第44話 特訓

暴れる私の髪は、一部だけぴたりと動かない。

それは本当に髪飾りの役目を担っているみたいだ。


「ほら、いち、に! いち、に!」


はふ、はふ、と息が弾む。どうしてリトは、そんなに普通に話せるのだろうか。


「しっかり手ぇ振るんだよ! あぁ、違う違う、手ぇ下げんな、広げんな! 何つうの? こう、脇を締めて縦にだな……」


余裕のない中で、ちらりとリトの仕草を捉え、一生懸命腕を振る。

跳ねる体がそのうち地面から弾かれそうだ。

腕も足も、これ以上ないほど動かしている。

それなのに、どうもおかしい。

私の足は短すぎるのではないか。だって、リトは隣を歩いている。


「こら、前見てろ、転――あ」


気づけばリトの腕の中で、私はひたすら荒い呼吸をしていた。

石畳と言うのならば、もう少しきちんと敷き詰めるべきではないだろうか。

こんな隙間があったり凹凸があれば、足が引っかかって仕方ないではないか。


「けどまあ、大分走れるようになったな」


流れる汗を拭って、まだ声の出せない私は深々と頷いた。

リトの旅に同行するために、私は目下のところ体力作りの真っ最中なのだ。

走れば転んでいたことを思えば、随分な成長だと思う。

今転んだのは、たまたまだ。


「りゅー、まだ走れる」

「お、やるじゃねえか」


息を整え、抱える腕を叩くと、リトは少し嬉しそうな顔をした。

私は、ゆくゆくは魔物と戦えなくてはいけないのだ。この程度で音を上げてはいられない。

記録館で幻獣のこと、魔法のことを調べていると、否応なく魔物の話が絡んでくる。

この世界の人にとっての、身近で最大の脅威。

野生動物の比ではない、その被害。


私とリトは、そんな生き物が闊歩する場所を、旅するのだから。

そうっと地面に下ろすリトを見上げ、きりりと顔を引き締めて宣言した。


「りゅーは、ちゅよくなる」

「ふっ! ……そうだな、強くならねえとな」


今、笑ったのではないか。じっと見上げると、リトは口元を覆って視線を逸らした。


ふん、と鼻息をひとつ、私は再び地面を蹴って駆けだした。

強くなるために、必要だから。けれど、それだけでもない。

こうして走るのは、存外に楽しいものだ。


ぺたぺた地面を叩く足裏の感触。少し痛くて、時折心もとなく角度を変えて私を転ばせるけれど、こんな小さな面積の足裏二つで、立派に立って走る。そうそうできることではない。

全ての関節を、筋肉を制御し、全てのバランスを、私がとっているのだ。


そこらの犬だって馬だって、私より長生きだけれど、ここまではできまい。

この細い二本の足で走る。素晴らしく高度な能力だ。

私は得意で仕方ない。こんなことができるのだぞ、と言って回りたいくらいだ。


両手を広げて走り始め、慌てて脇を締める。

ぺち、ぺち、と鳴っていた足音が、徐々にぱたぱたと早くなり、額に風を感じ始める。

さらさらと耳を流れていく髪を、ぺんたがかき集めて迷惑そうにぎゅうとしがみつく。ピィ、と苦情を申し立てているようだ。


楽しい。

弾んでくる息も、上がらなくなってくる足も。

思い切り動かせる手足が、楽しい。

思うままに動く体が、楽しい。


「リュウって、特訓とか楽しいタイプ? 案外ゴリゴリの大男になったりしてな……」


相変わらず、全力疾走する私の横を歩きながら、リトがうすら寒そうにそんなことを言う。

ごりごりの大男は、リトは嫌いなのだろうか。

そしてどうやら、私は笑っているのだろう。

そうだろうな、むしろ思い切り声をあげたいくらいだから。


私とリトとぺんたは、そうして日課になった記録館までの道のりを走って向かったのだった。



「あら、今日も来たのね。本当にリュウくんはお勉強が好きね」

「りゅー、走ってきた!」

「まあまあ、こんなに汗をかいて。そう、すごいわねえ」


どうだ、と胸を張って司書長さんを見上げると、その目元と口元が折り重なるように畳まれて、しゅう、と縮む。その顔はリトとはまた違うけれど、良いな、と思う。

リトにひとしきり顔を拭われれば、ここからはデータ取り込みの時間だ。


改めて思うけれど、私は覚えることはできるし、自分で使うこともできるけれど、それでは足りないのだ。

正しい質問をし、正しい判断を下せなければ、知識が正しくとも間違えることがままある。

先日のことを思い出し、難しい顔で溜息をついた。


いつものように宿で朝食をとっている時、リトが独り言のように、登録をどうしようかと言っていた。


「俺は独り身で登録してるからなあ……。ああ、冒険者のな。それに、今後も色々手続きの機会はあるだろしな」

「りゅーの?」

「そうだ。お前のこと、何て登録すんのが面倒がないんだろな。また聞いてみるわ」


なるほど。冒険者だと未婚で孤児の引き取り、というのは珍しいのかもしれない。そういう欄がないのだろう。

リトは、保護者ではあるけれど、家族ではないのか。

私に相応しい立場について考えを巡らせ、ふと思い当たるものがあった。


「りゅーは、りとのコイビトなない?」


言った途端、一瞬周囲が静まった気がした。

リトが、間抜けな顔で動きを止める。

……違うらしい。これは、ダメな時の反応だ。

二人きりで、家族でなく、毎日寝食を共にし、おはようとおやすみのキスをする。

割と正解に近いのではないかと思ったのだけれど。


「ち、違うからなっ?! なんっ、なんでそうなった?!」


椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったリトが、なぜか私ではなく周囲に向かって両手を振った。

走ってもいないのにすごい汗だ。

そう判断するに至った理由を説明すると、リトは深い深い溜息をついたのだった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


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