第29話 世界の終わり

「ああ、あれか。最期の個体は、標本にするために絞め殺されたんだったっけ。希少だから、値段がとてつもないことになっていて」

「そうそう。いなくなりそうだから保護する、じゃなくて今のうちに獲っておこう、みたいな。当時はみんな、そんな感じだったみたいだな。アメリカの渡り鳥とかも、似たような状況で絶滅してる。きっと、無限にいると思いこんでたんだろ」


 リィルの耳には、すでに男達の会話は別の世界の出来事のように聞こえている。どんどん、声は遠ざかり、同時に思考が冷たくなっていく。


 内面から溢れ出てきそうな熱い怒りで、体が溶けないように。熱射のごとく降り注いでくる悲しみに、心が悶え苦しまないように。

 リィルの頭が熱で支配されそうになるのと比例して、全身が氷で覆われていくような錯覚を彼は覚えていた。


 しかし、それは錯覚ではない。リィルの本能は、彼を護るために力を発揮しているのだ。


「……」

 リィルは表情を凍りつかせたまま、机の上の写真を一瞥いちべつした。途端に、過去の記憶が彼の正常な思考を洗い流すかのごとく、頭の中に渦巻いていった。

 まだ、仲間達と平穏に暮らしていた時。そして、彼のそんな世界が終わりを迎えた時を。



 リィルが、その写真の彼と最後に会ったのは人間にとっては記録でしか知ることのできない昔々の話である。


「……まいったなぁ」


 リィルは岩肌に寝っ転がって空を見上げていた。リィルの心とは裏腹に、空は青く青くどこまでも澄み渡っている。

「人間って、何考えてんだろ」

 ここ最近、リィルは人里に降りていない。仲間達が産卵期に入ったために、一緒に繁殖地にやってきていたからだ。


 ここは、海から顔を出した大きな岩のような島である。崖の上にかろうじて平たい場所があるような険しさは、人間の上陸を許さない。今の人間が持っている技術では近寄ることすら容易ではないだろう。

 そんなところでも、仲間達は短い足を器用に使って崖を登ってくる。生まれた子供達に獲ってきた魚をあげるためだ。育ち盛りの子らがお腹をすかして待っている。


 ここなら人間と遭遇そうぐうすることはないだろう。

「ふぅ」

 ちょっと前まで人里に遊びに行っていたリィルは、人間と会わないことに自分が安堵しているのに気づいて、呆れともとれる溜息をついた。


「他の集落コロニーがなくなってる、って話。本当かなぁ」


 風の噂に聞いたのは、大きな船にのった人間が仲間と同種の鳥を狩り尽くしているというものだ。

「あいつら、食いごたえありそうだもんな」

 リィルはよちよちと歩いてくる仲間の、ぽってりとした大きな腹を見て、人間の食生活を思い出していた。あの腹に、肉も脂も充実しているのは間違いないだろう。


 そして、人間の体格と知恵という要素を考え、リィルが獲っている動きの素早い魚と比べれば、簡単に捕まえることができるだろうということも、すぐに想像できてしまう。

 ローリスク、ハイリターン。人間にとっては、とても狩りやすい格好の獲物だ。そういう視点で見ると、リィルはそうとしか思えなくなった。


「とはいえ、やられるままにはできないし」

 他の集落は正直知らないが、自分が行動を共にしている集落だけは守らなければとリィルは思う。動物達と一緒に暮らすのが氷妖精族の本懐ほんかい。そうやって、同族は生き延びてきたのだ。

 中にはあざらしと生活を共にしていた親戚が、人間の身勝手な狩りに激怒して村を一つ滅ぼしたと聞く。それは決して、特殊な個体の話ではない。それぐらいの力は、リィルも生まれつき持っているのだ。


 それでも、リィルはいざという時に実践できる自信はない。

「できんのかな、オレに」


 リィルの母は言っていた。元来、同族は生きるために力を使うことは得意だが、生き残るために力を使うのは不得手なのだと。

 そのため、一種の保安策セキュリティとして彼の本能にも防衛のための機能が備わっているというのだ。


「できるなら、使いたくないよな」


 このまま穏やかな時を過ごしていたい。後腐れなく、人間の町に遊びに行きたい。


 しかし、リィルのその願いは唐突に打ち破られることになるのだ。


「ん?」

 ぺたぺたと誰かが近寄ってくる音がする。ロォルかと思って、リィルは体を持ち上げる。


「なんだ、おまえか」

 そこにはロォルではなく、仲間の一羽が彼の顔を見上げていた。リィルが母親から離れ、この集落にやってきた時から知っている顔だ。

 その時は、まだ生まれたばかりのひなであったが今では立派な成鳥である。


 そんな彼の後ろに、まだ羽毛がフワフワとしている小さな姿があった。挙動不審な様子で彼の背中に隠れている。

「え、なに。おまえ、親になったの?」

 リィルが嬉しそうに笑うと、彼は満足気に鳴いていた。


「そっかぁ、オレも早く嫁さん探さないと」

 リィルの言葉を聞いて、彼はまた鳴く。そんなことを言いながら、全く本気で動いていないではないかと彼は言っていた。

 痛いところをつかれたリィルは頭をかく。


「う~ん、こっちだって順番とか色々考えてるんだから。そんなこと言うなよ」


 そこで間髪入れずに彼は鳴く。


 ――ロォルのことだったら俺達と一緒に暮らしていればいい。いつか元に戻るだろう。


 リィルには、そんな意思が彼から伝わってきた。


「……おまえが本気でそう言ってるとは思えないけど、ありがと」


 リィルが読み取っている仲間の意思は、リィルが勝手に彼等の思考を翻訳しているようなものだから、多分にリィル自身の意思が混ざってくる。きっと、リィルの心のどこかにある、全てを放り出したいという願望と、ロォルを仲間だと思ってくれている鳥達の意識が混ざって、そのような言葉にリィルには聞こえてきたのだろう。


 何て、都合のいい話だ。リィルは、断固とした決意を込めて口に出した。

「それでも、オレはロォルが元の姿に戻れるまでは一緒にいるんだ」

 自分のせいで、擬態ぎたいが解けなくなった。氷妖精として、今は生きることのできない妹を、リィルは護ってあげなければいけないんだと目を輝かせる。


 その表情を見て、そんな声を聞いて、それなら仕方ないなと彼は鳴くとリィルの側から離れていった。子どもが、慌てて父親の後ろにくっついていく。

 リィルは、その黒い背中を微笑みながら見送っていた。


「おにぃちゃん」

「ん?」

 今度こそロォルだ。リィルは近寄ってきた影に振り返る。


「……どうした?」

 リィルの笑みはすぐに凍りついた。


 仲間達と同じ姿をしているロォル。そんな彼女が、小刻みに震えていた。元の姿であれば、顔は青ざめていることだろう。

 何かを怖がっていることは明白だった。そう、リィルが彼女を海に落としてしまって何とか助けた時に、ロォルは同じ感情を表に出していたのだ。


 自分ではどうしようもできない恐怖。リィルは感じることができないが、ロォルはそれに怯えていた。


「おにぃちゃん、何か怖いのが来るよ」

 彼女にしてはとても幼稚な言葉、幼い頃に戻ったかのような一言にリィルの背筋に冷たいものが走る。


 その瞬間、世界は大きく跳ね上がった。

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