第11話 パンと歩行練習

「――吐き出せっ! リュウ、リュウッ?!」


 遠のきそうな意識の中で、片手をのどに、片手を心残りのチーズへ伸ばしたところで、背中を凄まじい衝撃が襲った。


「――っ、こふっ、かふっ!! い、いちゃい」


 リトの大きな手が私の背中を覆うようにバシバシ叩く。

 激しく揺れる視界の中で、私の口から何かが飛び出したのが見えた。

 もったいない、あれはさっき頬張った甘いパン。


「ああくそ、焦った……。大丈夫か、ゆっくり息しろ! 急いで食うからだっつうの。よくカミカミして食えって言ったろが」


 せき込みながらも、すう、と肺が膨らむ心地よさ。……背中は痛むけれど。


「大体、なんで助けを求めねえんだよ! なんっでお前はまだ食おうとしてんだよ!! 気づかねえわ!」


 なぜかぐったりとテーブルに伏せたリトが、半眼で私をにらみ上げる。


「れしゅが、しゃいごになゆなや食べておかやいと、ここよ残りれしょう」

「なんつったのか分かんねえけど、とりあえず食い気より命の方を取りやがれ」


 それは確かに道理。まさか、こんなにも早く天にも昇る心地を味わうとは思わなかった。

 兎にも角にもこれで最後とはならなかったようで、私は安堵してパンを頬張り、目当てのチーズを掴んだ。


「食うのかよ……」

「カミカミ、ちゃんとしゅう」


 ほら、と見せつけるようにもっしゅもっしゅとよく噛んで見せれば、リトは苦笑して溜息をついたのだった。



 ちなみに、今朝の美味しいパン。

 あれは歩行練習を頑張ったご褒美だと言われていた。


 クリームが挟まれた、あの甘い甘いパン。全部が甘いパン。

 あれをもう一度食べられるなら、苦労など何ほどでもない。

 それに昨日は、一人で立っていられたし、両手を引いてもらえば歩けるようになった。


「そう、そうだ! いけるじゃねえか!」


 右、左、右……。

 私は、真剣な表情で足を運ぶ。

 両手を広げてバランスをとり、よち、よちと進む。


 4歳にしてこの歩行はあまりに拙いものの、立つことさえままならなかったことを思えば、上々ではないか。

 広げたリトの腕の中へ倒れ込み、ふうとひと息ついた。


「りゅーは、できまちた」


 どうだ、と見上げれば、リトはおう、と笑った。


 宿の空き地スペースで歩行練習を行って2日。この通り、歩けるようになった。

 要はコツさえ掴めば、必要な動作と筋力は元から備わっているのだ。もう少し練習すれば、スムーズになるだろう。


「歩けたな。ほら、もう一回見せてくれ」


 そう言って私を立たせると、リトはさっきより離れた場所で膝をついた。

 そうか。リトが見たいならやってみせよう。


 くすぐったいような、何とも表現しづらい胸の内を不思議に思いつつ、きゅっと顔を引き締めて足を踏み出した。

 右、左、右。順調に進んでいると思ったけれど、どうも足運びが早くなってくる。


「そんなに下ばっか向くんじゃねえよ、俺を見てろ」


 そうだった、と顔を上げると、リトが手を振って両腕を広げた。

 まだ遠い、まだもう少し。笑うリトの顔だけを見てペンギンのように進む。

 ふいに、踏み込んだ足裏の角度が変わった。


「あ……」


 どうやら石を踏んだらしい、と考える間もなく簡単にバランスを崩し、ひっくり返る体がふわりと浮いた。

 危なげなく強い腕に支えられ、無事に着地。


「確かに俺を見てろと言ったけどよ、行く先の地面も見なきゃなあ」


 リトは、速い。私も、慣れればこんな風になるのだろうか。


「もうちょっちょれした」


 邪魔をした石を睨みつけて無念の思いで見上げると、精悍な顔がくしゃりと笑う。


「そうだな! よく頑張ったぞ。よし、じゃあ昼飯だ」


 食事! ぱっと顔を上げた私は、当たり前のように両手を上げて、リトは当たり前のように抱き上げた。


 リトがいとも簡単に歩くのをしっかり観察しながら、宿から漂ってきた香りに鼻をひくつかせる。

 どうやら今日も昼食セットはお肉らしい。


 リトはいつも昼食セットを頼むのだけれど、お肉がどっさりだ。

 目の前で口を開ければ、リトは小さく切って入れてくれる。

 一方の私は、一品料理になることが多い。

 リトは『お前に昼食セットは多すぎるだろ』と言うのだけど、食べてみなくては、わからないのではないだろうか。

 だって、朝食セットはちゃんと食べているのだから。


 そういえば、今日の朝食セットは何だったのだろうとメニューに目を走らせた。


「ぱん、しゅーぷ、あちゅぎいべいこん、さややしぇっと」


 ふむ、朝食セットはいつもあまり変わり映えしない。

 しかし歩行と違って、発音は中々難航しそうだ。そもそも4歳という年齢は、決して流暢に話せる歳ではないだろうから。


「すげえな、本当に読めるようになってやがる」


 むに、と私の頬を潰してリトが笑う。かと思えば、すっと視線を落とした。


「文字が読めるだけでも、ただの孤児とは違う。お前は、やっていけるよ」


 そうか。私は、やっていけるのか。

 それなら、異世界の言語と文化の理解を深めるという目標は、近いうちに達成できそうだ。


 それから注文した昼食セットを食べ終わるまで、リトは何も言わなかった。

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