第26話 暗き檻の中で

 洋介は全速力で学校の門を駆け抜けていった。


「さすがに一時間目は間に合わなかったか」

 校舎に付けられた大きな時計を見ると、すでに九時を回っている。洋介は大きく息を吐いた。


 全力で走ってきたせいで、ドキドキと血液を送る心臓に痛みを感じる。少しは体を鍛えたほうがいいか、と洋介は荒れた呼吸に翻弄されつつ思っていた。


 今朝は昨日慣れない勉強をしてみた疲れなのか、目覚ましが鳴っても目が覚めなかった。

 一応起こしてくれた母親曰く、「大丈夫って返事をしたから様子を見てた」そうだ。


 ああ、自分はなんと信頼されていることだろう。洋介は母の顔を思い出して苦笑いを浮かべた。


 そんな、初めて寝坊で遅刻したことを除けば、いつもの朝。

 その違和感に、初めて気がついたのは彼が靴を脱ごうとしている時だった。


「ん?」


 洋介は妙な空気が自分を通り過ぎていったのを感じた。その気配を追って落としていた視線を上げて振り返る。

 そこにはもちろん誰もいない。一時間目に体育の学級がないのか、校庭にも人影はない。


 ただ、朝だというのに陽の光が若干弱いことが引っかかった。さきほどまで感じていた眩しさを、今は感じない。


 気になりだすと止まらなくなってくる。急いで教室に向かわなければいけないはずなのに、足が動かない。

「なんだろ」

 先程まで焦っていた気持ちが急に冷えていくのを感じる。何か不穏な予感が脳を支配していく。

 こういう感覚になった時はいつもいいことはないのに、と洋介は顔をしかめた。


 そうして、しばらく立ち尽くしていた洋介は「あっ」と声を出した。光量の他に更に一点、相当おかしなことに気づいてしまったのだ。

 自身の疑念を晴らすために耳を澄ます。しかし、予想どおり、その耳に届く音は一つもない。


「マジかよ。勘弁してくれって」

 洋介は頭を抱えた。言葉使いが荒くなっている。


 周囲の人の表情を気にするようになってから柔らかい言い回しをするようになったが、ふいに口から乱暴な物言いが飛び出てくる時がある。そんな時は総じて、自分に余裕がなくなっているときであることを洋介は自覚していた。

 気分が悪くなってきて、天井を見上げる。いつもと変わりのないコンクリートが、今日はやけに冷たく感じた。


「授業、始まってるんじゃないの。何で、こんなに静かなのさ」

 誰もいなくなった世界で、洋介一人取り残されているかのようだ。校舎は廃墟のように静まり返っている。


 逃げ出したくなったが、それも気分が悪い。

「様子だけ、確認しないと」

 見知った景色なのに、異世界のように感じる学校の中へ、洋介は恐る恐る足を踏み入れていった。



 何が起こっているのか、洋介には見当もつかない。それでも、確実に異変が起きていることだけはすぐに分かった。


 どの部屋も、まるで時が止まったかのように固まっている。そこにいる人は皆が薄い寝息とともに、深い眠りについていた。

 眠っているというより気を失っている方が近いだろう。試しに黒板近くで倒れていた教師を揺すってみたが、何も反応を返してくれない。


 どんどんと気分が重くなってくる。


 自分の知っている人はどうなってしまったのだろうか、それが気になって洋介は三階にある自分の教室を目指している。しかし、覗く部屋全てに生の息吹を感じないものだから、洋介の歩幅は徐々に狭くなってきていた。

「誰か、一人でもいたら違うのに」

 もしかしたら誰か起きているかと希望を抱いて部屋を見てみるも、そこにあるのは絶望だけ。

 孤独な状態の心に襲いかかる恐怖。洋介の心はずっと耐えていたが、ついに負けてしまった。階段を昇っている途中でその足は止まってしまう。


「あー、まずいなぁ」


 一旦考えを整理しようと、洋介は踊り場で壁に体を預けた。

 思い出されるのは優香の父も巻き込まれた集団昏睡。皆の症状は、彼女から聞いた父親の状況とよく似ている。

 しかし、違うのは規模。おそらく学校全体が同じような状況になっているだろう。平気に歩き回っている人は自分だけなのだろうと、洋介は覚悟した。


 覚悟を決めると、見えてくるものがある。


(あれ、何で僕は平気なんだ?)


 息苦しさを感じるが、これは周囲の状況から感じる心理的なものだと分かる。ガスが漏れているのなら、こういう風に考える暇だってないだろう。


 他の人と自分が違うこと。それは何か。


「澤田くんっ」


 洋介の思考は頭上から降ってきた声で途切れた。はっとした顔で見上げれば、上の階に優香の姿があった。


「よかった、澤田くんは平気なんだ」

 安堵の表情を浮かべるも、彼女の顔は辛そうに歪んでいる。そうとう無理してここまでやってきたのだろう、手すりに捕まって今にも力尽きそうな様子だ。


「井上さん、他のみんなは?」

 洋介は壁から体を離すと、優香に問いかけた。彼女はゆっくりと首を横に降る。

「ううん、動けるのは私だけ」

「そっか。僕も見てきた限りは誰も動けそうな人はいなかったよ」


 一歩ずつ階段を降りてくる優香。だんだんと二人の距離が縮まってくる。

 しかし、優香の足は階段の途中でピタリと止まった。


「ねぇ、澤田くん」

「なに?」

 洋介は、その場から動かずに優香の方をじっと見ていた。そんな彼に、優香はにこりと微笑んで言った。


「なんで私から、逃げようとしているのかしら?」

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