第103話 海

着替えを済ませてリトを叩き起こして、そしてせっかく着た服は全部やり直しになって、やっと今、扉に手が掛かった。

「市場には遅いかもしれねえけど、食いもんはあるだろ。朝飯も外で食うか! 暑いから水筒は持っていけよ? 忘れ物はねえか?」

自分だけ食事をすませたペンタは、満足したように定位置へくっついている。

ちゃんと木剣は腰に、小さい収納袋と水筒も下げてある。

これで忘れ物はないはずだ。


とにかく外に出たい私は、何度も頷いてリトの尻を押した。

「え? 何? どこ行く感じ? ファエルは?」

「……」

ベッドの方から聞こえた声に、そういえば……と振り返る。

「何その間?! まさかのまさかだけど、師匠を忘れて出かけようなんて思ってないよね?!」

泣きそうな顔で飛んできたファエルが、ぺたんと肩に着地して腰掛けた。

「絶対置いていかないように! 我、結構軽率に食べられたりするから!」


ファエルは、とりあえず飛べるようにはなった。

ただ『持続し続けた冬眠魔法で魔力スッカラカン』だそうで、魔法を使うには、もっとコツコツ魔力を貯めていかないといけないそう。

まあ、あの威力の魔法なら別にいらないけれど。

扉が開ききるのを待ちきれず、リトの長い足の間を抜けようとして、身体が浮いた。

「りゅー、抱っこない! 自分で歩く!」

「無理。速攻で行方不明になるの確定だろ。つうか、ここから海までそこそこあるぞ? 記録館の近くがいいっつうから。お前が歩いて行くなら結構な時間がかかっちまうな~」

やれやれと言いたげに肩をすくめ、リトが私を下ろそうと屈んだ。


咄嗟にがしりと両手足でリトを捕まえ、下ろされまいと抵抗する。

「りゅー、抱っこでもいい」

「そうかよ」

くつくつ笑ったリトが、背筋を伸ばして私を揺すり上げる。

ぐんと高くなった目線と、近くなった天井。ここなら、海も早く見えるし町もよく見えるに違いない。何せ、私が歩くと視界は足と尻ばかりだから。

白い壁面と、水色の床。方々に設けられた大きな窓から、朝の光がこれでもかと入り込んで眩しいくらい。

パンの焼ける匂いが漂ってきて、思い出したように腹が鳴った。

ついでに、ファエルの腹も鳴った。カエルも、腹が鳴るのか。


「……食ってから行くか?」

私は、見えてきた外への扉と、食堂を兼ねているフロアを見比べて逡巡した。

「分かった分かった……パンだけもらう」

厨房に声をかけたリトに、愛想良く笑った男性が何かを包んで寄越した。

「ぼっちゃん、焼きたてだ。気ぃつけて食いな!」

なぜか私の方へ向いてそう言うから、ひとまずこくりと頷いた。

「りと、ぱん!」

無造作に紙で包まれたそれから、甘く香ばしい香りが漏れてたまらない。

だけど、伸ばした私の手から、パンの包みが逃げて遠ざかった。

「まだ熱いぞ」

「大丈夫!」

「何が大丈夫なんだ、何が……」


ブツブツ言いながら長い足は扉へ歩を進め、その手はパンの包みを開く。

私は、パンと扉と、視線を行き来させて非常に忙しい。どっちももうすぐだ。

「ほらよ」

小さくちぎったパンを私の口へ入れ、その手がそのままドアノブにかかる。

眩しい、甘い、温かい、柔らかい、いい匂い。

忙しい、すごく忙しい。

身体に負荷をかけすぎじゃないだろうか。クラッシュしたりしないのだろうか。


急いで飲み込んで、目を瞬いて。

貪るように視覚情報を取り込んで、私はほう、と息を吐いた。

「ちやう町……」

「そうだな、ちょっと雰囲気が違って面白いだろ?」

この辺りの石材は白っぽいらしい。街道こそ灰色になっているものの、建物はどれも白く眩しい。そして、道が真っ直ぐではない。

大きく波打ちながら下って、そして……

「りと、うみ」

「ああ、海だな」

小さい指が指した先に、大きく大きく光る面。ぴたりと区切られて、その先は光以外に何もなくなっている。


