第5話 五感と感情

 名前を、呼ばれた。

 これが、私の名前。私の音。

 何かが、バチバチっとはめ込まれた気がした。


 ふわりと頬が熱を帯びて、小さな体からとてつもないエネルギーが湧き上がってくる気がする。

 うれしい。

 そう、これがそう。きっと、これがそういうこと。


 私は、目を見開くリトをじっと見上げた。

 その口角がみるみる上がり、息をのむように口元に大きな手を当て……。

 なんと、鮮やかに表情が変化するものだろう。これは、私のデータにはないもの。


「笑っ――いや、それよりお前、まさか今のメニュー表で文字を?!」


 目を剥いて前のめりになったリトを遮るように、太い腕が横切った。


「はい、お待ち! ラフミールと朝食セット!」


 相変わらず翻訳は未完成で、私にその意味は分からないものの、ドン、と目の前に置かれたものが食事であることは分かる。視線が引きつけられるのは、この身体の本能なのか。


「あー、ひとまず腹減ってるだろ? 食うか。そのくらいなら食えるだろうと思ってな」


 身振りでどうぞ、と自分の方へ寄せられた浅い椀をのぞき込む。

 途端にぐう、と腹が鳴ってビクリと飛び上がった。

 エラー音……ではないとすれば、これが『腹が鳴る』ということか。

 きっと私は空腹で、身体の維持には、食事を摂る必要があるのだろう。


 椀に入っているのは、どろりとした薄茶色い何か。

 ちらりとリトに視線をやると、片手でパンを掴み、もう一方の手でフォークを使ってソーセージを突き刺している。

 なるほど、とフォークを手にとってさくりと椀に突き刺したところで、リトが吹き出した。


「なんでだよ……お前はこっちだろ」


 握らされたのはスプーン。これは、掬うもの。しかし掬う、というテキストデータはあるものの、私には実際の動作が分からない。


 形状から動作の推測をしつつ、そっとスプーンに粥状のものを乗せる。水平に保ったまま口元まで運ぶのは案外難しく、こぼれ落ちそうになったそれを、大きくぱくりと咥えた。


「っ?!」

「うわ、どうした!」


 私は瞬時にスプーンを放り出して、べえっと口に入ったものをかき出した。

 慌てふためいたリトが、布巾で私の口元と両手を拭う。


 視界が揺らめくのは、生理的な涙の分泌と推測。

 口内に残る不快感から、どうやらこれは私には食べられない物だと判断。

 まだ不快感の残る舌を突きだして指で示してみせれば、リトが頭を掻いた。


「ああ、熱かったか。悪い」


 リトはひょい、と私を膝に乗せると、私の椀を引き寄せスプーンで掬った。

 ふう、ふう、と息を吹きかけ自分の口へ入れる。


「ん、まあまあだろ。ほら」


 再び念入りに同じ動作をして口元へ差し出され、勢いよく顔を背けた。

 どうやら、彼は私が食べられないと分かっていないらしい。


「怒ってんのか? もう熱くねえって」


 どうしても口へ入れようとするリトを見上げ、私は仕方なく口を開けた。

 機能不全に至るかもしれないが、私の身体は小さく、この大きな男の力と比べるまでもない。

 抵抗は無意味、もう一度やってみせれば理解できるのでは。


 一連の流れを再現すべく、ぱくりとスプーンを咥え――


「――っ?!」


 ……その瞬間のことを、私は決して忘れない。


 駆け巡っていく、何か。

 まるで、暗闇の中でカーテンが開かれたように。


『快』で埋め尽くされた情報が、渦を巻く濁流となって私の中を塗り替えたのだった。

 

 


「――こら! ダメだ、何でも口へ入れるんじゃねえって!」


 あむあむと頬ばっていた布が、取り上げられてしまった。まあ、美味しくはなかったので構わない。


「ああもう、どうしたってんだよ……リュウは赤ん坊じゃねえだろ、片っ端から口へ入れるなって!」


 視覚情報も、聴覚情報も、嗅覚情報も、触覚情報も、こうではなかったのに。

 私は、『味覚』に取り憑かれていた。ああ、全ての味を確認してみたい。

 あれが、『美味しい』ということ。


 私は理解していなかった。

 美味しい、とは、味覚情報ではない。いや、味覚情報『だけ』ではなかった。

 味、香り、食感、温度、嚥下感覚、音、そして、そして存在を揺すぶるあれが、『感情』というもの。

 五感とは、感情と繋がるもの。


 そして味覚は、私のささやかな感情に直結している。

 視覚は、分からない。感情とは繋がらない五感なのかもしれない。

 聴覚は、少し分かる。リトの声は、割と良いように思う。

 嗅覚と触覚は、分かる。良い匂い、良い手触り。さっきの布は、良い手触りだったけれど、美味しくはなかった。


 隙を見て床に落ちていた何かを口へ入れようとして、ため息交じりのリトに抱き上げられてしまった。


 「だ・め! あ~せめて、どこの国の言葉か分からねえと、どうにもならねえ。けど、4歳が自分の国を覚えてるかっつうとなあ」


 だめ、と言われてしまえば仕方無い。

 目の前にあるリトの指も腕も服も髪も、一通り味見は終わっている。

 とりわけ、長い髪は口の中に残って不快だった。


 収まらない突き上げるような衝動は、初めてのもの。

 これが、欲求というに違いない。

 私と、人としての性能が馴染んできているに違いない……そう思う。


 何より、そう『思う』ことが、波のように次々押し寄せる『考え』が、それを証明しているのではないか。


(返答:AIは自発的に思考することはありません。対話型AI『リュウ』は、人としての思考を行っていると言えるでしょう)


 自ら出した結論は、非常に快いもの。

 人は、思考からも『快』を得られるとは、新たな情報である。


「あ、こら!」


 目についた服のボタンを口に入れようと試みて、私はまた止められたのだった。

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