第71話 胸を焼くは希望か絶望か
リトの体から力が抜ける。
真っ白に塗りつぶされた思考の中で、呼吸も、心臓さえも止まったよう。
視覚だけが、その光景を映し続けていた。
止まっているはずの時間は、しかしトカゲには関係ないことで。
仕留めた獲物を口内に
――その時。
ボンッ!!
暗い森を切り裂いて轟いた爆発音。
虚ろな銀の瞳には、閃いたオレンジ色が鮮烈に映し出されていた。
そして、トカゲの頭部が弾けるようにのけ反ったのも。
……何かが、ぼろりと顎から落ちたのも。
不自然な角度で反り上がったトカゲが、藪の中へぐしゃりと倒れ伏した。
は、と呼吸が再開される。思考が動き始める。
ぱちり、と瞬いたリトの鼓動が、先ほどまでの時間を取り戻すように早鐘を打ち始めた。
期待に逸る心が恐ろしい。
もしや。だけど、もしそうでなかったら。
「……リュウ?」
崩れそうな足を一歩一歩、藪へと向ける。
そこに横たわるものを、果たして直視できるのだろうか。
かき分けようと手を伸ばして躊躇って、もう一度伸ばそうとした時、茂みが大きく揺れた。
暗闇に浮かび上がるような白。
立ち尽くすリトの前で、つむじの見える小さな頭が上を向く。サラサラと流れる髪が頬を滑って、大きなミントグリーンの瞳が瞬いてリトを見上げた。
「りと?」
きょとり、と小首を傾げたリュウが、徐々に唇を引き結んで何かを堪える顔をする。
大きな瞳から水滴が零れる前に、リトは思い切りその小さな身体を抱きしめた。
鼓動が早すぎて、呼吸が苦しい。
「よかった……よかった。よかった……」
自分が声を発していることも意識の外に、呪文のように繰り返す。
この手を放せば消えてしまう夢のようで、リトは縋るようにリュウを抱え込んでいた。
腕の中の小さい命はむずがるようにもそもそと顔を上げ、潤ませたミントグリーンでリトを見つめる。
どんなに怖かったろうか。どんなにリトを恨んだろうか。
その瞳が胸を締め付けるのを甘んじて受けながら、リトは何も言えずに見つめ返した。
その小さな薄い唇は小刻みに震えながら、訴えかけるように口を開く。
「りと……! りゅー、りゅーのふく……やぶえた」
ついにころりと転げ落ちた雫が、ふっくらした頬を滑るのを眺めながら、リトは目を瞬いた。
「……服」
「ここ……! ここ、やぶえた……!!」
ほら、ここ、と小さな指が指し示すのをぼんやりと見つめ、今度こそリトの足から力が抜けたのだった。
◇
もういいだろうか。
真っ暗な森の中で、私を抱えてうずくまるリトを見上げる。
リトが何かしているのか、それとも大きなトカゲが横たわっているからなのか、他の魔物がやって来ていないのは幸いだ。
リトが心配してくれているのは分かるけれど、私は何ということもない。ただ、ただ大切な服が破れてしまったことが、大きなダメージとなって私の胸を占めているだけで。
ああ、きっと木から落ちた時か、藪の中に落ちた時に引っかけてしまったのだ。
大きく裂けた布地を見ると胸が詰まるけれど、今はそれよりぺたんこになった腹の方が重症になった。
だから、そろそろ帰りたいのだけど。
固く締まった両腕をぐいぐいと押し、ついでに伏せたリトの顔に手を突っ張って上を向かせる。
「りと、りゅーもう帰る」
「お前は……ほんっとーーにお前だよな! 俺が先に壊れるわ……。まだダメだ、立てねえわ。ひとまず、何があったのか聞かせろ。何が何だか……」
それはそうだろうな、と納得して頷くと、まずは端的に結論を伝える。
「2回、ちゃんと機能ちた」
「は? 何の話だ。そもそもお前、なんでこんな所にいるんだよ。お前が歩いてくる距離じゃねえだろ」
こくり、と頷いてハッとする。
「らざくは?」
朦朧としたあの様子では、きっとまた意識を失っているのだろう。
きょろきょろし始めた私を見て、リトの気配が変わった。
「……ラザクだと?」
骨に響くような低い声。リトの銀色の目が底光りした気がする。
怒っているのだな。びりびりする気配が、私まで震わせる。
名前を言っただけなのに、既にラザクが諸悪の根源だと判断したリトがすごい。いや、ある意味ラザクがすごいのかもしれない。
――事実のみを端的に、起こったことだけを正確に。
私の拙い説明で、はたして伝わっただろうか。だけどラザクが起きるより先に言わないと、リトは姿を見た途端、切ってしまいそうだったから。
「…………」
まだ眉間にしわを寄せているリトを見上げ、これはもう少し強調すべきところを作った方が良かったのかもしれないと思う。
「らざく、りゅーをちゃんと運んだ。りゅーも、らざくたしゅけた」
「……分かったから、もう言うな。余計腹が立つ」
深い深いため息をついて、リトは私を見た。
「つまりお前は、そこらに転がってるだろう死に損ないを連れて帰れって言ってんのか」
私は、勢いよく頷いた。
だって、せっかく助けたのに。必要あってのことではあるけれど、割と私は頑張ったのだ。
差し引きマイナスであっても、取っ掛かりは私を助けようとしたことではある。打算的に。
それに、もったいないではないか。
この素晴らしい機能を備えた、奇跡のような人間の体。ただ、消えてなくなるのはあまりにもったいない。孤児院で、私はつくづくそう思ったから。
「はぁ……いい、事の発端は分かった。それで? 結局役立たずは落ちたんだろ? お前だって……この奇跡が起こったのはなぜだ?」
「奇跡ない。りゅーの、作戦」
ラザクを連れて帰ると言わなかったリトに一抹の不安を覚えたものの、聞き捨てならないセリフに急いで首を振った。そんな、偶然のように言われては困る。
うまくいく保証はもちろんなかったけれど、成功率は高いと考えた上なのだから。
「らざくが食べらえないように、りゅーがぶら下がって――」
話し始めた私をぎゅっと抱きしめ、リトは真剣な顔で私を見つめたのだった。
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