第105話 しんどいない
とろり、ぬくもりに溶けて広がるような感覚にほうっと息が漏れて、まぶたが持ち上がった。
リトがいる。リトの大きな手が、私の頭を支えている。
なら、いい。
とても心地良いのに、再び目を閉じようとして揺すぶられた。
たぷたぷ、揺れる水音と浮遊感、温かい水。
「おいおい、この状況で寝るなよ……。起きねえと顔が洗えねえよ」
苦笑したリトが私の鼻をつまむと、何やらじゃりっと痛い。
そうか、砂……。私は、海へ行って、それで。
「りと、手々に砂ちゅいてる」
「俺じゃねえわ、砂と塩まみれなのはお前だ」
言われて頬を撫でると、じゃらじゃら不思議な手触りがする。
「起きたなら、そこ立ってろ」
ふわふわする湯の中に立って、驚いた。なんと私は服を着たままお風呂に入っている。
「りと、りゅーの服! りゅー、服まま入ってる」
「知ってるっつうの。べったべたで脱がせらんねえんだよ、砂まみれだしよ」
首まで浸かった湯の中で、リトが不器用そうに私の服を剥がしていく。
さんさんと明るい日の差し込むお風呂の中で、びっくりするくらいたくさんの砂が、きらきら水の中を落ちていく。足下へ積もって、足裏がざりざりする。
パンツの中まで入っていた砂で、方々がチクチク痛い。
「もうそこで砂落としてしまえ。どうせ湯は抜くからよ」
小さな手を滑らせると、面白いようにざらざらが消えて、滑らかな肌に変わっていく。
私の身につけていたものを全部剥ぎ取って、リトも上着を脱いで側のカゴに放り込んだ。
「りとも、砂ちゅいた?」
「そうだな! 濡れた砂の塊抱えて歩いたからな?!」
『目ぇつむれ』の声で目と同時に口も噤む私は、もう手慣れたものだ。
ざあ、と勢いよく頭から注がれたお湯が、湯船でばちゃばちゃ跳ねる。
ごしごし顔を擦った手の平から、ざらつく感触が消えていく。
「砂――」
取れたと言うより先に、再び頭からお湯を掛けられて咽せた。
「目ぇ閉じてろって……あ、口は言い忘れたな」
ちゃんと閉じていたのに! 次は油断すまいと目も口も閉じたまま待っていると、リトが私の髪をかき混ぜている気配がする。ペンタは、どこへ行ったんだろうか。
「ほら、いいぞ。温まるまでそこにいろよ」
どうやら冷えていたらしい身体は、ぬくぬく温かくほぐれて心地良い。
冷たい水も楽しかったけれど、温かい水の方が気持ちが良い。
次に海に行った時の練習をしておこう。
ざぶり、ざぶり、足を上げて慎重に歩き回る私をチラチラ見ながら、いつの間にか服を着たリトが、大きいタオルを持ってきた。もうお風呂をすませたのだろうか。
「りゅー、まだいる」
熱心に歩き回っていると、むしろ熱くなってきた。今なら、海に入るとちょうどいいかもしれない。
「勘弁してくれ……腹減った……もう昼過ぎてるぞ」
言われてみれば、お腹が空いた気もする。そして、それよりとても喉が渇いている。
「りゅー、おみじゅ飲む」
「おう、そうしろ。……あ、やべえ、風呂入る前に水飲ませろって言われてた」
「おみじゅ、いっぱいある」
今日の湯船の水は、中で身体を洗ったのだから飲めないだろう。だけど、魔道具から出てくる水がある。
「飲むなよ? 腹壊すこともあるからな」
そうと気がついてみれば、干からびそうな渇きで、舌まで乾燥している。さっき、お湯を被ったのに。
抱き上げて下ろされた途端、ふらりとした。湯船にいたせいで、また身体が浮力に馴染んでしまったのだろうか。
ふかふかのタオルに包まれると、あまりの心地よさに目が回りそうだ。
チクチクも、ざらざらも、べたべたも、冷たいもなくなって、触れる全てが気持ちいい。
ただ、喉が渇いた。
「おみじゅ。りゅーの、水筒」
眠いのだろうか、ふわふわした心地でリトに手を伸ばす。
「部屋に置いてきたな。お前、まだ眠いのか? 一旦戻るか」
目を閉じてこくりと頷き、リトの腕に身を預けた。なんとなく、頭が普段より重くなっている気がする。まさか、水を吸ってふやけるわけでもないだろうに。
なんだか、今日はもう寝てしまいたい気がする。
「リトぉ! おい、やっぱ追加の金くれ!!」
穏やかな空間を引き裂くようなダミ声が響いて、目が開いた。リトの眉間にびしりとシワが寄っている。
ラザクだ。リトを瞬時に怒らせるのは、ラザクしかいない。
「さっきやった分はどうした?! てめえ、借金返す気あんのか!」
「おおよ、決まってんだろ――ん?」
ふいに言葉を切ったラザクが、ずいっと近付いて……
「ちょ、おい! リトてめえ、ちゃんと見てろ! 水は? 飲ませたのかよぉ!」
