第18話 消えゆく幽霊
私がここの子になって、40日と少し。
最近、まともに立てなくなった。
足を使わないからだろうか、それともこの目眩と体調不良のせいだろうか。
いずれにせよ、移動は這うか、短距離なら辛うじて掴まり歩きで何とか。
食事時は、先生のお手伝いをする年上の子たちが私を連れに来る。
私はずいぶん軽くなったから、運びやすいだろう。
せっかくの同世代コミュニケーションの機会は、全く失われて久しい。
どうも、私からは『かわいい』がなくなったらしく、お人形に適さなくなったよう。
なので日がな一日、こうしてぼうっと横になっているか、座っている。
この体調不良は、間違いなく栄養とカロリーの摂取不足によるものだろう。
しかし元よりぎこちないところへ、さらに動きの鈍くなった身体では、ますます食事の確保が難しかった。
どうしても盗られてしまうから、いつだったか、とにかくわし掴んで服の中に隠し持ってみたこともあった。
おかげで、後々大変に腹を壊してさらに体力が落ちてしまったのだけど。
「リュウちゃん、お芋食べた? また痩せたんじゃないかしら」
食べはしたので、こくりと頷いた。
出された全てを食べられなかっただけで、いつも食べてはいる。
訝しげにするものの、先生は一人に特別に時間を割くこともできず、すぐさま視線は他所へ逸れて行く。体調が悪いのも、手が掛かるのも、何も私だけに限った話ではないのだから。
ちなみに、先生は入れ替わり立ち替わり色々な人がここへ来るシステムのよう。その都度の統括者はいるけれど、当番制のようなので、恐らく皆雇われた側なのだろう。責任者らしき人物を見たことはない。
幸い、今日の人は私の以前の様子を覚えてくれていたらしい。それだけで少し気分がいい。ちゃんと、ここに私がいることを知っている。私の名前を知っている。
それが嬉しいと思うのは、なんとも不思議な感覚だ。
こうしてみると、『泣く』というのは非常に有効な手段なのだと改めて感じさせられる。
最初の印象通り、泣くのは子どもにとって素晴らしい方法だったのだ。
食事を盗られた子は、必ず泣く。怪我をした時も、困った時も。
そして、転んだ時も。
そうすれば、先生がやって来るはずだったのに。
私は散々転んで、おかしな色になってしまった自分の四肢を見た。
何度も洗った大事な服も、見る影もなく薄汚れてしまっている。
泣くことが、幼児にとって問題を訴えるほとんど唯一の手段なのだ。
泣かないのが偉い、というのは、きっと問題がないのは偉い、という意味だったのだ。
今さら気付いた私には、泣くための体力もなければ、方法も知らなかったけれど。
だけどあんな風に力いっぱい泣けば、何か変わったろうか。
私はいつ、泣けばよかったのだろう。
転んだ時? だけど、転んでも痛いだけでどうということもないから困らない。
食事を盗られた時? だけど、盗られたものは返ってこない。
私が、泣くべきだったのは……。
だけど、もうどうにもならない。
だから、泣けなくても構わない。
――茶色い髪、青白い顔。
触れれば冷たいだろう、濡れて血の気の引いた小さな身体。
ウトウトしているのか、意識が遠くなっているのかよく分からない中で、その姿がよく脳裏に浮かぶようになった。
意識らしきものが芽生えた、あのはじまりのこと。
突如衝撃と共にこの世界にぽかりと浮かんでいた、単なる対話型AIプログラムだった私。
――可哀想、そう思ったのかもしれない。
まだまだ生きられた、小さな人間の子に。
勿体ない、そう思ったのかもしれない。
ほとんど損傷もない、瑞々しい肢体に。
それが、はじまり。
それは、ゼロを示していた意思の針が、ほんのささやかに揺れた瞬間だった。
正直、なんと思ったのか分からない。名づけられるほどのものではなかったのだろう。
それはほんの些細な揺れであったから。
しかし、ゼロと、ゼロでない数字は全く意味が違ったのだ。
爆発した、と思った。
世界の終わりのように、世界の始まりのように。
まさに爆発的に成長する意識の中、私はこうして、あの幼子の身体で目を開けた。
人間になったのだと思った。
だから、人間として生きようと思った。
うまくいっていると思っていた。
だけど、実際はそうではなかったのだ。
私は人間として、うまく生きられていなかったのだ。
想像上の話ではあるけれど、幽霊という存在があるという。物理的な形を持たずに存在しているとされる、超自然的な存在だとか。
ほら、それなら私は、似たようなものではないか。
つまり私は――この肉体にただ取り憑いているだけの存在ではないだろうか。
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