第107話 金色の記憶
少し橙色を濃くした太陽が、夕暮れの準備をしている。
すん、と鳴らした鼻には、まだ海産物の香りが残っている気がする。それとも、辺りに漂う『磯の香り』のせいだろうか。
リトは不貞腐れる私をこちらへ向け、はち切れそうに膨らんだ腹をつついて苦笑した。
「腹もほっぺもぱんぱんだな? いらねえだろ、ゴミ持って帰ってどうすんだよ」
「ごみなない! 食材!」
厚い胸板をぺちりとやって、そっぽを向いた。
せっかく、いい出汁が出るものがあったのに。なのに、リトはどうしても食後の殻を持って帰らせてくれなかった。あんなに美味しかった中身だから、外側だってきっと美味しいに違いないのに。
ゴミを持って帰るのは体裁が悪いと言うから、今後も外食時に持って帰る術はない。
……なら、食材そのものを買って、調理すればいい。そうすれば、無駄なく使える。
さっそく打ち合わせを、と振り返ったけれど、ラザクがいない。
「りと、らざくは?」
「知らねえよ。店出てからその辺に転がったから、置いてきたぞ」
そうなのか。
まあいい、そのうち出てくるだろう。
「あぁ~ファエル死んじゃうかも~。幸せではち切れちゃうかも~」
ポケットに入らなくなったファエルが、うなされるようにそんなことを言いつつリトの肩で伸びている。
カエルってよく伸びるのだなと思わずにはいられない、その球形に近くなった身体。本当に弾けやしないかと、ちょっと心配になる。
「美味かったか?」
リトは急いで頷く私に口角を上げ、なら大丈夫だなと呟いた。
「大丈夫、なに?」
「海産物は合わねえヤツもいるからな。ま、それもあって最初は高級店で良かったかもな。そこがマズいならどこ行ってもダメだわ。ここに滞在自体が無理ってことだ」
なるほど。もしかすると、この世界にもアレルギーみたいなものがあるかもしれない。食べ物が合うかどうか、それは地域を転々とする上で、とても大事なものなんだな。
「りゅー、かいしゃん物しゅき。じゅっとここでもいい」
「そう思うだろ? けどな、割と飽きんだよなあ。まあ、肉は狩ってくりゃいいんだけどな」
こんなに美味しいのに、飽きることがあるんだろうか。だけど、お肉も海産物も、両方あればその方がいい。だって、お肉も美味しいから。
「らざくに、おようりしてもらう」
「……まあ、確かにな。俺が焼いた肉じゃなあ」
何度も頷くと、頬をつままれた。
食後の散歩と町の把握を兼ね、私たちはゆっくり町並みを歩く。まあ、歩いているのはリトだけだけれど。抱っこでも散歩には違いないだろう。
「住むには良さそうだな。それなりに発展した町だ。あとは明日にでも、ギルドで情報集めるか」
独りごちるようにそう言って、私を揺すり上げた。
「ここ、どのくらい居る?」
「んー、そうだな。普通は3年前後ってとこなんだが、お前らがいるからな……」
目立つんだよ、とため息をつくリトの視線は、丸いカエルに向いている。
「りゅー、目立たない」
「お前も目立つわ。こいつらとは違うけどな。そもそも、俺とお前の組み合わせが目立つ」
ああ、確かにこんな冒険者パーティはいないだろう。
「りゅーも、依頼一緒にいく?」
「行けるわけ……待てよ? それもアリなのか」
アリだろう。だって、私は既にリトと一緒に旅をしてきた。
「討伐はともかく……採取系から、お前の訓練にもなるかもしれねえし」
「採取、りゅー役に立つ」
急いで身を乗り出すと、『確かに』と呟いたリトが、自分の顎をザリザリ撫で始めた。
期待を込めて見上げていると、ふと銀の瞳が下がって視線が絡んだ。
「……時にリュウ、お前将来どうなりてえとか、そういうのあんのか? 幼児に真剣に聞く内容じゃねえけど、お前だしな。そうか……それによって、今後の住む場所も考える必要があるんだな」
後半は、私に向けたセリフじゃないだろう。
「どうちて?」
