第69話 弱い二人

「くそっ、くそっ……あんなデカいマーシュドルが……」


身を潜めた藪の中で、ラザクがぶつぶつ呟いている。

状況は、良くない。

もしマーシュドルが諦めてくれたとしても、ここは森の中。小物が多い草原と違って、森には恐ろしい生き物が他にもいる。それらからも身を守らなければいけない。


「ちゅまり、ここはだめ」

「は? てめえ、何立ち上がってんだ! 縮こまってやがれ!」

ぐいと手を引かれ、あえなく藪の中に逆戻りしつつ首を振る。


「だめ。まーしゅどるがいなくても、他のまももがいる。まじゅは、安全な場所を探ちて――」

「安全な場所なんてあるかよ!」


悲鳴のような声にこくり、と頷いてもう一度立ち上がる。


「次点は、防衛できる場所を探しゅ。らざくも身を守る方法を、もしゃくちて」

「な……」


都合よく洞窟などあればいいけれど、そんな洞窟にはきっと先住民がいるだろう。木の洞くらいなら……だけど、私は入れてもラザクはきっと入れない。

木……そうか木の上なら地面よりはマシだろうか。樹上には樹上の危険があるだろうけれど、地上よりはリスクが減るんじゃないだろうか。それに、視界が確保しやすいのもいい。


「らざく、木に登って」

「嫌だね。木の上だと、逃げ場がなくなるだろが!」

「大丈夫。らざく、ロープがある」


ペンタの鋭い鳴き声が響いたのは、その時だった。

警戒鳴き! 魔物……!


「らざく! まもも、来る!」


何かは分からない。私には見つけられない。

だけど、何かがきっといる。


「ど、どこからっ?! く、クソが!!」


選択を迫られたラザクが、咄嗟に木にしがみついた。置いて行かれまいと、私もその背中に貼りつく。

ぞりぞりとじれったくなる速度で登り始め、やっと視界が拓けたところで思わず息を呑んだ。

――いた。マーシュドルが、すぐ近くに。

まるで、彫像のように。森で生きるトカゲは、恐ろしく静かだった。ひっそりと佇んで、匂いを確かめるように舌を出し入れしている。

狩りをしているからだろう。ゆっくり滑るように移動する手足も、尻尾も、ほとんど物音をたてない。

……良かった。木に登らなければ姿を確認した時には腹の中だ。

張り出した枝に体を押し上げたラザクが、小刻みに振動している。背中では滑り落ちそうで、脇を押し上げ腹側へ回った。


「あ? ちょ、おま……?!」


意味不明な発語を無視して、ラザクの服をズボンから引っ張り出して潜り込む。ラザクの体は押せばへこむので、ねじ込むように2枚重なった服の間に入り込み、襟ぐりから半分顔を出す。これなら、私が万が一手を離しても大丈夫。


「ななな、何やってんだてめえ! こんな時にふざ――うっ、腹を押すな!」

「らざく、やわわかい」

「はぁ?! この鋼ボディに向かって何をほざきやがる!」

「はがねなない。はがねは、固い」


ひそひそ言い争っていた私たちは、マーシュドルがこちらへ首を巡らせたのを見て口をつぐんだ。


「頼むぞ……気付くな、気付くなよ……」


目の前で、喉仏が大きく上下する。いつの間にか、ラザクの振動は止まっていた。

するする、と身をくねらせるように木々をすり抜け、巨体が私たちの木の根元へやって来る。滑らかな鱗が、ささやかな光にぬめるように光るのが見える。

大きい。真下に差し掛かった体は、とても大きい。

立ち上がれば、簡単に私たちの足に届きそうで。ラザクが自然と体を上へと押し上げた。

そして、反動は自然と枝へ伝わって、2枚の葉を散らした。

ひらひら、と先を争うように落ちていく2枚の葉はマーシュドルの視界を掠め、自然とその視線を誘導し――無機質な瞳は、ぴたりと私たちに視線を固定した。


「っ! 気づかれたっ?!」


べろり、べろり。その舌が黒っぽいのもよく見える距離で、ぐらり、と揺れを感じた。鋭いかぎ爪をもつ前足が、今、木に掛けられた揺れを。

弾かれたように上を向いたラザクが、細くなっていく幹をさらに登ろうと枝を掴む。


「らざく、逃げるそっちない! ロープ! あっちの木!」


もどかしい。上手く伝えられない拙さが焦りになって、思い切りラザクを叩いた。


「飛んで! あっち、飛んで!」

「そ、そうか!」


ばきばきと小枝をへし折りながら上を目指していたラザクが、ハッと腰のロープに手を伸ばす。

太い木がゆんゆんと揺れるのはなぜなのか、見なくても分かる。

だけど、ラザクの代わりに私が見る。タイムリミットを伝えるために。

何の感情も読み取れないトカゲの顔が、こちらを窺うように徐々に、徐々に近づいてくる。かぎ爪で剥がれる木肌が、ばりりと音をたてて落ちて行った。


大きく揺れていたラザクの体が、ぐっと前へ傾いて静止、次いでぐんと後ろへ傾いた。

よし、という会心の声に安堵して、私はマーシュドルの黄色い瞳と目を合わせたまま息を吸い込んだ。その目が半透明のまぶたで覆われ、勢いをつけるようにわずかに首を引いた瞬間、ぱちんと手を叩く。

ロープを握って視線を下げたラザクが、顔を引きつらせた。


「ヒッ、ヒイイィ?!」


大きく開いた口腔は、ピンク色だった。ずらりと並んだ歯は、思ったよりも小さい。


「りと学! みじゅ生成! らざく、今、飛ぶ!」


両の手から勢いよく溢れた水が、思い切りマーシュドルの顔に、口腔にかかった。驚いたマーシュドルが体を引いた、そのタイミング。

ラザクの足が、木を離れた。


「うおおおっ! うぐっ!」


うまい具合にラザクの右半身が木にぶち当たり、息を詰めていた私への衝撃を緩和した。

振り子のように隣の木へ乗り移ったラザクは、そのままロープを登って高い位置へ。そして、さらに次の木へ。


「へへっ、いいじゃねえか。これなら捕まらねえ! 森の外まで逃げ切れるぜ!」


はたして、そううまく撒けるだろうか。だけど、少なくとも樹上の魔物に捕まらない限り、マーシュドルが諦めるまで逃げ続けることは可能かもしれない。

ラザクの振り子移動も徐々に様になって、きちんと両足で木へ着地できるようになった。

もう、木々の向こうに草原が見える。そして、その草の海へ日が沈みかかっているのも。


「くそ、こんなに暗くなってやがったのか……!」


先の光景に眉をしかめ、焦りを浮かべたラザクが次の枝へロープを掛ける。

慣れた様子で体を引いて――


「ピイィッ!」

「らざく!」


咄嗟にラザクの服から滑り降り、右手で彼の服を、左手で枝を掴んだ。

だけど、一瞬、遅かった。

力が、足りなかった。

既にラザクの足は木を蹴り、宙へ浮いていた。

そして、ラザクに引っ張られた私の体も、足場を失った。

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