第8話 想定外だったこと
一気に心拍数が上がり、頬が熱く感じ始めた。
ここは、もしや図書館なのだろうか。これらは、私が手に取って良いものだろうか。
静かに興奮する私を抱えたまま、リトはずんずん奥へ歩いていく。早く、放してくれないだろうか。今すぐにでもこの本を手に取りたい。
「確か、奥の方に……」
ぶつぶつ呟きながら、リトは林立する魅惑の本棚を通り過ぎ、警備員らしき人へ会釈して螺旋階段を上った。
ここにも本棚はあるものの、少し雰囲気が違う。
展示物が並び、図書館と言うよりは博物館のよう。
「ああ、あった。あれだ」
正面の壁を指さし、リトはふいに私を高く持ち上げ肩に乗せた。明らかに不安定になった居場所に慌て、両腕で目の前の頭を抱え込む。
「おい、俺が見えねえっての。支えててやるから」
巻き付けた両腕をずらされ、大きな手が片方私の背中へまわった。
落ち着いた姿勢に安堵して壁面を見上げると、四方の壁の一角、この一面は巨大な壁画になっている。どうやら、巨大な地図のようで……。
呆然と見上げる私に気づくでもなく、リトは、地図上に書かれた文字を指さして話した。
「ほら、国名が共通語とそれぞれの言葉両方で書かれてあるだろ。お前、文字に興味ありそうだし、読めるやつがねえかなと思ってな」
リトの言葉はわからないものの、地図には単語らしきものが2段になってたくさん書かれている。
上はメニュー表で見たような文字、一見して、下部の文字は一定ではない。これは、上部がこの国の言葉で、下部がそれぞれの国の言葉なのだろう。
端から端まで、一歩ずれては立ち止まるリトの肩で、ゆっくりじっくりそれぞれを読み込んだ。
「……ダメか? まあ、国名しか書いてねえもんな。幼児に興味あるもんじゃねえよな」
端まで行って私を下ろしたリトは、じっと私の顔を見つめて苦笑した。
そうか、リトは私が知っている言葉がないかと思ったのだろう。
私は、ゆっくり首を振る。
これは、想定外だった。
未知の言語であっても、地球上であると疑っていなかったのに。
根本から違ったのだ。
描かれた壁画は、どこをどう見ても地球上とは思えない地形であったから。
私は、じっと唇を結んで考え込んでいた。
ここが地球ではない場所であるなら、私が学習してきた知識が、常識が覆される可能性が高い。
言葉を学んでコミュニケーションを取るにも、常識やタブーを知らないのは危険だ。
まずは、世界を知らなければ。
そして、そのために今、私は最もふさわしい場所にいる。
「なんか、静かになったな。どうした?」
「りゅーは、らいじょうぶ」
リトが覗き込んだのに気付き、反射的にそう答えた。
「本当かよ~。ったく、こっちの言葉も分からなきゃ苦労するだろ? お前、お勉強が苦じゃなさそうだからな。確か、子ども向けのもあったんだよなあ」
顔を上げてみれば、いつの間にか1階の図書スペースに戻ってきていた。
リトは、時折何かを確かめつつ並ぶ本棚を通り過ぎていく。
とにかく、どれでもいい、何か手に取りたくて暴れる私を難なく押さえ、一際背の低い本棚の前で足を止めた。
「まずは、ここからやるっきゃねえな」
薄い一冊を抜き出して本棚から離れると、置かれたソファに腰かけた。
ひったくるように本を奪って広げると、あからさまに幼児向け。
しかし、これは――
「――で、これが『K』、『鍵』のKだな」
チャラ、とポケットから取り出した鍵と、イラスト、そして文字を示しながら『鍵』と言った。
これは、いわゆるひらがな絵本やアルファベット絵本と同じもの。
これは、正しく今の私にこそ必要なもの。そして、発音はリトが担当してくれる。
ああ、私の中に、みるまにこの世界の文字と読みの知識が蓄えられていく。
世界を読み解き、私を守る知識が。
私の中に、新しい世界が構築されていく。
一通りページを捲り終わり、私はすぐさま本棚を指した。
早く、次を。早く。
「おいおい、もう飽きたのか? これが基本だからな、あとで復習するんだぞ」
やれやれと絵本を傍らに置き、リトは絵本を片手に戻って来た。
「これは、色の絵本だな。こっちは物の名前か?」
まだ翻訳できないリトの言葉よりも、大急ぎでその手の中にある本を開いた。
「あ……か、あーお、きーお、しよ、みより――」
「え? お前、色は分かるのか?」
発音が合っているのか確認したいけれど、リトは目を瞬かせるばかり。
けれど、反応からして大きく違ってはいないのだろう。
私は、文字を読めている……!!
そうと分かれば、あとはひたすら詰め込むだけ。
次々絵本を開いてはページを捲る私を不思議そうに眺め、リトは再びどっさりと絵本を持って来て横へ積んだ。
「ちょっとそこで待ってろよ、俺は話をしてくるから」
この場を離れる、と言っているのだろう。
頷いた私は、すぐさま絵本に視線を戻したのだった。
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