第76話 捨てないから
ケーキ。これが、あの……ケーキ。
宝物のような美しい形、色。
私のデータにあるケーキとも、相違なく合致する。
本当だ、これは特別だ。特別な時に食べるにふさわしい食べ物だ。
上から見て、横から覗き込んで、皿を回してぐるりと眺める。
食べ物に見えない。このまま宝石と一緒にショーケースに並んだって、きっと見劣りはしないのじゃないだろうか。
こんなに美しくて、しかも甘いのだと言う。
たり、と口角から溢れた唾液が顎を伝った。
「食わねえのかよ」
「たべる!!」
リトの方へ引き寄せられそうになって、慌てて皿を捕まえた。
用意されている小さなフォークと、スプーン。他の人はちまちまとこれらを操って食べているから、それに倣ってフォークを手に取った。
「っ! わややかい!」
「うん? なんつった?」
私が当てたフォークの重みだけで、ケーキが会釈する。
きちっとした形をしているから、もっと固いものかと思った。
思わず離してしまったフォークの跡が、滑らかな表面にくっきりと傷跡を残して、きゅっと眉根が寄った。
せっかく、綺麗だったのに。
「けーき……やぶえた」
「は? なんっ……ちょ、泣くなよ?! ほら、食え!」
沈んでいく気持ちに気付いてか、リトが慌てふためいてフォークを操ると、素早く私の口へ入れた。
口の中に飛び込んだ、小さな白いひとかけら。
私は、口を閉じて――目を見開いた。
とける、とける。
目の前が、白くなる気がした。
味覚が、全てを凌駕して全身を支配する。舌の上でとろけるそれに、全感覚器が集中している。
私は舌を上あごに擦り付けるように、丹念に入念に確かめた。
甘い、では語れない。
軽やかな甘み、香るミルク、果実の涼やかな酸味と瑞々しさ。
そしてそれは、口の中に残ってさえくれずに、儚く消えてしまった。
「……その顔は、美味いんだよな? 目ぇ落ちるぞ。いつまでも口に入れてんな、早よ食え」
リトが、私の額を指で突いて笑っている。
私は、ハッとしてケーキを見つめた。今私が食べたのは、ほんの少しのかけら。大丈夫、小さいけれど、すぐになくなるわけじゃない。
意を決してフォークを沈めると、そうっとケーキのかけらを持ち上げた。
「りと、おいしい。いちばん、おいしい。しゅごい」
「いい、いい。ありがとよ、お前が食え。よだれがすげえ」
「いい……?」
「どうせ食う羽目になるからな」
差し出したケーキに誘われることなく笑うリトを、信じられない目で見上げた。
とめどなく溢れるよだれが、リトの手で拭われる。
リトは、凄いな。ケーキを差し出した私は、凄いと思ったのに。それ以上があるのだから。
そっとそっと、落とさないよう口元まで運んで、わふっと迎えに行った。
さっきより大きなリト用のひとくちは、私の口いっぱいに広がって、身体いっぱいに広がった。
きゅうっと口角が上がって、人は美味しくても笑うんだな、なんてしみじみ思う。
「ピィッ!」
「くらものは、食べてもいいよ」
我慢できなくなったらしいペンタが、引っこ抜くような勢いで私の髪を引いた。
仕方なくペンタを掴んでテーブルに乗せると、リトが小箱改め『ペンタ部屋』を取り出して設置してくれる。
プレートの中にあったいくつかのフルーツを入れてやれば、いそいそと食べ始めたようだ。
邪魔の入った楽しみを再開すべく、再び味覚に集中しようと食べかけのケーキに向き直ると、リトが私の頬をつまんだ。
「気に入ったなら全部食えばいいけどよ、他のもちょっとずつ食ってからにしろ」
「でも、こえがおいしい」
「他のも美味いのに、食えなくなったら泣くだろ?」
それは、泣く。多分、泣く。
しばし口を閉じて考えた私は、助言の通り少しずつ全部食べ、そしてまんまと全部美味しくて泣いたのだった。
「――きえい」
ほんのり黄色のキラキラした扁平な丸に、短い棒がついている。
私は、手に持ったそれを空に透かした。
視界がとろりと甘い黄色になって、口の中がじんとする。
だけど口に入れると、まだ胃の中が逆流してきそうな気がするので、見ているだけ。小さな手が、ぎゅっと握るのにちょうどいい長さで収まりがいい。
リトの腕の中で揺られながら、私は透明な黄色を通して町を眺めていた。
