第70話 音のない雷
私の小さな手が掴んだ、ほんのわずかな時間。だけど生死を分けたかもしれない、ゼロコンマ数秒。
「は? あ、あああぁ?!」
それは、宙に浮いたラザクが顔を上げて違和感に気付く、そのために。
悲鳴をあげたところを見ると、ちゃんと気付いたらしい。そのロープが続く先に待ち受ける、マーシュドルの姿に。
思わず移動中のロープから手を離したラザクが、激しく茂みをへし折り派手な音をたてて転がっていく。振り子途中が幸いし、真下への墜落ダメージは緩和されているはず。
ホッとした私の左手が、ず、ず、と滑っていく。宙ぶらりんだった私の体も、それにつれて下がっていく。
私の体は軽い。ラザクの体を受け止めるほどの茂みなら、私が落下で死にはすまい。
だけど……。
ラザクが落ちたのを見て、マーシュドルがやって来る。
藪の中で見えなくなったラザクよりも、まず、うまい具合にぶら下がって目立つ私の元へ。
「あ……」
ふ、と体が支えを失った。握っていた枝がすっぽ抜けて跳ねあがっていったのが分かる。
しかし、一瞬の浮遊感はバン、と走った衝撃と共に止まった。下の枝に引っかかったのだ、と思う間もなく、体がぐるりと転げて再び落下しかかる。
必死に掴んだ細い枝が、葉が、ぶちぶちとちぎれて落ちた。闇雲に伸ばした手に握った細い蔓が、ずるずると手のひらを滑って葉っぱを散らしていく。
足を枝に残したまま、ほとんど逆さまになった時、私の体が止まった。
握りしめた細い、細い蔓は、ピンと張って震えながら、それでも千切れることなく耐えてくれていた。
「あい、がと……」
思わず感謝を口にして、今にも切れそうな蔓から太い枝へと支えを移し体勢を立て直す。
マーシュドルは……
「ッ! らでぃあんちょんれーき!」
舌がまわらなかったけれど、何とか発動はできた。
まさに飛びつこうとしていたマーシュドルが、不意を突かれてのたうっている。
けれど、その目はさっき半透明の膜に覆われていた。瞬膜だろうか……きっと、いくらかダメージが減らされているんじゃないだろうか。
そして、それを証明するように巨大なトカゲは舌をべろり、べろりとさせながら首をもたげた。
次は……きっと目を閉じて食いつく。
もっと、上に行かなければ。ここは、マーシュドルにとって容易に飛びつける位置。
だけど、それは上に追いつめられるということでもある。
せめて、ラザクがいなければ移動さえままならない。
周囲を見回したところで、ぎょっとした。
ラザクが、いる。
ふらふらと立ち上がったのは、あろうことかマーシュドルのすぐ近く。
この黄色いビー玉のような瞳が、私から視線を外せば、終わり。
早く、早く我に返って逃げてほしい。ラザクの無事は、私の無事に繋がるのだから。
「う、ううっ……」
私の願いも空しく、朦朧としているらしいラザクが呻いてふらついた。
しまったと思った瞬間、マーシュドルが無機質な顔を素早く巡らせた。暗い森の中で、黄色い瞳がラザクに固定され――捕食者はべろり、と舌を出し入れして向きを変えた。
「らざく! らざく!!」
必死に呼びかけると、薄闇の中ぼんやりとこちらを見た気がする。
ダメだ、逃げようともしないラザクは、簡単に食べられてしまう。
このトカゲには、上下の顎に牙があった。まずはがぶりと噛みつくだろう。あの牙でのひと噛みは、致死的だろうか。
私は、大きく息を吸った。
「らざくより、りゅーがおいちい」
大きく枝を揺らして黄色い視線を向けさせると、思い切ってぶら下がってみせる。
ほら、ちょうどいい高さだろう。まさに、釣り餌だ。
案の定目の前でばたつく獲物に興味を惹かれ、マーシュドルがいそいそと寄って来る。
ぱかりと開いた口は、頭が2つに割れたんじゃないかと思うほど大きくて。そして思った通り、立派な牙が並んでいた。
ただ、ずるりと滑った手は、少しばかり思ったのと違ったけれど。
迫るピンク色の口腔は、冷たい印象のトカゲの中で、唯一温かそうに見えた。
上下の顎に規則的に並ぶ鋭い牙。見た目はトカゲなのに、こんなところだけ恐竜なんだな。
私は、その顎が私を捕らえてばくり、と閉じるのを見ていた。
◇
「お疲れさん、初っ端からどうなるかと思ったがよ、助かったぜ!」
成果は上々、と機嫌の良いリーダーがリトの背中を叩いた。
「別に、俺抜きでも構わなかっただろ」
「それは結果論ってやつだ! それに、相当数狩ったお前がいるからの安全確保だろ。珍しく張り切ったじゃねえか、おかげで思ったより早く終わったがな」
「なら、早く帰るぞ」
さっさと帰り支度をするリトに苦笑して、リーダーが他の皆に帰還を伝えていく。
「子煩悩じゃねえか……まあ、天気も怪しいから帰るのは賛成だな」
「天気が? 崩れる気配はねえけど」
リトは陽の傾きだした空を見上げて、訝し気にリーダーに視線をやった。
「だけどよ、さっき雷が光ったっつうから」
もう一度空を見て、それはない、と首を傾げる。リトにはリュウのような知識はないけれど、経験則がある。
「ふうん? 音もなかったよな、随分遠くの雷かもな」
「いや、それが落ちたっつうんだよ。あそこの森に」
「そんなわけあるか」
鼻で笑ったリトへ飛びつくように縋ったのは、まだ幼げな面影を残す少年。
「リトさん本当だって! こう、ピカッてあの辺りが光ったんだよ! 音のねえ雷なんて、すげえ珍しいよな!」
いいことあるかも、なんて笑う少年につられて口角を上げ、リトはふと胸騒ぎを覚えた。
しんがりを務めて歩き始めたところで、その足が止まる。
(強い、光……音のない、強烈な光)
つい最近、リトはそれを見た。
「どうした? 帰るんだろ?」
揶揄するようなリーダーの声に構わず、振り返って目を眇める。
いるはずがない。そんなことは分かっていたけれど。
「いや、悪い。やっぱ後から行く。帰っててくれ」
「は? なんでだよ。お前なら別に構わんだろうが、もうじきに暗くなるぞ? おい、ったく――」
リーダーの困惑した声を背中に聞きながら、リトは音のない雷が落ちた場所へと急ぐ。
大規模な討伐は、少なからずこの森へも影響を与えただろう。
しかし、思いのほかそこは静かだった。
「そりゃまあ、そうだよな。何があるんだっつうの」
自分の取った行動の可笑しさに笑いつつ、さて帰路に着こうとした時。
――薄闇を、染め抜くような光が走った。
「うっ……?!」
顔を腕で庇いながら、一気に汗が噴き出してくる。
まさか、まさか。
……まさか。
痛いほどに早鐘を打つ胸をそのままに、リトは全速力で森を走った。
この場で聞こえるはずのない、ここで最も聞きたくなかった声が聞こえた気がして。
「リュウ?!」
飛び込んだ先に見えたのは、巨大なトカゲだった。
そして、今まさにその両顎が閉じられた瞬間。
小さな人影を探して彷徨った視線が、止まる。
トカゲの口腔からはみ出しているのは、人間の両脚に見えた。
それは随分と小さくて、そして――覚えのある服に見えた。
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