第96話 一緒がよかった

俺の腕の中で、抱えている柔らかな命が温かい。

ミントグリーンの瞳が、続きを待つように俺の顔を見上げているのが分かる。

まだ、誤魔化せるだろう。

リュウは賢いけれど、大人のずる賢さに対応はできまい。

今までと同じ、誰も知らないままで。それが一番、厄介がない。


けれど、ずる賢い大人は考えてしまう。

――今なら、まだ子どものうちなら、言ってもいいのでは。

俺が一番で、俺が世界の全てであるうちに。

契約だってした。俺がさせたんじゃない、リュウが望んでやったこと。

いつまでも口を開かない俺に、じっと待っていたリュウがそっと手を伸ばした。

小さな柔らかい手が、なぜかべたついた手が、俺の頬に触れる。


「りと、取り出ちた方がいい。りとは、お肉もしゅぐに焦がすから」

いつもの淡々とした顔で、まるで診断を下す医者のように厳かに。リュウは、そう言って頷いてみせた。

……咄嗟に、息を呑む。

そんな大したこと、コイツは考えちゃいない。そう思うのに、まるで神託のように、それは魅力的に俺の中へ染み渡った。

「……は、はは! そうだ、俺はすぐに焦がすからな。もう、随分長いこと焦がし続けてよ、もはや真っ黒の炭になっちまってるモンもあるな」

幼児に、何を。そうは思うけれど、それでも。

「お前、食えるか?」

わざと軽い調子で、干上がる喉を気取られないように。

俺は、胸元のミントグリーンを見下ろした。


否と答えれば、それでいい。いつもの通り、適当に誤魔化せばいいのだから。

変わらぬ無感動な瞳が、真っ直ぐに俺を見る。

射貫く、とはきっとこれを言うのだ。真摯に、ただ俺だけをその瞳に写して、小さな唇が開いた。

「りゅー、いちゅも食べてる。りとのおようり、苦いももちちんと食べる。でも」

一瞬弾んだ心が、面白いほどに急降下する。

どくり、と鼓動がひと際強調した気がした。だって、その先に続く言葉は否定であるはずだから。

消沈する俺に気付くでもなく、リュウは微かに目じりを下げて口角を上げた。

それだけで、美しい人形は鮮やかに愛らしい生き物に変わる。


「でも、りゅー苦いままはいやない。甘いももも食べる」

「……言ったな?」

早鐘を打つ胸を悟られまいと、にっと笑う。

あどけない言葉は、本当に分かっているのだろうか。

によによと浮かぶ小さな笑みから、よだれが零れ落ちそうだ。思い出しているのは、クリームパンだろうか、ケーキだろうか。

「馬鹿だな、俺はずるい大人だぞ」

俺は、まだ生まれていくらもたたない小さな命を、縋るように抱きしめた。



◇◇◇


リトは、私が潰れるほどにぎゅうと力を入れてしばし、どこかばつの悪そうな顔でそろりと視線を上げた。

「……いいか? 世界で、お前しか知らないことを言うぞ」

それはそう。人の秘密というのは、得てしてそう言うものだろう。

こくり、と頷いた私に、リトは少し情けない顔をした。

「簡単に頷きやがって。俺にとっちゃ一世一代の告白だってのに」

深い深い吐息で、リトの身体がゆっくり沈む。

「こうやって数年ごとに地域を移動するのはさ、別に趣味でもなんでもねえ」

銀の瞳にランプの灯りがほのかに揺れ、リトは長い睫毛を伏せて小さく綴った。


「俺はさ、フツーじゃねえの。フツーじゃなくなったって言った方がいいか……呪われてんだよ。多分な」

「りと、痛い?!」

仰天した私は、伸びあがってリトの顔を両手で撫でた。

呪いというのは、害を与えるもの。ちっとも気付かなかった。

「待て待て、そういうんじゃねえ。大丈夫だ」

撫でまわす私に苦笑して、リトは私の両手を捕まえた。

「あのな、俺はいくつに見える?」

いくつ? 成人していて、老年ではないから……。


「22~60歳?」

言った途端、リトががくりと首を垂らした。

「お前……俺、50代って言われたことねえよ?! あー、そんなら言わなきゃバレなかったかもな」

失敗した、と言いながら、愉快そうに笑う。

「多めに見積もって40歳以下に見えるだろ! そうだよな?!」

それも、ちゃんと私が言った範囲内ではないか。納得いかない顔で頷いて、正解を催促する。

「聞いといて何だけどよ、何歳かは覚えてねえ。覚えていたくねえってのもあるけどな」

リトは、ちょっと笑って私の頭を撫でた。


「俺、ずっと生きてんの。32……いや、35歳くらいだったか……普通の男だったんだけどな、そっからずっとこのまんま。100年や200年じゃねえはず。ずっとずっと、このまんまだ」