本当に、広いのだな。

知っていた。だけど、すごい。

小高いこの場所から見下ろす海は、世界の果てに相応しい光景だと思った。



坂を下りるにつれ、海が段々と見えなくなっていく。近付いているはずなのに、見えなくなる。

段々と伸び上がっていた私は、ついに力尽きてリトの腕の中に収まった。

「やっと諦めたか。もう持てるだろ、これでも食ってろ」

呆れたように笑ったリトが、パンの包みを私の胸の上に置いた。

「そうとも、我のように大人しく座ってパンでも食ってろ」

身体の半分ほどもありそうな欠片を抱えていたファエルは、澄ました顔でそんなことを言う。


むっとしながら包みを開けると、パンと、熱せられた紙の匂いがする。

私の握りこぶしほどのパンは、掴むとへしゃりと潰れた。小さな手が、ぬくぬく温かい。

「食ってると静かだな」

リトのからだがふつふつ揺れる。のしのし歩く大きな揺れと、泡のような小さな揺れを感じながら、私は口の中で甘くなっていくパンを大事に味わっていた。



坂道を下りて、街道がほとんど平らになったころ。ふいに、妙なことに気がついて眉をひそめた。

「りと、何のによい?」

パンの良い香りがなくなって、代わりに鼻をつく異臭。

せっかく甘かった口の中が苦くなってくるような、何とも言えない不快なニオイ。

思わず水筒を取り出してひとくち含むと、リトが面白そうな顔をしている。

「どんなニオイだ? いいニオイか?」

「いいによいない。ぺってするようなによい」

盛大に顔を顰めて伝えると、大きな口で笑われた。

「食うな食うな、そりゃ食い物にしちゃ生臭いか。けど、魚も似たようなニオイだけどな? これが、海の香りってヤツだ。磯の香り、なんて割といいように言うもんだけどな」


これが、磯の香り?

私は疑り深くリトを見つめた。

私の知識の中で、磯の香りはいい匂いだと思う。海産物に舌鼓を打つ時など、そう表現するではないか。

まさか、甘い香りだとは思っていなかったけれど、だけどお肉やスープのようにいい香りであるはずだ。

「りとは、美味しいによい?」

「んー美味そうとはあんまり思わねえけど、懐かしい、って感じるな。別に海辺が故郷なわけでも何でもねえんだけど。これも慣れなのかもな」

すうっと大きく息を吸い込んで、リトは目を細めた。


慣れか……。この眩しい光にも慣れるように、熱い風呂にも慣れるように。だって、明るい外は気持ちが良いし、熱い風呂も心地良い。きっと、そういうものだ。

私もすうっと大きく息を吸い込んで、また水筒の水を含んだのだった。



「りと、りと! りゅーあっちに行く!」

「だろうな……。いいか? 絶対に水が膝を越えねえようにしろ。簡単に溺れるぞ」

水が、大量の大量の水が、一面の水が零れもせずにそこにある。

渾身の力でバタつく私に、リトがため息をついて念を押した。

膝より浅かったら、風呂以下だと思うのだけど。ひとまず頷く私にもう一度盛大にため息を吐いて、リトが屈んだ。

足が着いた途端に走り出し、一歩も進まないうちにスライディングした。

踏ん張った足が、すっぽ抜けるようにずるりと滑ったのだ。


べたりと伏せた頬と手がざらざらする。そして、温かい。

「1歩目かよ! まあ、いい訓練になる。転んでもあんまり痛くねえだろ」

ひょいと助け起こしたリトが、私の顔を見て吹きだし、大きな手で荒っぽく何かを払う。

リトが方々を払うのを尻目に、私はじっと足下を見つめた。

ずむむ、と埋まる小さい足。

細かな粒子が地面になっていて、足下がぐらぐらする。靴の中にいっぱい入った粒子が不快だ。

そうか、これが砂浜……。

私はしばし無心で砂を撫で、手を入れ、握っては落としていたのだった。

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