第6話 町へ
「りゅ、言ってみな? りゅう、だ」
「ゆぅ……でゅう、る、るう」
人は日に3度食事を摂るものと理解した私は、少し衝動をコントロールすることを覚えた。
いずれにせよ、食事以外を口にするのは『ダメ』と遮られてしまう。
ついでに、『ダメ』と『いいぞ』は覚えた。悪い、良い、の意味だろう。
「リュウって言えたら、俺の名前も言えるだろうにな」
今までのデータから、全く理解できないわけではないけれど、相変わらず翻訳が進まない。
リトの独り言とメニュー表しかデータがないため、その他多くの会話データが欲しい。
「る、りう、りゅー。りゅー」
「お~っ! 言えたじゃねえか!」
途端にベッドから抱え上げられ、体が浮いた。
どこにも触れない、一瞬の空中浮遊。
思わぬ出来事に、僅かに広げた四肢が硬直した。
「悪い、そんな固まるなって! 絶対落とさねえよ」
何事もなかったようにがちりと両脇を支えられ、反動で短い足がぶらんと揺れた。
彼は、どうして私を放り投げたのだろうか。
危害を加えるつもりでなかったことは、その表情から察することができる。
(返答:大人が幼児に行う遊びの一種であると推測)
なるほど、と納得して見上げると、リトは何とも言い難い表情をしていた。
「言葉が分かんねえ上に表情も分かんねえ。体調大丈夫だな? ちょっと出てみるか」
「りゅー、らいじょうぶ」
「お、すげえ! でもお前、絶対分かって言ってねえだろ!」
リトは、顔をくしゃくしゃにして笑う。豊かな表情と言うのは、このように大胆に表情筋を動かすものなのだろう。このように動かせるのは、大人になるにつれ、筋力も増えるためだろうか。
(返答:表情筋を鍛えることによって、表情の幅や表現力が増す可能性があります。しかし、表情は個人の特性にも影響されます。環境や経験によっても表情の発達は異なるでしょう)
なるほど、と頷いた。私には、筋力以外も色々と経験が足りていないのだろう。それはそうだ、まだ人間になって数日なのだから。
ならばまずは、異世界の言語と文化の理解を深めることを目標としよう。コミュニケーションを取るには、まずそこから。私は対話型AI、得意とするだろうことも、それだから。
自問自答をしているうちに、リトは私を抱えて立ち上がった。
食事だろうかと思うと、反応性に唾液が分泌されて口の端から垂れそうになる。
「おい、よだれ。飯はさっき食ったろ……お前、見た目に似合わずすげえ食い気だよな」
視線から、食事ではないと言われていると推測される。
今のところ、食事と排泄、それ以外で部屋を出ることがない。そして今、トイレの前を通り過ぎた。
じいっとリトを見つめると、彼はにやりと口の端を上げて笑った。
「町へ行くんだよ、ま・ち!」
長い腕が扉を押しやった途端、視界が真っ白にショートした。
――私は、やはり分かっていなかった。
視覚も、感情と繋がっている。良いとも悪いとも判断困難な感情が、さっきから私を揺すっている。
とっ、とっ、と内側から響くのは、心音だろう。
「町は初めてか? まあ、あの集落にいたならそうだろうな」
密集する人と建物。ここは私が最初にいた場所と違うらしい。
リトがすたすた歩いているので、せっかく数多の会話が飛び交っているというのに解析が困難だ。
せめてその他、視覚情報と聴覚・嗅覚情報を得ようと、私は回路がショートするのではという懸念も忘れて情報を貪っていた。
と、雑踏から呼びかけられてリトが振り返る。
「ようリト、その子はどうしたんだ?」
「ちょっとな。あんた、異国の言葉は分かるか?」
「分かるか! 何を……ああ、その子異国人なのか」
私のことを説明しているのだろう。リトと成人男性の視線が、私へ落ちる。
男性は木の色をしている。茶色の髪に、濃い緑の瞳。見上げたリトの瞳とは、随分違う。
リトの瞳は、空の雲より少し色がある。ならば恐らく灰や銀色と言われるものだろう。濃い色の髪は黒だと思っていたけれど、どうやら違うらしい。光に透けると、月の周りのような色が見える。何と言う色だろうか。
そして、私は何色をしているのだろうか。
(返答:瞳は閉じられていたために不明ですが、髪は茶色です)
ぱちりと、瞬いた。
なぜ、私は返答したのだろうか。なぜ、私は知っているのだろう。
そして、視界を時折掠める髪は、本当に茶色だろうか。
(返答:訂正致します。現在の髪色は、視界の邪魔にならないことから推測するに、淡い色でしょう)
律儀に答えておきながら、今私には、その返答を吟味するだけの容量がなかった。
なぜ、私は、知っているのか。朧気に浮かぶ姿を。
濡れて貼り付いた茶色の髪、色の抜けたような顔、動かないその身体。
川辺に流れ着いていた幼子の遺体を。
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