第10話 ゆうやけ

 ふと、私は文字列から顔を上げた。


 今、呼ばれたろうか。

 

 ふと見れば、私が通った後は本で埋まっている。

 本棚に掴まって立ち上がると、周囲の本を踏まないように慎重に足をずらして空いている方へ進んだ。

 ちょうどこの本棚の真ん中あたりまで来たところだったので、反対側から脱出すればいい。


 つかまり歩きとも言えないようなそれで、じりじり棚の端まで行って顔を覗かせた途端、思い切り上に引っ張り上げられた。


「馬鹿野郎っ! 待ってろって――ああ、そうか、言っても分かんねえのか。攫われたかと……」


 私の心臓が、どくりと音を立てた。

 これが、リトの言葉。


「あーくそ! 無駄に心配した!」


 分かる……ちゃんと理解できる。

 私の中に、急に血が通い始めたような気がした。

 体が、熱くなってくる。


 ぎゅうぎゅう締め付ける腕を叩いて、頭をもたせかけるように見上げた。


「りと、らいじょうぶ。わかいましゅ。りゅーはこちょば、わかいましゅ」


 リトは、笑うだろうか。驚くだろうか。

 私の胸が、そわそわと跳ね回っている。


「は?! え、なんでお前言葉を……?!」


 勢いよく顔を上げたリトが、銀色の瞳をまん丸にした。


「わたちのこちょば、わかいましゅか?」

「――っ!」


 声もなく私を見つめ、次いでリトは激しく頷いた。

 ――伝わった。

 しびび、と歓喜の震えが全身を巡る。


 リトの言葉が分かる。発した言葉を分かってもらえる。

 コミュニケ―ションが取れる。


 この見知らぬ世界は、今、初めて私の世界になった。




「なんで、お前、一体どうやって――っつうか何だこの有様?!」


 リトは、今になって足下に山と散乱する本に気付いたようで、私の顔と本を見比べて目を丸くしている。


「ほん、たくしゃんでがくしゅうちまちた」


 発声機能の未熟さをもどかしく思いつつ、リトを見上げた。


「いやいや、そんなわけあるかよ!」

「リトアスさん!」


 リトアス? もしや、リトのことだろうか。聞き覚えのない声に首を巡らせると、小さな老齢女性がこちらを見上げていた。


「良かった、見つかったのですね。あらあら、随分可愛らしい子で――まあ! どうしてこんなことに」


 早々に学習後の様子を見つけ、老齢女性は困惑の面持ちでしゃがみこんだ。


「がくしゅうちまちたので」

「学習? あら? リトアスさん、この子お話できるじゃないですか」


 せっせと本を棚に戻しつつ、老齢女性がそう言った。


「いや、さっきまでは確かに……本を読んで話せるようになったとか」

「うふふ、まさか。やっぱり、アレじゃないかしら。精神的ダメージから逃れるために、自分を別人だと思い込むとかいう……。だから、きっかけひとつで言葉が戻ったのじゃないかしら。ちょっとまだ覚束ないけれど、そのうち並みの4歳児レベルの話はできるようになるでしょう」


 声を潜めた二人の会話は私には聞き取れなかったけれど、リトは少し視線を彷徨わせた。


「そう、か」


 それだけ言って、彼はしばらく私をじっと見つめていたのだった。




「――なあ、閉館時間なんだよ、出るぞ。また来られるから」


 どうしても、ここを出なければいけないらしい。リトの背後にスタッフらしき人が佇んで苦笑している。

 まだ途中だった辞典を抱きしめて再度首を振ると、ため息と共に引きはがされた。


「まだれす! ほん、じぇんぶ読んだや、出ましゅ!」

「お前、何年籠もるつもりだよ……それに今お前が見てるのは、辞書だぞ。読むもんじゃねえよ」


 ばたばた暴れる私の抵抗をものともせず、リトはスタッフへ軽く会釈して歩き出した。


「言葉が大丈夫なんだったらよ、きっとお前歩くこともできるんじゃねえ? 練習するぞ」


 言われて、暴れるのを止めた。それは確かに、危急の課題ではある。歩けさえすれば、私は好きに本を読みに行くこともできるし、情報を集めることができる。

 優先度を考慮し、頷いたところで外へ通じる扉が開かれた。

 

 おかしい――私は、何度か目を瞬いてわしわし擦ってみる。

 しかし、映る景色は変わらない。


「りと、めめ、何かちゅいたと思いましゅ」

「どうし……おいおい、そんなに擦るな」


 私の両手を押さえたリトが、まじまじと覗き込んで首を傾げた。


「何も入ってねえと思うが……痛いか?」

「いちゃくないでしゅ。いよが、へん」


 外へ出た途端、視界に異常が発生した。さっきまでと、色が違う。リトも、私の手も、建物も、空も、似たような色に見えるのはなぜ。


(返答:太陽が地平線の近くに沈んでいるため、大気の中を通る光が散乱した影響です。いわゆる夕焼けと呼ばれる現象です)


「ゆうやけ……」

「そうだぞ、もう夕方だからな。お前が動かねえもんだから」


 肩をすくめたリトの銀色の瞳が、夕焼けに染まっている。知識の中から、インペリアルトパーズ、という言葉が浮かんだ。


「りと、ゆうやけ」


 日が昇って沈む。昼から夜になる。それは、こんなに劇的なことだったのだ。

 ふっと笑ったリトが、ひょいひょいとあちこちを蹴って飛び上がった。


「ほら、特等席だ」


 あっという間に屋根の上に到達したリトは、私を抱え込んでどっかりと座った。

 なるほど、ここは特等席だ。


 私はただ、少しずつ沈んでいく大きなオレンジ色を見つめていた。

 私を包み込む大きな身体が、呼吸のたび微かに上下している。

 背中が、抱える腕が、温かかった。

 

 

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