とされた、あの日・・・


 そして、そんな恐怖からすくい上げてくれるのも、同じ日に見た七色の光なのだ。


 そもそも命が残ったことも、あまり大きなトラウマにならなかったことも、全て彼女のおかげだ。記憶に輝く、虹色のはねが洋介の心を支えている。


 しかし。

 どれだけ、心が支えられようとも。


「ん?」

 物理的に揺さぶられたのでは、洋介にはどうしようもない。


 一歩、洋介が足を下ろそうとした瞬間、強烈な横揺れが彼の体を揺さぶった。


「うわっ」

 地震だ。


 それほど大きくはないが、立っているのには力が必要なほどである。揺れは容赦なく、洋介の重心をずらした。さらに視界が揺れるせいで、洋介の目測が誤ってしまう。

 本来であれば次の段を踏みしめるべき右足を洋介は踏み外す。安定感を失い、ずれた重心が導くままに外へ外へと体が流れていく。そのまま、洋介の体は重力に引っ張られていく。


(あ、マズイ)

 洋介はとっさに、抱えたロォルを離さないように握りしめる。無意識が起こした行動だ。体をまるめたまま、彼の体は地面に向かって落ちていく。



 洋介の視界はぐるりと大きく回って、そこで暗転した。洋介が覚えているのはそこまで。ほんの少し、連続した記憶は途絶えている。



「ようすけさん、ようすけさんっ!」

 次に繋がっていた記憶は、必死なロォルの声に意識が表層まで持ち上げられた時だ。


「んっ」

 目を開くと、洋介の視界に冷たい床が映る。そこにペタペタと走り回る足が見えた。

「ロォル?」

 洋介の口から、とっさに出てきた彼女の名前に反応して、ロォルは足を止めて洋介の顔を覗き込んだ。


「良かった、目が覚められたんですねっ!」

 心の底から喜びの声をあげるロォルを見て、まだはっきりとしない記憶のままで洋介は自分の今の状態を考える。どうやら気を失っていたらしいことだけは分かった。


「あ、そんなすぐに起きたら。頭をうっているかもしれないのにっ!」

 洋介が体を起き上がらせようとすると、ロォルは焦った様子でピョンピョンと跳ねて彼を制しようとする。ロォルの跳躍はは全く地面から離れていなかったが、洋介の意思を繋ぎ止めるのには成功した。


「ありがと。そうだな、焦っちゃダメか」

 脳震盪を起こした旧友の話を思い出して、洋介は動きを止めた。確かに気絶していたのなら、その可能性もある。

 もう一度、冷静になって洋介は自分の体のことを考えてみた。


 背中と右足に痛みがある。特に腰が痛い。前にも似たような痛みを感じたことがあるが、痛打しすぎではないか。この年齢で腰痛持ちになったらどうしよう。いやいや、そうじゃない。頭を考えろ。特に痛みはないし、脳が揺さぶられたような感じもない。そもそも、しっかりと考えられてるじゃないか。


(たぶん、落ちたことで飛んだな)

 どうやら、落下する衝撃で、あの時のことを思い出さないように洋介の脳が勝手に電源を切ったようである。自身の体なのにままならないものだと、洋介は嘆息した。


「うん、大丈夫。急ごう」

 洋介は自己判断で、もう一度立ち上がろうとする。だが。

「いっ」

 起き上がろうと、右足を地面についた瞬間、洋介の脳にまで一気に痛烈な刺激が駆け上った。その右足にこれ以上重みをかけることができずに、思わず、洋介は尻もちをつく。


「な、なんだ」


 自分の体重をかけたことで、洋介の右足は悲鳴をあげていた。じんじんと、足首周りが逐一痛みを脳に送ってくる。

「……捻った?」

 動くから折れてはいないだろう。しかし、洋介の感じた痛みは再び立ち上がるのを思いとどまらせるくらいには強烈だった。


 そんな洋介の様子を見て、ロォルは体を震え上がらせた。


(また、また、わたしのせいで……)

 地震が起きた時、洋介がロォルを守ろうと抱きかかえてくれたことを彼女は知っている。それは奇しくも、同じく地震によってリィルといた島が消滅した時に、彼がロォルを庇って体を痛めた時と同じ構図であった。


(どうして、どうして)


 リィルが仲間を助けようと苦心している時、ロォルは何も出来なかった。

 そして今、初めて会ったというのに、洋介はロォルを優先して自分の体を傷つけた。幸運にも洋介は息をしているが、命を失っていたかもしれない。


 それも全て、自分が元の体に戻れなかったせいで、優しき者に代わりに背負わせてしまった痛み。その事実が、ロォルを全力で殴りつけてくる。


 その自分に向けた怒りがロォルの全身に燃え広がった時。

「なんで、なんで」

 ロォルの中で凍っていた何かが溶け出すと同時に、抑えきれない想いが口から溢れ出ようとする。


「ん?」

 洋介がロォルの様子がおかしいことに気づいたのは、彼女が叫びだす瞬間であった。


「なんで、わたしはっ、化身が解けないのっ!!」


 たかぶった感情を天井に向けてぶつけるロォル。

「ぶわっ」

 彼女の声と共に発せられた氷の粒が洋介の顔を襲う。ピチピチと洋介の頬や額を叩いていく氷達。それほど痛くはないのだが、量が量なので洋介は目を開けることができない。


(あれ、前にもこんなことあったな)


 洋介のまぶたの裏に映ったのは、化身したリィルの手触りを確かめていた時の景色。あの時、リィルが元に戻ろうとした時も、同じように洋介は氷を顔に浴びていなかったか。


(ちょっと待って。それじゃあ、もしかして)

 氷の襲来が収まってから、洋介はゆっくりと目を開いた。


「あっ」

 洋介は息を飲んだ。しかし、彼の驚きよりも、張本人である彼女の驚きの方が大きかった。


「……」


 洋介の目の前にいたのは、白い髪をした少女。彼女は無言のまま、その黒い目を真ん丸にして、自分の掌をじっと見つめていた。

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