第121話 リトの衝撃
しっとり密度の濃い空気と、耳に心地よい静けさ。
独特の匂いは、インクだろうか、それとも紙や皮だろうか。
「うむうむうむっ! やはり良き。今日はどこから読もうかな~っ! ああ、我ここに住みたい!」
凛とした空間を台無しにする声の主が、耳元で両手を擦り合わせている。
ファエルは、本当に書物が好きらしい。見た目に似合わず。
今日も今日とて図書館にやって来た私は、ファエルにせっつかれるまま、数冊の本を抱えてソファ席まで戻ってきた。
ファエルは相変わらず歴史関連の本で、ルミナスプのことを調べているらしい。本さえ与えておけば、とても静かだ。
リトの方は、最近ちゃんとお仕事に行っている。朝もだいぶスムーズに、私から離れられるようになった。
私はこうして主に図書館に通っているけれど、セイリアと出会って遊びに行くこともある。
何の気なしにカバンの石飾りを見て、すべきことを思い出した。
「りゅー、海のいきもも調べる」
歴史も面白いけれど、まずは私の生存に直結するところから学ばなければ。
――海ラダついでに一帯の生物を把握したから、それぞれ詳細を詰めておこうと思ったのだけど。
「貝……ない?」
めぼしい海洋生物の棚を制覇してしまった私は、完成しなかった脳内図鑑に小首を傾げた。
地元の生態に関しては、問題なく調べられることが多かったのだけど、1種の貝が特定できなくて尻の据わりが悪い。
魚を売っていた店で聞けば、すぐに分かるのでは。
だけど、私の説明では些細な違いを説明するのは困難。そして、抽象画を描いてもしょうがない。実物が必要だ。
「え?! ちょっと弟子ぃ? どこへ行く!」
ファエルが、駆け出した私に慌てて追いすがってくる。
「海」
端的に答えると、途端に渋面を作った。
「ええ~? 海は一人で行ってはならぬと……保護者怒るよ?!」
そうか……確かに、一人で行ってはいけないと言われた。
だけど、海に入るわけじゃない。
途中でセイリアに会うかもしれないし、と楽観的に考えていたものの、残念ながら今日は会えなかった。
だけど、私はちゃんと対策を取れる。
通りを歩く人たちをじっと見つめ、これと定めた獲物に飛びついた。
「うわっ?! 何だ?!」
仰天した人は、多分冒険者。だから、海の生き物に負けたりしないだろう。
それに、ちゃんと大人だ。
「こっち、来て」
「な、なんで? 君、誰?!」
「りゅー」
ぐいぐい引くと、困惑を浮かべながら道を外れてくれた。
そうだ、ここでちゃんとお願いをする。セイリアが教えてくれた、『とっておき』だ。
「おにいたん、おねがい」
セイリアのやり方をしっかり真似……ているつもりだけれど。
「うっ……お前、分かっててやってんな?! くそ、何だよ……」
呻いた冒険者が、ため息を吐くと、引っ張る手が急に軽くなった。
「りゅー、貝とる。見てて。……かっこいいおにいたん」
「はいはい、取って付けたように言わんでいいわ。危ねーもんな、賢い賢い」
さすがはセイリアのとっておき。
苦笑した彼は岩場までついてくると、私を見守るだけでなく、転びそうになった私を抱き上げてくれた。
「ほら、もういいだろ。お前、危なっかしいな……一人で大丈夫なのか? 攫われねえ?」
抱っこのまま道まで戻ってくると、彼は逡巡するように周囲を見回した。
「りゅー、一人でお魚のお店行って、それで、図書館いく」
だからもういい、と言ったつもりだったのに、彼は『あー、はいはい』とそのまま歩き出してしまった。
リトよりも小柄だけど、安定した腕。
時折『やべー、子どもって柔らけー』とぎゅっと締まるのは、ちょっと不愉快。
でも、連れて行ってくれるなら、そうする。
大人しく冒険者の腕に揺られて魚の店に到着すると、採ってきたばかりの貝を伸び上がって見せた。
「貝、本に載ってない。これ、何?」