「だから、今から……」
「部屋行け、部屋!! 冷やせ冷やせ! 真っ赤じゃねえか!」
「そりゃ、風呂入ったから……」
ラザクの勢いに物理的に押されながら、リトが部屋へと足を向ける。
バタバタ部屋へ駆け込むと、口元へひやりと何かがあてがわれる。
水筒……? 瞬間、覚醒した私は一気にそれを掴んで吸い込むように身体へ流し込んだ。
「飲め飲め! 冷えた果実水は堪んねえよなあ? 遠慮なく飲め、リトの金だ!」
「てめえ、そんなもんに使いやがって……」
美味しい。美味しい。
ひび割れた地面に水が染みこむように、みるみる身体が潤っていく。
「あと、なんかないか、冷えたモン……」
「ちょ?! 何この我の扱い!」
ビタっと首筋に貼り付けられたファエルがうるさい。
果実水を飲みきって、はふ、と冷えた吐息を漏らして。
うっとり染み渡る水分の余韻に浸った。
気付けば二人がかりで盛大に扇がれて、髪が強風に乱れている。
涼しいけれど、なぜ。
「どうだ、マシになったかよぉ?」
「まし……?」
「しんどかったろうが! てめ、無表情にもほどがあんだよ! もうちっとしんどそうにしやがれ!」
言われて首を傾げた。しんどかったろうか?
しんどいと言うのは、もっと辛いものだ。
もっと、もっと、灰色で、穴が空いて、五感が機能しなくなるものだ。
ありとあらゆる不快が身体を埋め尽くして、息だけしている時のことだ。
「りゅー、しんどいない」
「鈍感すぎィ! こいつ、死んでも気付かねえんじゃねえの?!」
ラザクが扇いでいたうちわでべしっと私の頭を叩き、リトがハッと顔色を変えて私を抱え上げた。
「リュウ、これは十分『しんどい』ことだからな。熱が出たり、疲れたり、悲しかったり、全部『しんどい』ことだからな。ごめんな、俺はあんま気が回らねえんだよ」
しんどい? これが? 宿で熱が出た時も、今も、リトが側に居る。これは、『幸せ』だと私は思うのだけれど。
怪訝な顔を見てとって、リトが苦しげに笑った。
「死ぬ間際の辛さを基準にするんじゃねえよ。お前、極限を経験しすぎなんだよ」
ぐっと力を入れて抱きしめるから、呼吸がしづらい。リトの方がずっとしんどそうで……かわいそうだ。
よしよし、とその背中を撫で、頬をすり寄せる。
「大丈夫。りとも、しんどいない。りゅーがいるから、大丈夫」
「…………なんで俺だよ」
ぶすっとむくれたリトは、それでもさっきよりずっと大丈夫な顔だ。
「お前は、もう少し自分の状態に敏感になってくれ。こういう時は、ちゃんとしんどいって言え。じゃねえと、俺は気付かねえかも」
そうか。リトが不得意なら、私がサポートをしよう。こくりと頷いて、きちんとリトに伝えておく。
「りゅー、しんどいの、しわわせなった」
「しんどくて幸せ? 意味が分かんねえよ」
「しんどい時、りとはいっぱいりゅーといる」
リトはいつも側に居るけれど、リトの言う『しんどい』時はもっと近しく側にいる。もっとじっと私を見る。
呼吸のひとつも逃すまいと見つめる、気遣わしげな銀の瞳が好きだ。私を気に掛ける、その全てに満足する。もっと、もっと見たら良い。
「りと、しんどいない時も、いっぱいりゅーを見たらいい」
「……なんだよ、そりゃ」
可笑しそうに、はにかむように、リトが私の頬をつまむから、きっとリトには伝わっただろう。私が、確かにそう思っていることが。
「はーっ、古今東西、幼子は強欲で憚らないものよ」
「違いねェ、親の愛は注ぐ雨のごとし、受ける子は大地のごとしってなぁ!」
私の首に貼り付いたファエルと、ラグにふんぞり返って自分を扇ぐラザク。やはり、気が合いそうだ。
気付けば身体のふわふわも、ぼんやりしていた頭の霞もなくなっている。
どうやら、軽度の脱水と熱中症になりかかっていたのかもしれない。
でも、霞が取れると急に他が気になってきた。
「りと、りゅー朝ごはん食べる」
さあ、と腕から抜け出すと、一瞬間の抜けた顔をしたリトは『もう朝じゃねえわ!』と怒ったのだった。
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2024/9/8の文学フリマ大阪にて、デジドラの日常SS集的なのを出そうかなと思ってます。
時間的にたいした量にはならないですが、その分お手軽にお求めいただける色々詰め合わせ小冊子みたいな……。
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