「飴1個で機嫌が直るなら、たくさん買っておくか……」
別に、機嫌が悪かったわけではない。
ままならない現実を嘆いて悲嘆にくれていた、ただそれだけ。
私は、絶対にもっとたくさん食べられるようになる。
決意と共に、ふと思う。人の成長とは、そこから始まるのかもしれない。
私は大きくなりたいと思ったことなど、なかったのだから。
人はきっと、大きくなってやりたいことがあったのだ。
飴を覗き込むのをやめても、空はオレンジ色をしていた。
夕焼けだ。
ゆっくり歩くリトのリズムが、こと、こと、と私を揺すっている。
リトの首には、喉ぼとけの影ができている。顎のラインに濃紺色をした髪の先が零れて、ゆさ、ゆさと揺れて弾む。
私は、腹の苦しさに負けて、リトの腕でほとんど横になっていた体を起こした。
見回したけれど、大きな丸いオレンジ色は見えなかった。
代わりに、ぽつぽつと灯り出したランプが飴色に揺れはじめる。
尻を落ち着けて座ると、じっと飴を見つめた。
また来てね、と笑った店員が、私を撫でてこれをくれた。
ぴたりと泣き止んだ私に、みんなが笑った。
「りと、りゅーまだこの町にいる。けーき、たべる」
「ケーキは、でかい町に行けばまた食えるぞ」
「でも……りゅーのふく、なおちてるから」
「服は、もう修繕できてるだろ。これから取りに行くぞ」
私は、顔を上げて町を見た。
遠くに、図書館の屋根が見える。司書長はきっと厳しい顔でページをめくっていて、私に気付いたらきゅうっと目尻を下げて笑うだろう。
もうすぐ、服の店が見える。きっときれいに畳んだ服を差し出し、二人の店員がにこにこしてくれる。
向こうには、髪の毛のない店主の店がある。彼はいつだって気難しい顔をして、じろりとこちらを見るのだ。
行き交う人の顔が、だんだんと彩度を落として不鮮明になってきた。
夕焼けに輪郭のぼやけはじめたこの町は、もう少しすればくっきりと影絵になる。
ちょっと遅くなったから、宿のおかみさんがきっと、まあまあ! と言ってじろりとリトを見るに違いない。
黙っている私の頭を、リトが撫でた。
「……悪いな」
「どうちて、わるい?」
苦し気な声にきょとんと首を傾げると、リトは私を包むように抱きしめた。
「お前の知った全部を、俺が捨てさせちまう。初めての町で、初めての繋がりで、初めて馴染んだのに」
いいのか、と言った小さな声は、果たして私に問うたのだろうか。
だけど私には、リトが、何を言っているのか分からない。
ただ、リトが辛そうだと思う。
「りと、りと、だいじょうぶ。悪いない。りゅーは、知ったことをしゅてない」
リトは、忘れてしまったのだろうか。私がAIだということを。
「りゅーは、知ったことを忘えない」
リトは、視線を合わせてぱちりと瞬くと、ふっと笑った。
「そうか、お前は忘れないな。それがいいことかどうか、俺には分からねえけど……」
ぎゅ、と私を抱く腕を強めてから、リトはにっと笑った。
銀色の瞳は、いつもより色濃く透き通って、夜と朝の始まりの色みたいだ。
「どこに行っても、俺だけは付けといてやるから。それで勘弁してくれるか」
少しだけ情けない顔をしたリトが可笑しくて、私もちょっと笑う。
「はじめて会って、はじめてのちゅながいで、はじめて馴染んじゃ人。しゅてさせる?」
「それ――え、それ。ああ、そうか」
リトは、やっと大きな口でちゃんと笑った。暗くなり始めた周囲が、その光に照らされて明るくなるような、大きく笑うリトの顔。私の好きな顔。
「捨てんなよ?! 大事に持って行けよ?!」
だったら、やっぱりリトが悪いことなどない。私は何も捨てないのだから。
私はただ、うん、と頷いて笑ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ちょっと医者から過労と睡眠不足を指摘されたので、更新マイペースになってます……気を抜くとすぐに日が経ってしまう~!
*書籍化作品「もふもふを知らなかったら人生の半分は無駄にしていた」16巻発売が迫ってまいりました!
表紙絵があまりに可愛いのでぜひご覧下さいね!
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