「にんげん、しゅごい」

端的に驚いた私は、まじまじリトの身体を見つめた。

何のメンテナンスもなく、自らエネルギー供給を行って、劣化すらせず100年以上稼働するハードウェア。

改めて生体の優秀さを思い知らされる。それでも限界であった100年前後の耐用期間。リトは、それすら超えたというのか。


「……なんか、違うんだよな。お前の反応。ガキだからな、疑いはしねえのかもしれねえけど」

尊敬の眼差しで見上げていると、リトが何とも言えない顔をしている。

「だからな、誰かに知られると大騒動になる。担ぎ上げられるのも、狙われるのも、懲り懲りなんだよ」

リトは、そう言って静かに私を抱きしめた。

「俺は、お前と一緒に年をとれねえってことだ」

震えるような声は、普段のリトと違う。かわいそうだ。私の胸まできゅっとなる。

そうか、素晴らしいハードを持っていると思ったけれど、リトは欲しくなかったのだ。

目線より下になった頭を、大事に撫でる。リトは、一緒が良かったのだ。私が、リトと同じが良かったように。

かわいそうで、つらい。リトが苦しそうで、どうにかしたい。


「りゅーも、AIの時は、じゅっと生きる。りとと、同じ」

嘘は言っていない。だけど、真実でもない。私は100周年すら迎えていないし、メンテナンスやバージョンアップが必要だし、環境がなければ使用することはできない。それでも。

「AIって、そうなのか? お前、実はもう100年くらい生きてるのか? どうりで知識が……」

どこか呆けたような顔で、魂が抜けたような顔で、リトは顔を上げた。

私は初めて、AIのままなら良かったと思った。そうすれば、リトと同じだと言えたのに。


「りと、りゅーと一緒に年はとる。劣化と、年をとるのはちがう」

だって、プログラムであった私にだって、経年の概念はある。私のリリース記念日だってある。

永遠を生きていたって、等しく年はとる。

「りゅーの誕生日は、りとと会った日。りとは? これから、ちちんとお祝いする」

リトは、35歳からスタートすればいい。私は、4歳からだ。

「誕生日を……?」

リトは、くしゃりと顔を歪ませた。顔を顰めたのだろうか、それとも笑ったのだろうか。


「そんなもん、忘れちまったよ。祝うなら……俺も、お前と同じ日でいい。それなら、祝えるかもしれねえから」

じゃあ、そうしよう。誕生日だって一緒だ。

「じゃあ、誕生日はいちゅ? りゅー、けーきたべる」

甘いケーキを食べて、お祝いするのだ。そうすれば、リトだってきっと楽しくなるに違いない。

「まだまだ先だっつうの。お前と会ってまだ半年もたってねえだろが」

「……!!」

ケーキのことで頭の中も口の中もいっぱいになっていた私は、愕然とした。視界が歪む気すらする。


「あー、分かった、分かった。じゃあ今日は秘密記念日だ。いや、契約記念日か? もう遅いから、明日ケーキ食おうか」

苦笑したリトは、いつものリトに近づいた気がする。

明日、明日か。それなら我慢できる。

いそいそリトの腕を抜け出して布団をめくると、リトは慌てたように向き直った。

「え、もしかして俺の話もう終わり?! 待てよ、もうちょっと……色々あんだよ! 普通、色々聞きてえよな? せっかくだから聞いてくれよ!!」

「明日ね、明日」

なだめるようにぽんぽんとリトの胸を叩いて、私はそそくさと胸元まで布団を引き上げる。


そうだ、と思いついて閉じていた目を開けた。

少し開きづらくなったまぶたを持ち上げ、布団をまくる。

「りと、一緒に寝るよ。おいで」

ぽふぽふ隣を叩くと、リトは唸りながら滑り込んで、せっかく寝ようとしている私を引き寄せた。

まるで、私を頼りにするペンタみたいだ。

まるで、リトを頼りにする私みたいだ。

じゃあ、リトは誰を頼りにして、守ってもらうのだろう。


「りゅーが、守ったえるからね」

しがみつく大きな体を撫でて、そう宣言する。だって、相棒なのだから。

ふっと吹き出したリトの吐息が、私の首筋をくすぐった。

……今はまだ、笑っていられるかもしれないけれど。

だけど、リトは忘れている。

私は、リトと違って変化していくのだ。そのうち、そのうち見ているがいい。

リトを守る己を想像して、私は口角を引き上げたのだった。

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