第73話 温かい匂い
ぱちっ、と目が開いた。
朝だ。私が起きたのだから、きっと朝だ。
すぐさま窓を確認すると、ほんのりと窓の輪郭が見える。
墨色の室内と、リトの髪色の空。ほら、外の方が少しだけ明るい。
足からもそもそベッドを下り、窓ガラスに貼りついて外の様子を窺った。
朝は、少し寒い。
思ったより冷たい床が、足の裏からじわじわ私の熱を奪おうとしている。
窓ガラスは、もっと冷たい。くっついたおでこからキンと音をたてて冷気が響いてくるよう。
私の吐く息が透明な分厚いガラスを白く変え、滑らせた小さな指の跡を残していく。
窓の外は、空だけがリト色になって、半分より下は真っ黒。きっとここに建物があるんだろう。
これは、朝だろうか。
それとも夜だろうか。
もしかして私は今、夜と朝の境目にいるんじゃないだろうか。
特別な瞬間に立ち会っている。その思いが鼓動を早くする。
朝が来る。夜が終わる。
今しかない狭間の時間。
何が変わるだろう、どんなことが起こるだろう。何一つ見逃さないよう、私はじっと影絵のような外を眺めていた。
瞬いて――瞬いて――また、瞬いて。
気のせいだろうか、そのたびに幾重にも重なった黒の布が剥ぎ取られていくよう。
空の色が薄くなって、ただの黒だった部分にうっすら輪郭が見え始める。
「目々、見える。もう、朝」
ほら、窓には私が描いた模様が、ちゃんと黒を透かして見える。
喜び勇んでベッドへ戻ると、まだ寝ているリトを揺さぶった。
「りと、りと、朝!」
獣のような唸り声をあげたリトが、片目だけ開けて私を見て、そしてちらりと室内に目を走らせて大きなため息をついた。
「朝じゃねえわ……寝てろ」
「なない! もう、しゅぐに明るくなる!」
朝が、来るところを見た。
リトにも見せてあげようとぐいぐい布団を引くと、むしろがっちり布団を被って頭の先しか見えなくなってしまった。
焦る私がリトに飛び乗ろうとした時、察したかのように布団の隙間から腕が伸びてきた。
躱す余裕もなく巻き付いた腕が、そのままずるずると私を引きずり込む。
そうはいくかとベッドシーツを掴んで踏ん張ったのに、まるで私の抵抗などないかのように温かい胸の中へ取り込まれてしまった。
「うわ、冷て……目ぇさめるわ。冷え切ってんじゃねえか、馬鹿」
ぼそぼそ言いながら私の頭に顎を乗せ、私を胸元に押し付けるように目いっぱい包み込む。
振りほどくための無駄な努力を……しようとしたけれどダメだった。これはダメだ。
ふうっと体から力が抜ける。
私はリトの脇腹へ手をまわしてすり寄った。
リトは、なんて温かい。
裸足の足に、リトのざらざらする足が触れる。
私の足先が、ちょうどリトの膝あたり。まくれあがっている寝間着をこれ幸いと、よいしょと足でたくしあげて、かじかむ足先を押し当てた。
「うっ……足、氷じゃねえか」
「だって床、ちゅめたかった」
少しばかりリトの足が冷えて、代わりに私の氷が少しばかり溶ける。
「また熱出すぞ、手ぇ寄越せ。いいか、腹に回すなよ」
リトが私の手を掴んで服の中へ入れた。じんと熱い背中の熱が、私の手に染みて痛いくらい。みるまに温かくなった手の平と、足。
手の平と足の裏が温まると、今度は甲の冷たさが気になって来る。
手と足の向きを変えて甲部分を押し当てると、うとうとしていたリトがビクッと震えた。
「くそ……眠れねえ。早く寝ろ」
「だって、もう朝」
「まだ暗いだろうが……あのな、お前が早く起きたって町は寝てんだよ。店も開いてねえの」
言われてハッとした。そうか……行けばいつでもお店は開いている気になっていた。
じゃあ、今この心地いい場所でぬくぬくしている方がいい。
改めてリトの体に頬を押し当てると、すう、と深呼吸した。
布団の匂い、リトの匂い……温かい匂い。
そういえば、リトは温かい匂いはないと言っていた。だけど、そんなことはないと思う。
甘い味はしなくても、甘い匂いだと言うのだから、温かい匂いもあるだろう。だってほら、これがまさにそうだ。
なんていい香り。私は、温かい匂いが大好きだ。
ふくらんでは沈む、胸の動きも好きだ。こうして耳を押し当てていると、空気が吸い込まれていく音と、吐き出されていく音がする。
とっ、とっ、とっ……。
ゆったりと響く鼓動と、空気の移動する音。
生き物が、生きている音がする。
きっと、きっと私も同じ音がする。
ふわりと口角が上がる。
腹の底から、むずむずと何かがせりあがって来る。
リトが、ちゃんと生きていて、私がこうして生きている。
嬉しいことだ。
こんなに嬉しいことが、毎日ここにある。
ぎゅっと腕に力を籠めると、規則的な大きい呼吸が一瞬止まり、ぐっとリトの腕が締まる。
多分、8割、いや9割寝ているリトのそれは、力加減が間違っている。
ぐえっとなったそれだって、私のくすくす笑いを止めるには至らなかったのだった。
「――さあ、出て来たものの……まずどこ行くかなあ」
ざりざりと顎を撫でるリトが、大あくびしながらそうぼやいた。
なんと気合の抜けた顔だろう。
私のお腹は、いつ接敵しても応戦可能な臨戦態勢をとっている。油断など皆無だ。
「くいーむの、ぱん!!」
ぐんとリトの手を引いて腹の底から宣言すると、周囲の人まで私の方を向いた。
リトが慌てて私を抱き上げ、分かってるっつうの、と囁いた。
「けど、クリームパンより美味いモンがあれば食いたいだろ? お前の腹はちっせえから、そんなにいくつも食えねえだろうし。何がいいんだろうな」
言いながら以前服を買った店に入ると、私の服を預けた。
「こいつが気に入ってるから、修繕してくれねえか?」
「まあ……」
以前と同じ店員二人が、同じ顔で『まあ』と言って、そして同じ顔で花のように笑った。
破ってしまって、二人は悲しいかもしれないと思っていた私は、驚いて目を瞬いた。
だって、それはそれは、嬉しそうに見えたから。
「めめなさい……」
小さく伝えた言葉は、ちゃんと聞こえたらしい。
二人はまた、とてもきれいな顔で笑った。
「そんなこと、気にしないで下さいな。服は、あなたと一緒よ。お部屋の中でずっといるより、ちょっと転んでもお外で遊べる方がいいでしょう?」
「私、あなたに服を着てもらって幸せよ! ありがとうね!」
ゆらゆらしそうだった視界を急いで瞬いて、そうなのか、と感心した。
確かに、私だって汚れても、危なくても、外に出たい。それなら、どの服もちゃんと着て、あちこち連れて行ってあげよう。汚れたり、破れたりするだろうけれど、私はそうしたいから。
大きく頷いた私に、二人は満面の笑みで頭を撫でてくれたのだった。
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