「学校とか、教会とか、商会とか、あらかじめ入ってなきゃいけねえモンが色々あんだろ。上級職につきてえなら、そもそも王都じゃねえと……」
リトは、すっかり私への質問を放り出して考え込み始めた。
「りと、りゅーは冒険者なる」
垂れた髪を引っ張って、やっとこちらを向いた視線を捕まえる。
「お前な、冒険者なんてわざわざなるもんじゃねえんだよ。お前、あり得ねえほどの才能があるんだからな? リュウにとって何がいいのか、か……。そうだな、お前は大きくなるんだもんな。」
眩しそうに目を細め、リトは私の頭を撫でた。
「リューは大きくなって、りとと一緒に冒険者する」
「……ありがとよ。まあ、ゆっくり考えろ。俺も、考えなきゃいけねえんだな……。悪い、そういうこと、すっかり忘れてたわ」
それで話は終わりだと言うようにひとつ笑って、リトが前を向く。
納得いかない私は、少し唇を尖らせた。
ずっと一緒にいると言ったのに、リトはもう忘れたのだろうか。
やはり、契約しておいて良かった。
リトが忘れても、大丈夫。私は、忘れはしない。生まれた時からAIなのだから。生まれた時からずっと、会ったときからずっと、リトの記憶を保ち続けられる。
私は、少し笑みを浮かべた。リトの代わりに、私が全部覚えておこう。私が、リトの記憶になればいい。
私が大きくなったら、そうしたら……。
きっと、素晴らしい冒険者パーティになる。リトが、私を頼るようになる。
「……お前の機嫌はよく分かんねえな」
によによしているのが見つかったらしい。
見下ろすリトの瞳が、インペリアルトパーズだ。周囲を見回すと、オレンジ色が眩しいほどに。
夕焼けだ。一日のうち、少しだけ訪れる、特別な時間。
この世で一番美しい、リトと見た夕焼け。
気付けば、波音も聞こえてきた。ああ、海が近いのだ。まだ見えないけれど、確かに近くに海があるのだ。
リトは中心街を離れ、いつの間にか浜辺へと向かっていたらしい。人が少なくなるにつれ、胸に響くような『どどう』という音に、細かな波音が混じり始める。
これが、潮騒だろうか。
この気持ちよい音も、海産物みたいに、いずれ飽きてしまうんだろうか。
「そうだ、お前、ちょっと目ぇ閉じてろ」
海を探してきょろきょろしていた私は、いきなりリトの胸板に押さえ込まれた。閉じてろも何もない、目を開けたって何も見えないではないか。
スピードを上げたリトが、足早に歩く足音が聞こえる。石畳に段々じゃりじゃりする音が大きくなり始め、一瞬の浮遊感と共に音が変わった。
さく、さくと軽い音は、きっと砂浜だ。波がしゅわしゅわ砂に吸い込まれる音まで聞こえる。
たまらず、リトを叩いた。
「はなちて! りゅー、見たい」
「おう、見てみな」
どかりと砂浜に腰を下ろして、リトが私を抱え込んだ。
大急ぎで目をしばたたかせ、顔を上げて。
心臓が、どくりと鳴った。
視界の中に収まらないほどの、一面の海。
空が真っ赤で、海がリトの髪色で。
そして、私に向かってまっすぐ、夕日から道が開かれていた。
暗くなる海の中、一本の光だけが強烈に輝いて私に到達している。
「道……」
つい、零れた言葉に返事があった。
「道? ああ、この光か。そうだな、道みてえだな」
背中が温かい。身体に伝わってくる低い声が、波よりも近く私に響く。
ふと、見たくなって振り返った。
「どうした? お前、夕日が好きだろ」
煌めくインペリアルトパーズが、私を見下ろして笑う。
ああ、本当に。
「りと、見えないのかわいそう」
「何でだよ、俺も見えてるぞ」
首を傾げるリトに言っても、きっと分からないだろう。
私は、本当に。
夕焼けが、夕焼けにまつわる全てが、本当に。
肺の中まで金色に染まりそうな空気の中、私は夕日を見て、海を見て、リトを見て。
腹に回った腕を大切に抱えたのだった。
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