「はあ? ……これは、ここらの貝じゃねえな。誰かが食用のを捨てたんだろ」
なるほど、だから載っていなかったのか。
「あげる」
食べられるなら、お礼になるだろう。ラザクがいないと、私は食べられないし。
「いや、これっぽっちもらってもなあ……」
ぼやく店主に背を向け、冒険者のところへ戻って両手を挙げた。
「俺は従者じゃねえんだけど?! 金取るぞ?!」
私を抱き上げた彼は、ブツブツ言いながらも迷いなく図書館の方へと歩き出す。
大人の足だと、道のりがとても短く感じる。
彼のおかげで随分移動時間が短縮されたから、本当にお礼をした方がいいだろう。
「じゃあな」
だけど、かばんをごそごそしている間に、彼はあっという間に見えなくなってしまった。
「お礼……」
「本当、弟子はドンクサよのう」
言葉すら伝えられず呆然とする私を、ファエルが呆れた声でぺちぺち叩いたのだった。
傷心を忘れるためにもデータ取り込みに熱中していたところ、ふわっと身体が浮いた。
「よう、イイコだったか?」
低い声が耳を通り抜け、私の口角を押し上げる。
「りと。おかえり」
「ただいま」
遠慮なく身体を預けてぎゅうっとしがみつくと、汚えぞ、と言われた。
土と汗の匂いがする。今日は汚れるような仕事だったんだろうか。
「2班がしくじって馬車が横転してな、討伐よりも余計な労働が疲れたっつうの。飯は買って帰って、ゆっくり風呂入るか」
私が頷くまでもなく、リトが歩き出す。
今日は、魚だろうか、お肉だろうか。買って帰る場合は、大体屋台だろう。
通りを歩くと、大勢の人がいる。ここは夜の方が人が多いんだな。そして、日中にはなかった香りがたくさん漂っていた。
じわりと唾液が溢れる香ばしい香りは、海鮮を焼くタレだろうか。
「そこの男前さん、おひとつ――おや?」
不自然に途切れた勧誘に、リトが首を傾げて網焼きの店主を振り返る。
「どうかしたか?」
「あっ、こりゃ失礼! 坊ちゃんには昼間に会ったもんだからさ」
網の上でじゅうじゅう言っている海鮮しか見ていなかった私は、視線を引き剥がして顔を上げた。
「貝の人」
「貝の人じゃないんだけどなあ?!」
苦笑する店主は確かに、昼間魚の店にいた人だ。
「いいとこの坊ちゃんなんだなあ、腕利きを取っ替え引っ替えたあ、恐れ入る。ほら、美味そうだろ? 小遣いもらってんなら買っていってくんな!」
「取っ替え引っ替え……? どういうことだ?」
リトが訝しげに眉根を寄せ、それ5つ、と言った。
「まいどあり! いやね、日中は違う兄さんが抱っこしてたからさ、てっきり兄弟かなんかかと思ったんだけどさ、全然似てないだろ? そんで今度はあんたに抱っこされてきたからピンときたわけさ! こいつぁいいとこの坊ちゃんだってね!」
得意そうにおしゃべりしながら、店主が網に乗っていた海鮮を包んで差し出した。
礼を言って受け取ったリトは、スタスタ歩き始め、せっかく買った包みを開けようとしない。
「りゅー、食べる」
焦れて手を伸ばしたところで、リトがじっとり重い視線をこちらへ向けた。
「食うより先に言うことがあるよな……? 誰だよ、日中お前といたの」
「りゅー、いいこだった。大人といた」
なんとなく怒られている気配を感じて、きちんと主張しておく。何も落ち度はなかったはず。
「だから、そいつ誰だよ?! お前、知り合いいなかったろ?!」
知り合いではない。今日知った。
しかし、名前が分からないので誰と言われても困る。
ちら、と見上げたリトは、じっと私の答えを待っている。とても、どうでもいいと思うのだけど。
「……かっこいい、おにいたん?」
しばし考え、出した私の答えに、リトは激しく動揺して私を落としそうになったのだった。
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