第20話 海に棲まう者

「ん」


 最初に感じたのは小さな違和感だった。パチっと、目の近くに何かがぶつかった感触があって洋介は顔をしかめる。


「冷たっ!?」

 それが何だろうと考える暇もなく、すぐに多量の冷たい粒が洋介の頬を叩いていく。それは細かく砕けた氷だった。その猛襲が弱まった時、洋介は顔を向けた。


 いったい、こんなものはどこから飛んできたのか。洋介は、それが飛んできた先を視界におさめる。


「あっ」


 瞬間、息を飲んだ。


 そこは、先程までリィルが魚を食べていたところだ。それなのに、彼の姿はない。食べようと思って取り出してあったのか、アジが一尾袋の外に寝転がっている。


「……あれ、なに?」

 洋介と同じように、その光景を見た優香はとりつくろうことのない声を出していた。


 リィルの代わりに、黒と白のずんぐりとした存在がそこにいた。

 顔の先にはつやのあるくちばしが太陽の光を反射して黒く光っている。それがついた頭には特徴的な大きな白い斑点があった。ぷっくりと膨らんだお腹も白く、船のオールのようになっている短い腕をパタパタと動かしている。


(これってさぁ)

 洋介の頭にある動物の名前が浮かぶ。そう、彼の目の前に鎮座しているその姿はまるで――。


「あー、ペンギンさんだっ」

「ぶっ」


 近くを通りかかった子どもの声に洋介は吹き出した。自分の頭の中を見透かされたような言葉に、洋介の呆けた意識は一気に覚醒した。


(いやいや、マズイだろ、これって)


 そして、その後の洋介の行動は素早かった。

 真っ直ぐに前に駆け出して、目の前の鳥を脇に抱え込むとそのまま裏路地に向けて走り込んだ。事態がまだ飲み込めていなかった優香達を置いて、洋介は子どもの視界から消え去ることに成功する。


拓哉たくや、おまえ今、何て言った?」

 声をあげたのは、優香がリィルを助けた時に浜にいた親子の子どもの方だった。我が子が突然突拍子もないことで叫んだとあっては父の驚きは計り知れない。しかし、彼はその動揺を隠しつつ、子どもに優しく話しかけている。


「パパ~、さっきね、そこにペンギンさんがいたんだよ」

「おまえ、急に何を……本当に?」

 唐突な子どもの言葉に戸惑っている父親。普段、嘘をつくような子ではないのだろう。信じられない様子は隠してはいないが、彼はキョロキョロと周囲を見回している。念の為、何を見てその言葉を言ったのか確認したかったのだ。


「何もいないぞ、拓哉」

「あれ~、どこいったんだろ」


 しかし、そこにすでにリィルの姿はない。

 何かを見間違えたのだろう、と結論づけて探そうと離れようとする子を肩車して父親は離れていった。


 その声が遠ざかるのを確認して、洋介は大きく息を吐いた。緊張によって固まっていた体が弛緩したことで、急な運動もあって洋介の心臓がバクバクと大きな音を出している。


「ビックリした~、この姿だと他のやつも見えるんだな」

 もぞもぞと洋介の脇で動く鳥。リィルの声が洋介の心に届く。彼は自分の滑らかな羽毛を利用して、滑るように抱えていた洋介の腕から脱出し、洋介の前に飛び出してきた。


「いや、ビックリしたのは僕の方だって。急に何してんの」

 まだ落ち着かない息を何とか抑えながら、洋介は眼前でがぁがぁ言っている黒白の鳥を見ている。


「悪い、悪い。ねぇさんがさ、オレが魚飲み込むの嫌がってるから、こっちの姿なら大丈夫かなって思って」


(うわっ、面白い。鳴き声しか聞こえないのに意味が分かる)

 洋介の、リィルを非難したい気持ちは、興味深い現象への好奇心にかき消されていた。リィルはくちばしを動かして鳴いているだけで、音は本当に鳥のそれにしか聞こえない。それなのに、彼が何を話しているのか、何を言いたがっているのか、洋介には伝わってくるのだ。


