第95話 罪悪感

僅かな感覚の中、ふわふわしているのが分かる。被ったタオルが、服の裾が。

だからきっと、光っているだろう。あの時と同じように。

伏せた目では、落とした五感では分からないけれど。

朧気な意識の中で、長い詩のような言葉を紡いでいく。

「――永遠の星々の御許、この世界において名のあるしゅべてを前に、契約を尊び、しゅいこうする者。りゅー、そしてりと。我は言葉を風にのせ、大地に証言させ、光として天に知らしめんとしゅる者――」


リトは、何も言わない。ちゃんと、そこにいるだろうか。

淡々と言葉を続けるうち、少しずつ、身体から何かが抜けていくような感覚がある。

これが、魔力だろうか。足りなくなったら、契約できないのだろうか。

もう少しだから、もう少しで終わるから……。


「――ばいんど・おぶりげーしょん。契約をちゅむぎ、契約者リュウとリトを結びちゅけよ。双方の血肉に、魂に、契約のきじゅなを刻み込み、真実なる契約の精神を守るよう導け。不履行は不可避なる罰をもたらすであろう……」

全部、言えた……。

口を閉じたその瞬間、ごそりと身体から魔力が引き抜かれた。

思わず膝から力が抜けそうになって、慌てて踏ん張る。

大丈夫、カップは落としていない。

戻ってきた五感を感じながら覗き込むと、あの時と同じように、ほのかに煌めく液体が揺れていた。

安堵のあまり頬を緩め、リトと私のカップに注ぎ分ける。


「契約を、各々の体へ」

リトへ差し出すと、呆然と受け取ったリトが、我に返ってこちらを向いた。

「お前……」

「契約、ちちんとできた」

私は、満足と共に煌めく液体に口をつける。甘いのだろうか、もしや苦いのだろうか。

だけど、期待に反して味というほどの味はしない。ただ、すうっと体に抜けるような。飲み込んだ途端に液体が気体に変わったような、そんな妙な感覚だけがあった。


リトは、まだ飲んでいない。逡巡するようにじっとカップを見つめ、動きを止めている。

『共に在る』ことに不履行なんてない、罰則なんてない。そう思っていたけれど、飲んでくれなければ不履行になってしまう。

「りと」

不安になって見上げると、またハッとしたリトが私を見た。

いつの間にかランプの消えた暗い室内で、液体になった光が揺れる。

リトの銀の瞳に、光が揺れる。


「……無茶苦茶なヤツめ」

リトは、にやっと笑って唇にカップを当てると、私に流し目をくれた。

「いいのか? ……飲んじまうぞ?」

光の映る瞳を見上げ、私はこくりと頷いた。

「とくべちゅな、約束。りとと」

「ああ、特別だ」

私の頭に大きな手が置かれ、リトは私と視線を絡めたまま――飲み干した。

ふわり、一瞬私たち二人の体が淡く光って、吸い込まれるように消えた。


思ったよりも真っ暗になった室内で目を瞬いていると、そっと浮き上がった体が包み込まれた。

「……馬鹿なやつめ。お前、俺のことを知らねえだろ、まだ魂0歳児のくせしてよ」

「りとだって、知やない。りゅーは、これから大きくなる」

どんな姿になるのか、ちゃんと『人』になれるかすら、分からないのに。

AIのことだって、理解していないだろうに。

私は、知っていて、先手を打った。今なら、りとは断れないだろうと思って。

「……りゅー、悪いことをした」


高揚感が、一気に沈んでいく。

私は、リトを騙して契約したも同じ。

それは、悪いことだ。リトに、悪いことをした。

ああ、きっとこれが、罪悪感。重い、重い、この部屋のように真っ暗な。

「めめなさい……」

だって、どうしても、そうしたかった。何の繋がりもないリトだから、せめて、契約で互いを繋ぎたかった。

AIの時の方が良かった。そんなこと、考えたりしなかったのに。

私は、どうやら悪い人間らしい。

今だって、罪悪感の影で思っている。気付いたのが契約してからで、良かったと。


ふいにリトが手を伸ばし、消えていたランプを灯した。

柔らかい夕日色が、色々な影をゆらゆら揺らして、壁の凹凸に模様を描く。

「なんでお前が謝ってんだ? 悪いことはしてねえよ、とんでもねえことはしたけどな」

