第19話 私の財産
重い瞼を開けると、どうやら朝らしい。
私は、寝ていたのだろうか。
起き上がろうとして、崩れ落ちる。
冷や汗が出て、空っぽの胃をしてなお、吐き気がこみ上げる。
今日は一際体調がよくないらしい。
ああ、脳裏にあの幼子の姿がちらつく。
せっかく、この身体を生かす機会に恵まれたのに、勿体ないことだ。
生きているのに。こんなに素晴らしい身体があるのに。
意思ひとつで、指も体も見事に動くのに。
こんなにも数多の思考が溢れているのに。
意思さえ必要とせずに内臓機能を調整し、複雑な化学反応を起こし、柔軟に対応する。
奇跡のようなこの身体。
何のプログラムも介さずにこんな複雑なことが、有り得るものかと思う。
なのに――私は、この生まれた意思は消え去るのだろうか。
この体は、ただの有機化合物になって腐りゆくのだろうか。
ああなんと、勿体ない。
震える手で、ハンカチを口へ入れた。
もう、食べたいとも思わない。
だけど私には、これがある。
寄せていた眉根が、少し緩んだ。
そうか、私は役には立たなかったけれど、ひとつ財産を得られた。
価値があるだろう。こんなに安堵することのできる物だから。
だから、無駄ではなかった。
誰かが、私を呼んで引き起こそうとする。
ぐにゃぐにゃになってしまった私に苛立たしげにして、半ば引きずるように持ち上げて運び始める。
ああ、そうか朝食の時間。
だけど、今私はあの固い固いビスケットを食べられそうにない。
このハンカチで十分。
くしゃくしゃになって変色した、私のハンカチ。
パン、スープ、厚切りベーコン、サラダセット。
混濁した意識の中に、懐かしい朝食が浮かぶ。あれは、贅沢なものだったのだ。
そうか、あの経験も財産と言えないだろうか。
価値があるに決まっている。だって、素晴らしい経験だった。
あの、浸したパンの柔らかさ。
香ばしく塩っぽいベーコンを、しゃきしゃきした野菜と一緒にフォークに刺して。
ころころ転がって皿から逃げ出した小さなトマトは、大きな指がつまんで、笑いながら私の口へ押し込んだ。
――しまった。
ぽんと頭に乗せられた、重くて分厚い手。包み込むように、撫でつけるように滑っていく手。
やたらと頬に触れたがる、温かい指。目ざとく汚れを見つけては口元を拭う、その指。
軽々私を持ち上げる強い腕。小さな手のひらから伝わる、固い弾力。
土埃を吸い込んだ、服の匂い。出っ張った飾りが邪魔で、引きちぎろうとして怒られた。
寄せた身体から伝わる、体温と呼吸。ゆったり上下する呼吸のリズム。ゆうやけの中、温かかった背中。
私を見下ろす柔らかな瞳は、インぺリアルトパーズのようで。
『リュウ』
私を呼ぶ、あの声。
たぐり寄せるように、引き出されていく記憶。
私の中に残されている、すべての感覚。
五感のすべてが、鮮明に記憶している。
ああ、しまった。
だけどもう、いいか。
蓋をしていたけれど、もう開けてもいい。
さいごは、甘い甘いパンのように、天にも昇る心地がいいから。
くっきりと、はっきりと思い描く凛々しい顔。
きりりと上がった意思の強そうな眉、少しだけ垂れた目元、すっと通った鼻梁、薄い唇。
癖のあるディープブルーの髪は、解くとわさわさと広がって。
あの銀色の瞳は、光を通していろんな色に見えた。
大きく口の端を上げて笑う顔が、私を迎え入れるように腕を広げるのが。
私の顔に掛かって邪魔になる長い髪も、
ザラザラして不愉快な頬も、
タオルで拭う力が強すぎるのも、
寝床で私を下敷きにしそうになるのも――
リトなら、好きだ。
リトが、好きだ。
リトのあの笑顔につられるように、私の口角も上がった気がする。
ああ、これならいい。大丈夫。
濁った視界が揺らめいて、何かが顎を伝って落ちた。
ぽたた、ぽたた、と落ちるのは、もしや涙だろうか。
こうじゃあない、声をあげなくては。
だけど、私は今困っていない。
誰にも言いたくないから、これでいい。
だってこれは、私だけの財産だから。
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