「あんまり騒ぐなよ。見えるってことは、音も聞こえるはずなんだから」

「おっと」

 ぐっ、とリィルは力を込めて口を閉じた。


「おまえってさ、もしかして、鳥の群れに混ざって暮らしてたの?」

「あれ、にぃさんに話したことあったっけ? オレの仲間の話」


 さすがに二度目は気を使って、小さな鳴き声をリィルは発している。パクパクと口を動かしているのが腹話術のように洋介は感じる。伝わってくる意思と、実際のくちばしの動きが妙にずれているのだ。

 なんだかおかしくて笑いそうになったが、洋介はぐっとこらえた。


「ううん、初耳だけどね」

 そう、リィルが鳥に混ざって生活していた話など聞いた覚えはない。だから、地上で動物達と一緒に暮らしていたのではないかというのは、ただの推測である。ただ、それを知ると時折見せるリィルの動物的な面が、とてつもなくしっくりときた。


 他に鳥の姿になる利点があるのなら別だ。しかし、洋介には昔、まだ妖精が見えていた人の多かった時代に人の目をごまかす為に化身けしんしていたという理由しか思いつかなかった。リィルの反応を見ると、洋介の推測はそう遠くはないことが分かる。

 理屈は分からないが、目の前にいるのはリィルが海鳥に擬態した姿なのは間違いない。何かの術か、もともと持っていた能力なのか。


 少なくとも、リィルにとっては「もう一つの自分」と言えるくらい馴染なじんだ姿のようだ。ペタペタと、水かきのついた足で難なく歩き回っている。その動きはとてもユーモラスで愛らしいものであったが、体に慣れていないという様子は見せない。


 ようやく落ち着いてきた洋介は、見るからに飛ぶことのできなさそうな丸々とした眼前の海鳥を見やりつつ、先程の子どもの声を思い出す。


(そっか。化けてると、やっぱりみんなに見えるんだ)


 思い出すのは、洋介が関わったある事件のこと。

 その時に遭遇そうぐうした闇妖精は、自分の姿を人間に変えて、洋介と接触する前に多数の人間から力を奪っていったと聞く。

 全てが終わった後に聞いた話だ。優香の父も巻き込まれたのだが、その時に彼女の姿を視認していたらしい。


 洋介は近寄ってきたリィルの頭をペタペタと触る。水を弾く硬い羽毛が詰まっていて、つるつるとした感触だ。水はけは良さそうだし、見るからに分厚くて防寒もバッチリに思える。

 なぜ触られているのか理解できないリィルは、身動きをとらず、洋介にされるがままになっていた。しかし、考え事をしながら手を動かす洋介の動作が大きくなってくると、さすがに嫌がって首を振る。


「に、にぃさん。頭はいいけどさ、それは目に手が当たるっ」

「あっ、ごめん」


 パッ、と手を離した洋介はその手に残る感触で確信を得ていた。


(うん、触ったこと無いけど本物っぽい感じだな。体温も、少しだけど伝わってくるし。そんな風に、体そのものを変えてるから、みんなにも見えるんだな)


 一見すると、海鳥と遊んでいるかのようなたわむれをしていたから洋介は気づかなかった。彼の背後まで人影が迫っていたことを。


「!?」

 慌てて振り返るも、その姿を見た洋介は安堵の息を吐く。そこにいたのは、親子が立ち去ったのを確認してから近寄ってきた優香であった。


 優香はリィルの姿をまじまじと見つめた後に、右のこめかみを指で叩き出した。その真剣な空気は、後ろで様子を伺っていたライツが思わず後方に下がってしまうほどだ。洋介も何も口を出せない雰囲気で、しばらく緊迫した空気が場を支配する。


 色々と思考をした後に、彼女の口が開いた。


「ねぇ、リィルくん。一つ、確認していいかしら?」

 彼女の顔は険しかったが、実は内心、心が沸き立つほどの興奮を覚えていた。その問いにリィルがどう答えるかによって、道が大きく開けそうな予感が優香にはしていたからだ。

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