第80話 馬車道中

さて、喉も潤ったことだし次はどんな話がいいだろうか。

時代背景的に、日本のものより海外の中世文学の方が親しみやすいかもしれない。

そう思案していたのだけど、リトからは念入りにもういいからな、と言われてしまった。

乗客から落胆の声が上がるのを無視して、リトは視線を遮るように私を抱え込んで進行方向を向いた。

尻の下が温かい。薄い座布団よりは、リトの腿の方がずっといい。

ついでとばかりにその懐へ手を伸ばして右の腰辺りを探る。

確か、この辺りから……


「なんだよ、何探してんだ」

「りゅー、くらもの食べる」


どうぞお構いなく。リトはいつもちょっとしか口に入れてくれないから、自分で取るのだ。

甘くて、硬くて、口の中で段々ふやけていくドライフルーツ。レッドジェムはペンタと分けなくてはいけないので、他ので我慢する。飴でもいい。


「腹減ってんなら、これ食えよ」


まさぐる手を引っ張り出され、ずいと差し出されたのは見覚えのあるスープの器。そういえば、私が持っていたはずなのに、いつの間にリトが持っているんだろうか。

ふわふわした湯気はすっかり消え、なんだか芋の色だって変わっている気がする。具材が寒さに縮まっているみたいだ。


「りゅー、いやない」

「だから! さっさと食えっつったろ?!」

「りと、どーじょ」

「どうぞじゃねえわ! ……はぁー、よく冷えてて美味いな!!」


押し返した器の中身を一気に大きな口へ放り込み、不服そうにそんなことを言う。

結局、おやつは後でとドライフルーツはもらえなかった。


むすりと唇を結んでいると、向かいの席にいた女性がにこにことこちらを見ている。

目が合うと、小さく手を振ってくれた。その間にも、女性は手元で何やら忙しく作業している。

木の実だろうか、薄い殻に包まれているそれを割って中身を取り出しているらしい。


「あ、こら!」


慌てたリトの声を尻目に、パッとリトの膝から飛び下りた私は、簡単に体勢を崩してその女性に突っ込んだ。慌てた女性が、私を支えて隣へ座らせてくれる。

馬車、立ってみると本当にたくさん揺れている。


「めめなさい」

「大丈夫よ。馬車ではね、そうっと動かなきゃ危ないのよ。あなたくらいなら、簡単に馬車から放りだされてしまうわよ」


こくり、と頷くと、いい子と撫でてくれる。その手は、ほんのり土と香ばしい匂いがした。

女性は腰を浮かせたリトに手で大丈夫と合図して、私に袋の中身を見せてくれる。


「これはマーナッツ、ウチで収穫したやつを売りに行くの。こうして殻をむいて食べるのよ。ぼうや、退屈なんでしょう。手伝ってくれたら、ご褒美にいくつかあげられるわよ」

「りゅー、やる!」


良い匂いはしないし、甘そうでもないし、マーナッツをそれほどほしいと思わなかったけれど、殻を剥く方に興味が引かれる。

どうぞ、と私と女性の間にマーナッツの袋が置かれた。

大人の親指ほどの薄茶色い実は、乾燥しているんだろうか、軽くて中からカラカラと音がする。

殻を壊せばいいのかと両手でぎゅっと握ってみたけれど、案外固い。


「そのやり方は、あのお兄さんみたいな人向きね。私たちはこうして、こう。割れ目に指を立てて……」


くすくす笑って私を抱え込むように手を添えると、細い指は実の裂け目から力を入れて、パキリと二つに割ってみせた。

薄茶色い殻の中には、橙色の実が二つ入っていた。一つを私の口に入れ、もう一つは別の袋へ。取り出した中身は、小袋に分けてパッキングしているらしい。

口の中で転がしたマーナッツは、硬くて乾燥していて、味がしない。

思った通り甘くないし、むしろ微かに苦いだろうか。恐る恐る歯を立てると、カリリ、と音がする。


「おいしい……」

「あら、初めて食べた? お料理にも入ってるんだけどね、大体砕いてあるから気付かないかもしれないわね」