強い腕に身をゆだねながら、私は自分の小さい爪を見つめている。

「だって、りゅー、悪い人になる」

「なるな、なるな」

可笑しそうに笑って、リトはゆっくりベッドへ腰かけた。


リトが、じっと私を見下ろしているのが分かる。だけど、どうしてか私は顔を上げられなかった。

さらり、固くて温かい手が私のこめかみから後ろへ、髪を梳いていく。

「すげえもんだな、お前、ついこの間まで飯のことしか考えてなかったのに」

その声音は、どう聞いても嬉しそうで。

驚いて、つい顔が上がった。

「しょぼくれてんじゃねえよ、ガラでもねえ」

リトは、やっぱり嬉しそうだった。


「色んなこと、考えるようになったんだな」

「色んなことない、りとのこと」

髪を梳く手がピクリと止まって、リトが息を詰めた。

「……お前な、強烈なんだよ。殺し文句がよ」

はあっと息を吐き、ざりざり自分の顎を撫でながら苦笑する。

「そうか、俺か。俺の事を、『色々』考えたんだろ? あー、それは、その。嬉しいぞ」

私はそっぽを向いたリトを見上げ、目を瞬いた。


「……悪いことでも?」

「悪いっつうのは難しいな。お前は、ちゃんと思いやったろ? 俺のことを。ラザクの契約とは、違ったろうが」

私は、リトが嫌なのは嫌だったから。それは、リトのことを思いやっているんだろうか。思いやったら、悪いことは悪くなくなるんだろうか。

「お前はさ、今までいろんなこと考えてねえもんな。『飯、美味い』『転んだ、痛い』くらいじゃねえの? 0歳児じゃなくなったんだな、成長したってことだ」

そんなこと……そんなことは……ある。私は、そうだった。

今は、今は……。


悪いことをしたから、怒られなくてはダメだと思うのに、リトが怒らなくて、嬉しい。なのに、胸の中は嬉しくない。

罪悪感が苦しいと言いながら、もっと制約をつけても許されたのでは、なんて思いさえ浮かぶ。

まるでバグだらけのコードのように、ウイルスに感染したプログラムのように、秩序を失って修正点を見いだせない。


「そういうもんだ、パキッと決まらねえんだよ。お前がいいと思う頃合いで、取り出してやれ」

眉間にしわを寄せた私の頬をつまんで、リトは楽しそうに笑う。

リトがどうして楽しそうなのか、私にはさっぱり分からない。

「頃合い……? おようりみたいに?」

「料理? なるほどな、まあそうかもな。世界最高に美味いモンを作るんじゃねえんだからさ、大体美味いんじゃねって頃合いでいいんだよ。慣れだよ、慣れ」

「でもりと、おようり上手ない」

慣れていないではないか、と疑わし気に見上げると、鼻をつままれた。

「うるせえわ、でも食えるだろうが」

それは、そうだ。

なんだ、そうか。そのくらいなら、きっと練習すればできるようになるに違いない。


思考はまるで、『おいしい』みたいだ。甘いだけじゃなくて、辛いだけじゃなくて、味だけじゃなくて、何もかもが、全部含まれている。

そして、鍋の底で焦げ付く前に、取り出してやらねばならない。ちょっと生でも、真っ黒でも、食べられるうちに。

「りゅー、ちゃんと取り出した」

「そうか、上出来だ」

「でも、おいしくできなかった」

「食えりゃいいんだよ、鼻摘まんで飲み込め。材料が悪かったんだろ」


材料! そうか、そういう時もある。

私は、ちょっと笑った。

美味しく上手にできるまでには、随分と美味しくない思いをする必要がありそうだ。材料を厳選する目だって鍛えなくては。

0歳児の方が良かったのでは、と思わなくもない。


「……問題は、俺の方。お前に、何も言ってねえ。言わなくても、10年くらいならもしかして誤魔化せるかと……ああ、やっぱり俺が悪いな」

リトは、自嘲気味にそう呟いて、眉尻を下げた。





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アルファポリスさんの方はイラストをたくさん載せられるので、いただいたイラストのページを作りました!

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