そうか、甘いお粥に入っていたナッツ。あれがマーナッツだったのかもしれない。

カリ、カリリ、噛み合わせる歯の間で小気味よく砕けていく感触。鼻を抜ける独特の香ばしい香り。

甘くないけど、美味しい。味は、そんなにしないように思うのに、美味しい。

不思議だ。この『美味しい』は、味じゃなくて香りと歯ざわりの『美味しい』だろうか。

本当に、『美味しい』は奥が深い。


やってみる? の言葉に大急ぎで頷いて、殻付きのマーナッツを手に取った。くるくる回して裂け目を探し、きゅっと爪を入れ込むようにしてパキリ、と音をさせる。

楽しい。歯触りも気持ちいいけれど、こうして手で割る瞬間も気持ちいい。もしかして、これも『美味しい』に入るだろうか?

ちらりと大きな袋に視線をやった。大丈夫、まだまだたくさん詰まっている。

パキ、パキ、と慣れた手つきで処理する女性に負けじと、私も存分に感触を味わい始めたのだった。




「――ぼうや、お手々大丈夫? ありがとう、小さいのにこんなにきちんとお手伝いできるなんて思わなかったわ! ほら、そろそろ下りる準備をしなきゃね」


ふいに両手を包み込まれ、ハッと意識を浮上させた。

どのくらい経ったんだろう、途中途中で大丈夫かと言われていた気がするけれど、すっかり熱中してしまっていた。休憩したのは簡素な昼食をとった時だけ。

殻を剥き続けた手指は、ほんのり熱くじんじんとしていた。


「悪い、子守させちまって。助かったわ。それ売りに行くなら、いくつか倍額で買わせてもらう」


ぬっと近くに現れたリトに、女性が驚いて体を跳ねさせた。

リト、揺れているのに馬車で立てるんだな。


「えっ、とんでもない! 本当に手伝ってもらっちゃいましたし……私も楽しかったので」


互いにお礼を、と押し問答するうちに、馬車がゆっくりになってきた。がくん、と揺れた拍子に座席から落ちそうになってリトにすくい上げられ、視界が高くなる。

目の前には、簡易柵に囲まれた野営地らしき場所。屋台もあるし、ちょっとした村のような賑わいだ。


結局、リトがいくらか支払ってマーナッツの小袋をふたつもらうことになったらしい。

女性が恐縮しつつ、ありがとうと言って私に小袋を差し出した。

私はサッと手を後ろへ回して首を振る。


「そっちない。りゅー、こっちがいい」

「え? でもこれはまだ剥いてないのだけど……そう? じゃあこっちを詰めるわね」


目を瞬いた女性は、絶対に受け取らないとへの字口をした私に吹き出して、ちゃんと殻付きの実を詰めてくれた。

リトに取られないよう素早く懐へ納め、腕の中から見上げる。


「りと、後でね」


ぽんぽんと分厚い胸板を叩いてそう言って聞かせると、彼はふっと吹き出して笑ったのだった。



馬車から下りて野営地に入ると、そこは耳が聞こえなくなるほどの音が溢れていた。

たくさんの人がたくさん話すものだから、全然互いの声が聞こえない。全員が声を張り上げ、怒鳴り合うような調子で会話している。トンカン何かを打つ音や荷下ろしの音も相まって、頭が痛くなりそうな騒音だ。


「静かな方に行くぞ。森側に近い方が人が少ねえからな」


リトの声だけは、抱えられた胸元から直接身体に響いてくる。

そのままずんずんと奥まで進めば、なるほどひしめき合うようだった人混みがまばらになってきた。

この野営地でテントを張って、夜を明かすのだそう。


「リュウは野営初めてだしな、人の多い定番地にしたけどよ……次は人の少ない所でいいか?」

「りゅー、どこれもいい」

「そうだな、お前はそういうヤツだよ」


そう言って苦笑したリトは、本当に野営地の端まで行ってテントを張り始めたのだった。





◇◇◇◇◇◇◇◇


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